映画「ゼロの未来」をレイトショーで観ました。
 「未来世紀ブラジル」などの名作で知られるテリー・ギリアム監督の最新作で、コンピューターに支配された世界の中で人間の存在意義と生きる目的を問うSFドラマです。なんとも奇妙な味わいの映画でした。

 映画公式HPの「INTRODUCTION」には、「人は自らの手ですべてを複雑にしてしまい、本当の幸せがとてもシンプルであることを忘れてしまった」として、以下のように書かれています。

「コンピューターに支配された近未来。天才プログラマーのコーエンは、荒廃した教会に一人こもり、『人生の意味』を教えてくれる一本の電話を待ちながら、謎めいた数式『ゼロ』の解明に挑んでいた。ある日、パーティーに連れ出されたコーエンはそこで魅力的な女性ベインズリーと出会う。最初は困惑するコーエンだったが、次第に彼女に惹かれていく。また同じ頃、『ゼロ』の秘密を知る青年ボブとの友情も次第に生まれ始める。閉ざされた世界で、恋と友情を知ったコーエンの人生は大きく変動していく―。映画史に燦然と輝くマスターピース『未来世紀ブラジル』、『12モンキーズ』に続くテリー・ギリアムの新たなる傑作、近未来映画が誕生した」

 また「マット・デイモン、ジョニー・デップはじめ数多くのスターに敬愛される、名匠テリー・ギリアム監督が『未来への希望』をドラマチックに描き出す!」として、以下のように書かれています。

「熱狂的なファンをもつイギリスのコメディグループ"モンティ・パイソン"のメンバーであり、『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』という伝説の傑作から、『ブラザーズ・グリム』『Dr.パルナサスの鏡』というエンターテインメント超大作まで多数の映画を手掛けてきた名匠テリー・ギリアム監督。 これまで、マット・デイモン、ヒース・レジャー、ジョニー・デップ、ブラッド・ピットなどの大スターたちを虜にしてきた監督が、本作では『イングロリアス・バスターズ』『ジャンゴ 繋がれざる者』で2度のアカデミー賞に輝く名優クリストフ・ヴァルツを主役に迎え、抑圧された世界に生きる男が変化していく様を力強く描き出す」

 さらには、以下のように書かれています。

「また主人公の相手役には『海の上のピアニスト』『バビロンA.D.』を始め、数多くの映画で活躍するフランスの女優メラニー・ティエリー。そして『ハリー・ポッター』シリーズのデヴィッド・シューリス、ウェス・アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』などに起用された注目の若手ルーカス・ヘッジズ、『007 スカイフォール』のベン・ウィショーなどが物語を導くキーパーソンとして登場している」

 そして「INTRODUCTION」の最後は「人生に意味を与えてくれるものは何か? 幸せを与えてくれるものは何か? 新たなるイマジネーションの世界が幕を開ける!」として、以下のように書かれています。

「混沌とした世界に生きる男の目を通じ『人生に意味を与えてくれるものとは?』『幸せを与えてくれるものは?』という、誰もが感じたことがある永遠の普遍的疑問を提起しながら、観る者の知的好奇心を刺激する本作。同時に、愛の力や人とのつながり、真のコミュニケーションの意義を考えさせつつ、ギリアムらしい風刺的なブラックユーモアとウィットにも包まれた、壮大でドラマチックな、娯楽性も高いハイクオリティな作品に昇華させている。観た者は鑑賞後に深い余韻に浸りながら、この映画で掲げられた疑問を自分自身にも問いかけることになるだろう」

 この映画の物語は、どのようになっているのでしょうか。 映画公式HPの「STORY」には以下のように書かれています。

「近未来の世界。天才プログラマーのコーエン・レス(クリストフ・ヴァルツ)は、コンピューターで世界を支配する大企業、マンコム社で「エンティティ解析」という高度なデータ解析の仕事に就きながら、人生の意味を教えてくれる一本の電話がかかってくる瞬間を待ちわびていた。 マンコム社の代表取締役であるマネージメントへの面会を求めていたコーエンは、ある日、上司のジョビー(デヴィッド・シューリス)が開催したパーティにいやいやながら出席する。そこでようやくマネージメントに会うことができた彼は、会社に出勤せず、在宅勤務をしたいと要求する」

 「そのほうが仕事がはかどり、人生の目的を教えてくれる電話を逃すリスクを回避することができると考えていたからだ。マネージメントはこの申し出を渋々認め、コーエンは自身が住む荒廃した教会にこもって仕事を始める。
  彼の新たな任務は『ゼロ』という謎の数式を解読する、ハードかつ困難な作業だった。コーエンは何か月もかけてこの仕事に集中するが、一向に答えは見つからず、待望の電話がかかってくる気配もない。ストレスが遂にピークに達し、彼は仕事で使用していた大切なスーパーコンピューターを壊してしまう」(「STORY」より)

 「そんなとき、以前ジョビーのパーティーで出会ったミステリアスで魅力的な女性、ベインズリー(メラニー・ティエリー)が不意に彼の元を訪れる。陽気で優しく彼を理解してくれるベインズリーに、人間嫌いのコーエンは次第に心を開き始める。さらに数日後、壊れたコンピューターの修理をしにマネージメントの息子ボブ(ルーカス・ヘッジズ)が現れ、『ゼロ』に隠された驚くべき秘密をコーエンに明かす・・・・・・」(「STORY」より)

 この映画を観終った感想は、「うーん、ちょっと予想と違うなあ・・・」でした。 わたしはテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」がお気に入りで、何度かDVDで観ています。陽気な音楽に乗って、陰気な管理社会をブラックユーモアと破天荒な幻想場面で描いた、カルトSF映画ですが、観る者の想像力を広げてくれる神話的な作品でした。今回の「ゼロの未来」もそんな内容を期待していたのですが、残念ながら予想は裏切られました。 なんかわけのわからんコンピューター映画といった印象でした。

  わたしは、いま『永遠葬』という本を書いています。同書の中で「0葬」というものを批判しているのですが、その関係もあって、「ゼロ」については日々考えています。もちろん、この「ゼロの未来」を観たのも、『永遠葬』執筆のためです。しかし、「ゼロ」そのものについての考察はあまり見られませんでした。ただし一回だけ、ボブという謎の少年が主人公コーエンに対して「ゼロ」について語る場面が出てきます。ボブは、「すべてはブラックホールに吸い込まれてゼロになる。宇宙も時間も人生も来世も、みんなゼロになってしまうんだ」と語り、コーエンは「そんな怖ろしいことはない!」と叫びます。実際、「ゼロ」の謎を解き明かそうとしたコーエンを待っていたものは「恐怖」と「孤独」でした。ゼロとは「虚無」そのものですから、当然といえば当然です。 なによりもゼロが怖ろしいのは、すべてを無意味化してしまうことです。これは唯物論のルーツともいえますが、すべての意味や価値を否定してしまう。でも、人間の営為というものは、あらゆるものに意味を見出していくことではないでしょうか。わたしは、そう思います。
 たとえば「家族」や「仕事」や「社会」に意味がないとしたら、この世界そのものが存在しないことになってしまうからです。

 さらに「ゼロ」について考えてみましょう。わたしは、ブログ『異端の数ゼロ』で紹介した本から、「ゼロ」の本質についての大きな示唆を得ました。同書の第6章「無限の双子――ゼロの無限の本性」にはこう書かれています。

「ゼロと無現大は同じコインの裏と表である。対等にして反対、陰と陽、数の世界の両極端にあって、等しい力をもつ対立物だ。ゼロの厄介な本性は無限大のもつ奇妙な力とともにあり、ゼロを探ることによって無限なるものを理解することが可能である。このことを学ぶために、数学者は虚の世界に乗り出さなければならなかった。それは、円が直線、直線が円であり、無限大とゼロが両極にある奇怪な世界だ」 「ゼロと無限大は、あらゆる数を飲み込む闘いを永遠につづける。マニ教の悪夢のように、両者は数の両極にあって、小さなブラックホールのように数を吸い込む」

 そして、この映画のメッセージは「本当の幸せは、限りなくシンプルなものである。」です。このフレーズは、映画公式HPをはじめ、パンフレット、ポスター、チラシにも登場します。これは、どういう意味なのでしょうか。
「ゼロ」と「シンプル」は、一体どう違うのでしょうか。
 「0葬」と関連して考えたのですが、「ゼロ」というのは極端なのです。原理主義にも通じる「ゼロ」とは一切の妥協を許さない完璧な「無」を目指しています。この映画でも、コンピューターがコーエンに「ゼロは100%でなければならない」と何度も警告していました。
 一方、「シンプル」というのは人間が考えた結果、選んだ答えであり、生き方です。結局、極論としての「0葬」に走る人々というのは考えることを拒否し、「思考停止」しているのです。言うまでもなく、葬式というのは人間社会に必要な営みです。もし現在の葬式に問題があると思うなら、「葬式をどうすべきか」と考えればいいのです。そして、「シンプルな葬式がいい」とか「海洋葬や樹木葬がいい」とか解決案を出せばいいのです。それをいきなり「葬式は、要らない」といって「0葬」に走るのは、あまりにも極端過ぎます。極端な思想というものはナチズムやスターリニズムにも通じる大きな危険を孕んでいます。だから、現在の葬式に批判的な人々は「0葬」ではなく「シンプル葬」を訴えるべきなのです。

  「0葬」という極論は、ブッダの「中道」にも、孔子やアリストテレスの「中庸」にも反しています。一方、わたしが唱える「永遠葬」という言葉には、「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。五十回忌を終えた場合、それで供養が終わりというわけではありません。故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、子孫に代わって仏様が供養してくれるといいます。つまり、五十回忌を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続きます、まさに、永遠葬です。
  「20世紀最大の宗教学者」と呼ばれたエリアーデは「儀式とは永遠性の獲得である」という言葉を残しています。やはり、「0」を超えるキーワードは「永遠」しかありません。わたしはこの映画を観て、そのことを再確認しました。

  • 販売元:Happinet
  • 発売日:2017/02/02
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