No.0186
映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を遅ればせながらレイトショーで観ました。第87回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の4部門に輝いた話題作です。
ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『バベル』などのアレハンドロ・G・イニャリトゥが監督を務め、落ち目の俳優が現実と幻想のはざまで追い込まれるさまを描いたブラックコメディー。人気の落ちた俳優が、ブロードウェイの舞台で復活しようとする中で、不運と精神的なダメージを重ねていく姿を映す。ヒーロー映画の元主演俳優役に『バットマン』シリーズなどのマイケル・キートンがふんするほか、エドワード・ノートンやエマ・ストーン、ナオミ・ワッツらが共演。不条理なストーリーと独特の世界観、まるでワンカットで撮影されたかのようなカメラワークにも注目」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台『愛について語るときに我々の語ること』に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め・・・・・・」
第87回アカデミー賞は、下馬評ではブログ「ゴーン・ガール」、ブログ「アメリカン・スナイパー」、ブログ「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」、ブログ「博士と彼女のセオリー」などで紹介した映画が有力候補として名前が挙がっていましたが、しかし結果は、「バードマン」が作品賞をはじめ、最多4部門で受賞しました。「審査員たちは、エンターテインメントとしての映画を見下げて、形而上的な作品を過大評価した」などという批判がネット上に踊り、それを読んだわたしは「バードマン」とは小難しくて面白くない映画なのだろうという先入観を抱いてしまいました。
また、タイトルの「バードマン」に続く「あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」というのも、いかにも知的スノビズムの臭いがプンプンしており、わたしも「何を気取ってやがる!」と内心は思っていました。
ところが、実際に観た感想は大違いで、「こんなに面白い映画だったとは!」と感動すら覚えました。リーガンがブリーフ1枚の姿でブロードウェイを歩き回るシーンは圧倒的な迫力でしたし、彼の娘サラが「ブログ、ツイッタ―、フェイスブックで発信しない者など、存在しないのも同じ」と語った言葉も印象的でした。さらに、ブログ『共同幻想論』で紹介した本の内容ではありませんが、映画や演劇が観客に与える「共同幻想」と主人公リーガンの抱く「個人幻想」の違いが興味深く描き分けられており、一種の哲学映画としても傑作だと思いました。いや、他の候補作を寄せ付けない完璧な作品でした。うーむ、アカデミー賞の審査員はやはり侮れないですね。
さて、わたしは2日前に『唯葬論』を脱稿したばかりです。600枚に及ぶ原稿の書き下ろしで、しかもテーマが手強かったこともあり、脱稿後は放心状態となりました。このままでは現実に戻ることがしんどいなと感じ、あえて非現実的な映画でも観て、いったん現実を忘れてやろうと企みました。
そこで、わたしの頭にあったのはブログ『ぼくの映画をみる尺度』で紹介した三島由紀夫の映画論です。わたしは、この中の「忘我」というエッセイが好きで、もう数えきれないぐらい読み返しました。以下の出だしで始まります。
「どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実をしばしが間、完全に除去してくれるという作用を、映画のもっとも大きな作用と考えてきた。大スクリーンで立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。テレビとちがってわれわれを闇の中に置き、一定時間否応なしに第二の現実へ引きずり込む映画であれば、沢山の約束事の黙認の上に成立つ演劇などは、どんな文学的傑作でも、その足許にも寄ることはできぬ。これを一概に『娯楽』という名で呼ぶのは当を得ていない。私の映画に求めているのは『忘我』であって、娯楽という名で括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で『目ざめさせて』もらった経験もなく、また目ざめさせてもらうために、映画館の闇の中へ入ってゆくという、ばからしい欲求を持ったこともないのである」
この文章は、三島が書いたということに限らず、映画について書かれたあらゆる文章の中で一番好きなものです。そう、映画とは「娯楽」でなくて、「忘我」。三島と違って、憂悶の晴れぬときはもちろん、別に憂悶に縁のないときでも酒をよく飲むわたしでさえ、映画で周囲の現実を完全に除去される至福を何度も味わってきました。わたしは、最新のシネマコンプレックスの映画館の中で、まるで無意識のような暗闇に浮かび上がる大スクリーンと立体音響で、「バードマン」を鑑賞しました。そして、わたしの周囲の現実はしばしの間、完全に除去されたのです。おかげで、新しい現実の中で生きていく精神状態になることができました。
この映画の機能は、葬儀とよく似ています。葬儀には、いったん儀式の力で時間と空間を断ち切ってリセットし、もう一度、新しい時間と空間を創造して生きていくという力があります。そして、その儀式を支えているのは映画にも通じる「物語」の力にほかなりません。
ところで三島由紀夫は、「ぼくの映画をみる尺度~シネマスコープと演劇」というエッセイで、「私がいい映画だと思うのは、首尾一貫した映画である。当り前のことである。しかしこれがなかなかない。各部分が均質で、主題がよく納得され、均整美をもち、その上、力と風格が加われば申し分がない。それは映画以外の芸術作品に対する要請と同じものである」と述べています。それでは、三島のいう「忘我」を与えてくれる映画とは、そして「首尾一貫した」いい映画とは、どういう映画か。三島由紀夫は、具体的に「裏窓」などの一連のヒッチコックの映画だと答えています。
じつは、わたしは「バードマン」を観ながら、1954年公開の「裏窓」と同じく密室での出来事を映画化したヒッチコックの作品を連想していました。
それは、「ロープ」という1948年の映画です。ヒッチコック初のカラー作品である「ロープ」は、全編をワンシーンで繋げるという実験的な試みで知られる映画です。この後、ワンシーンとまでは行かなくとも、長まわし映像を売り物にした映画が無数に作られてきました。そして、「バードマン」もワンカットで撮影されたかのようなカメラワークの作品なのです。しかし、映画com.で、映画評論家の芝山幹郎氏は以下のように述べています。
「長まわし映像の信仰に、私は疑問を持っている。キャメラを延々とまわすだけで面白い映像が撮れると考える馬鹿は論外だが、役者の出し入れや台詞のタイミングなどの精緻な計算を過大評価するのも考えものだと思う。そこで止まると、映画は数学を超えられなくなる」
それよりも、キャメラに鳥の動きと水の動きを取り入れたことが特徴であり、この手法によって悪夢特有の幻想性や非連続性も獲得できるとして「『バードマン』は眼と耳を刺激してくれる悪夢映画になった」と芝山氏は述べます。
さて、この映画では主人公のリーガンが舞台の初演前に「ニューヨーク・タイムズ」の記者から取材を受ける場面があります。そこで記者はフランスの思想家ロラン・バルトの言葉を借りて、「かつては神話の神々が文化の中心だったが、今ではアメコミのヒーローが文化の中心だ」という内容の話をします。リーガンがアメコミ作品である『バードマン』の映画化で主人公を演じ、人気者となった過去に対する揶揄なわけですが、この言葉を聴いて、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の最終章「共感から心の共同体へ」の内容を思い出しました。
神話とは宇宙のなかにおける人間の位置づけを行うことであり、世界中の民族や国家は自らのアイデンティティーを確立するために神話を持っています。日本も、中国も、インドも、アフリカやアラブやヨーロッパの諸国も、みんな民族の記憶として、または国家のレゾン・デトール存在理由として、神話を大事にしているのです。ところが、神話というものを持っていない国が存在します。そう、それはアメリカ合衆国という現在の地球上で唯一の超大国なのです。建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画でした。もともと、19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が映画を発明しました。しかしながら、世界中のどこの国よりもアメリカにおいて、映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。
映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです!
それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、「風と共に去りぬ」にしろ「駅馬車」にしろ「ゴッドファーザー」にしろ、すべてはアメリカ神話の断片であると言えます。それは過去のみならず、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「マトリックス」のように未来の神話までをも描き出します。
ここで、アメリカン・コミックの登場です。「バードマン」の中にもアメコミ・ヒーローたちが勢揃いする映画「アベンジャーズ」の名前が出てきますが、アメコミ・ヒーローとは「神話なき国」アメリカの神々でした。
わたしは、「共感から心の共同体へ」に次のように書いています。
「フランケンシュタインやドラキュラ、バッドマンやスパイダーマンなどは、すべて原作小説やコミックに登場するキャラクターにすぎなかったが、映画によって神話的存在となった。『ロード・オブ・ザ・リング』三部作や『スターウォーズ』シリーズはまさしく神話としての映画を実感させるが、日本においても、『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』から『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』といった一連の宮崎駿監督のアニメ映画ほど神話的世界を想像力ゆたかに描いているものはない。映画産業とは神話産業であり、現代人の共感の大きな源泉となっているのである」
そう、アメリカ映画に限らず、映画そのものが「現代の神話」なのです。
「バードマン」は、そのことを嫌というほど痛感させてくれました。 いやあ、映画って、本当に面白いものですね!