渋谷の「ユーロスペース」で上映された超話題作「神々のたそがれ」を観ました。
 「神々のたそがれ」は、アンドレイ・タルコフスキー監督の代表作「ストーカー」の原作者として知られる、ロシアで最も著名なSF作家ストガルツキー兄弟の小説を15年の歳月をかけて映画化したものです。しかし映画完成目前にゲルマン監督が急逝し、息子の映画監督アレクセイ・ゲルマンJrによって完成されたという、いわくつきの作品です。繁栄を極める全人類に唾を吐いた壮絶な映画として世界中の話題を呼び、「空前絶後」「21世紀の最高傑作」との呼び声も高い作品です。

 公式HPの「物語」には以下のように書かれています。

「地球より800年ほど進化が遅れている別の惑星に、学者30人が派遣された。その惑星にはルネッサンス初期を思わせたが、何かが起こることを怖れるかのように反動化が進んでいた。王国の首都アルカナルではまず大学が破壊され、知識人狩りがおこなわれた。彼らの処刑にあたったのは王権守護大臣ドン・レバの分隊で、灰色の服を着た家畜商人や小売商人からなっていたこの集団は"灰色隊"と呼ばれ、王の護衛隊は押しのけるほど勢力を担っていた。」

 続いて、公式HPの「解説」には以下のように書かれています。

「地球から派遣された学者の一人に第17代貴族ドン・ルマータと名乗る男(レオニド・ヤルモルニク)がいた。 ルマータは、地域の異教神ゴランの非嫡出子であるとされていた。誰もがこの話を信じたわけではないが、皆ルマータのことを警戒した。 知識人たちの一部は隣国イルカンへ逃亡した。そのなかには農民一揆の頭目である『背曲がりアラタ』や、錫鉱山で使役される奴隷たちもいた。ルマータはアルカナルに潜入し、知識人たちを匿うべく努めていた」

 そして、公式HPの「解説」には以下のように書かれています。

「ある日、ルマータは皇太子のいる寝室で当直の任務に就く。だがその直後に、彼は寝室に押しかけた"灰色隊"に取り囲まれ、逮捕を告げられる。ルマータは抵抗するが、結局捕まって連行される。"灰色隊"の隊長クシス大佐がルマータに絞首刑を宣するが、その直後にドン・レバ率いる"神聖軍団"の修道僧たちが大佐を撲殺する。やがて街に"神聖軍団"が集結する。ドン・レバは彼らに"灰色隊"を殲滅させ、自らの主導による新たな政権を確立しようとしていた・・・・・・」

 公式HPの「解説」には以下のように書かれています。

「アレクセイ・ゲルマンがストルガツキー兄弟のSF小説『神様はつらい』[邦訳は太田多耕訳『世界SF全集24 ゴール、グロモワ、ストルガツキー兄弟』(早川書房、1970年)所収]映画化に向けて動いていると報じられた際、その報道は世の映画関係者の間にかなりの驚きをもたらし、強い好奇心をかき立てたといわれる。
その理由としては、ゲルマンがそれまでに作ってきた映画の主題はいずれもソビエト連邦成立以降を時代背景とし、かつ実際の歴史的出来事に材を採ったものであり、この作家が空想科学小説を原作とする作品を撮ることなど、ほとんど誰も想定していなかったからである」

 続いて、公式HPの「解説」には以下のように書かれています。

「しかし実のところ、ゲルマンは1964年に発表された『神様はつらい』を自身の監督第一作の原作にしようと目論んでいた。一説によると、刊行直後に早くも映画化を考え始めたとされる。そして彼は、『七番目の道連れ』(67)をグリゴーリー・アローノフと共同監督した直後の1968年に、同小説に基づく脚本第一稿を書き上げていた。だが1968年8月下旬に、チェコスロヴァキアの自由化政策(プラハの春)に対してソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事介入をおこない、チェコ全土を占領したうえ指導者を逮捕しモスクワへ連行した。このいわゆる『チェコ事件』によって、「神様はつらい」映画化の可能性の芽は摘み取られてしまった。」

 公式HPの「解説」では「製作の再開」として次のように書かれています。

「ゲルマンが本作の撮影に着手したのは、映画化の構想を立ててから実に約35年後にあたる2000年のことだ。しかし撮影にも長期を費やし、すべての素材を撮り終えたのは2006年のことだった。撮影に臨み、ゲルマンはいつも通り、劇中に登場する異星都市アルカナルを──今回描かれるのは、従来の作品と違って架空の世界であったにも関わらず──本物らしく見せるために調査をし、細部に注意を払っていた。
撮影は、チェコ共和国とロシアでおこなわれた。撮影を担当したのは、『フルスタリョフ、車を!』を手がけたウラジーミル・イリネと、『スラム砦の伝説』(セルゲイ・パラジャーノフ、84)や『ムムー』(ユーリー・グルィモフ、98)のユーリー・クリメンコの二人である」

 公式HPの「解説」では「配役」として、以下のように書かれています。

「主人公ルマータ役を演じるのは、『ミッション・イン・モスクワ』(ヴァディム・シメリェフ、06)、『ナイト・アベンジャー』(アンドレイ・マーモントフ、11、DVD発売のみ)のレオニド・ヤルモルニク(1954年~)。ヤルモルニクは、本作の製作者も兼任している。ルマータの友人パムパ男爵役を演じているのは、ゲルマンの前作『フルスタリョフ、車を!』(98)で主人公ユーリー・クレンスキーを演じたユーリー・アレクセーヴィチ・ツリロ(1946年~)。 エキストラも全員、ゲルマン自身が選んでいる」

 さらに公式HPの「解説」には、「監督の死から完成まで」として、以下のように書かれています。

「撮影が長引いた一因には、ゲルマンが細部に徹底的にこだわるいつもの姿勢を貫いていた事実もあるようだ。六年間におよぶ撮影期間中、老齢の俳優のなかには亡くなってしまった者もいた。さらに編集に、約五年もの歳月を要することになる。製作が最終段階に入っていた2013年2月21日に、監督が亡くなる。しかしこの時点で、映画はほとんど完成していた。妻で同作の共同脚本を手がけたスヴェトラーナ・カルマリータと、息子で映画監督のアレクセイ・ゲルマン・ジュニア(1976年~)が、ポスト・プロダクションの最終工程を引き継ぎ、『神々のたそがれ』は完成へと導かれた」

 公式HPには、信じられないような豪華メンバーによるコメントが多数紹介されています。以下に、その一部をご紹介します。

≪ 傑作の概念を遥かに超えた途方もない作品 ≫
これを見ずに映画など語ってはならない。
傑作の概念を遥かに超えたこの途方もない作品を前に、久方ぶりにそう断言しうる僥倖を、彼岸のゲルマン監督に感謝しよう。
蓮實重彦(映画評論家)

≪度し難い「人間」の愚行への深刻な問いの映像≫
「神」は退位し、リヴァイアサンは到着していない。さながらラブレー、ボッシュが幻視した〈生〉だけの光景だ。 汚辱、痴愚、殺掠の社会をみかねて、八百年後からの観察者は、神を騙り統治をこころみるがジェノサイド(燔祭)に到る。アレクセイ・ゲルマンの、度し難い「人間」の愚行への深刻な問いの映像にあなたは三時間、眼をそむけることもできずに、金縛りにあうだろう。
磯崎 新(建築家)

≪これはたんに見るだけの映画ではない≫
ルネサンスの期待は中世への退行によって裏切られ、解放は抑圧、知は狂信、富は貧困、平和は暴力を生む。歴史の悪循環をそのように俯瞰することすらここでは不可能だ。際限のない泥と糞の海を横切りつつ、視界が限られた中で、すべてに触れ、嗅ぎ、舐め、吐き捨てるほかはない。そして、言葉というより声、音楽というより音に耳を澄ますこと。これは、たんに見るべき映画ではなく、そうやって全感覚で体験すべき映画なのだ――ラブレーやブリューゲルの世界に身体ごと放り込まれたかのように。
浅田 彰(批評家)

≪ゲルマンはダンテの神曲を凌駕した≫
この作品をダンテの「地獄篇」にたとえた人もいるが、神が途方もない大殺戮をはじめる終末で、ゲルマンはダンテの神曲を凌駕したと思った。「神でいることはつらい」の認識まではダンテは達しなかった。
立花隆(評論家・ジャーナリスト)

≪この作品は強烈な竜巻のごとく、全ての映画を粉砕する威力がある≫
『神々のたそがれ』は強烈なインパクトを与える自然現象であり、過去に撮られた作品全てを粉砕するだけの威力を持っている。映画作品とは竜巻と同じく自然現象なのだ。竜巻は悪だとする考えもあるだろう。しかし竜巻無しの自然はありえない。竜巻は自然の不可欠の一部なのだ。今後、この作品を抜きにして映画とは何かを知ることはできない。
ユーリー・ノルシュテイン(映画監督)

≪アレクセイ・ゲルマンに比べれば、
タランティーノはただのディズニー映画だ≫
不寛容、狂信、言語に絶する残虐からなるこの地獄において、観客はわれ関せずの態度を取ることなどできない。他人事であるかのような、この"物語"があなた個人には関係がないかのような態度を取ることはできないのだ。そうではなく、この映画はまさしくわれわれのことを描いているのである。われわれに起こるかもしれないこと、あるいはすでに起こってしまってさえいることを。ウンベルト・エーコ
(哲学者、小説家)


 3時間以上もある「神々のたそがれ」を一気に観て、わたしはグッタリ疲れました。そして、「凄いものを観てしまった!」と思いました。
 こんな奇妙で、不愉快で、観ている者の意識を変容させるような作品は初めてです。とにかく、糞だらけ、唾だらけの場面が延々と続き、画面の向こうから悪臭が漂ってきそうでした。まさに、ラブレーやボッシュやブリューゲルらが描いた混沌とした世界を思い起こさせます。まるで絵画が動いているような錯覚にとらわれる映画でした。

 また、ヨーロッパ中世を彷彿とさせる鮮烈なモノクロームの画面から、わたしは過去に観たさまざまな映画を思い出しました。たとえば、イングマール・ベルイマンの「第七の封印」をはじめとする一連の作品。たとえば、マルセル・カルネの「悪魔は夜来る」。たとえば、トッド・ブラウニングの伝説的カルト映画「フリークス」。それらの作品が次々に心に浮かんできました。

 そして作品のマニエリスム的雰囲気から、自分でも意外なのですが、黒澤明の「蜘蛛巣城」を連想しました。「神々のたそがれ」で主役のドン・ルマータを演じたレオニード・ヤルモルニクの顔が三船敏郎に見えてきました。また、人間世界を俯瞰するような視線は「乱」にも通じるような気がします。もし"クロサワ"がこの映画を観たら、いったい何とコメントしたでしょうか?

 ともあれ、三日連続で映画鑑賞をしてしまいました。
 ちょっとでも時間があったら、『唯葬論』や『永遠葬』の原稿を書かなければいけないのに困ったものです。しかしながら、ブログ「イミテーション・ゲーム」で紹介した映画は『唯葬論』に、ブログ「博士と彼女のセオリー」で紹介した映画は『永遠葬』に多大なヒントを与えてくれました。せめて、「神々のたそがれ」ぐらいは執筆のことを考えずに映画そのものを楽しみたいと思ったのですが、どっこい、そうはいきませんでした。まったく困ったものです。

 この映画、とにかく死体がよく登場するのです。それも、内臓が飛び出ているようなエグイ死体です。あらゆる場面で死体が吊るされ、転がされ、山積みになっています。その数がハンパではありません。
 わたしは『死が怖くなくなる読書』(現代書林)の続編として『死が怖くなくなる映画』という本をいつか書こうと思っているのですが、これだけ人(異星人)がバンバン殺され、無造作に死体がゴロゴロ転がっているこの映画を観れば、ある意味、感覚が麻痺して「死」が怖くなくなるかもしれません。
 しかし、それらの死体の多くは異星人であり、人間ではありません。人間でない死体を見ても、不思議と心は乱れません。ということは、異星人のみならず、異民族や異教徒の死体を見ても、人は何とも思わない可能性があるという事実に気づきました。恐ろしいことですね。

 地球人ではない異星人の死体は、当然のことながら弔われません。それを観ながら、わたしは「地球上の人類だけが埋葬をし、葬儀をする」ということに気づきました。ちょうど今、『葬制の起源』大林太良著(中公文庫)という本を再読しているのですが、わたしは「なぜ、人類は死体を埋葬するのだろう」「なぜ葬儀をあげるのだろう」と考えました。そして、その考えが頭から離れなくなってしまったのです。いやはや、本当に困ったものです。

 でも、映画の中で転がっている死体には「嘆きの帽子」と称する黒頭巾のようなものが被せられていました。また、目を見開いたまま絶命している死体の目を閉じてやる場面もありました。これらの行為も、ある意味では「葬」の営みかもしれません。その背景には、明らかに「人間尊重」の精神が潜んでいるからです。「空前絶後」にして「21世紀最高傑作」とも呼ばれるSF映画を観ながら、わたしはそんなことを考えました。

 ところで、上映館である「ユーロスペース」はミニシアターの名門です。
 しかし、久々に訪れてその狭さに驚きました。100人ちょっとしか入れないのではないでしょうか。また、ネット予約を受け付けておらず、チケット売り場に直接入っても、整理券をくれるだけで基本は自由席。座席の指定もできないので不便です。時間が来れば入口の前に集まって、整理券の番号順に5人づつ入場していくのです。こういうの、昔は「オシャレ」と思っていましたが、今は不便なだけです。はっきり言って、時代遅れです。

 そして、「ユーロスペース」の最大の問題は2ヵ所ある出入口に急な階段があり、そこが暗くて見えないこと。これは非常に危険で、この日も老婦人が階段で転んで頭を打って失神し、駆け付けた救急車に運ばれました。その方以外にも、階段でけつまづいて転倒しそうになった人を4~5人は目撃しました。映画館は、カッコばかりつけずに緑色の「非常口」などのサインを至急設置すべきでしょう。死亡事故でも起きてからでは遅いですから。

 そもそも、こういう映画史上に残るような大作はミニシアターではなく、大きな劇場で全国ロードショーしてほしいものです。まあ、その需要がないのが辛いところですが、前日の「博士と彼女のセオリー」といい、この日の「神々のたそがれ」といい、東京でしか観られない映画でした。地方に住む者は文化的ハンディを負っているのです。

 映画が終わって「ユーロスペース」を出ると、渋谷の円山町の街並みが眼前に広がっていました。昭和の香りを漂わせるラブホテルが立ち並び、妖しいムードです。わたしは、そういえば円山町はブログ「園子音の世界」で紹介した園子音監督の問題作「恋の罪」の舞台であったことを思い出しました。そして、スプリングコートをホテルに置いたまま渋谷に来てしまったわたしは寒さに身を縮め、ラブホテル街のネオンを眺めながら、突如心に浮かんだ「ダンチョネ節」を歌いつつ渋谷駅に向かうのでした。ダンチョネ~♪

  • 販売元:IVC,Ltd.(VC)(D)
  • 発売日:2015/12/18
PREV
HOME
NEXT