No.0192
「Tジョイリバーウォーク北九州」で日本映画「おかあさんの木」を観ました。戦後70年を記念して製作された作品で、日中戦争から始まる太平洋戦争のため7人の息子たちが次々に兵隊に取られ、そのたびに桐の木を植えて息子たちの無事を願った母親の物語です。
映画公式HPの「イントロダクション」には「40年前から教科書で愛される国民的児童文学が、感涙の映画化」として、以下のように書かれています。
「40年前から教科書で愛される、国民的児童文学が感涙の映画化。
原作は児童文学者、大川悦生(98年没)著『おかあさんの木』。発表から45年余り、その間幾度も小学校中学年から高学年の国語教科書に採用されてきたお話です。昭和12年(37年)日中戦争から始まる太平洋戦争のために7人の息子が次々と兵隊にとられ、そのたびに桐の木を植えて、息子たちの無事を祈るおかあさんの姿が母子の愛を、戦争がもたらす悲しみを子供たちに訴え続けてきました。
本作は、舞台を大川氏の生まれ故郷である長野県の田舎村に設定し、おかあさんとおとうさんの出会いから物語を始めます。 7人の子供たちに恵まれ、慎ましやかながらも幸せな家族を築いていく主人公・ミツ。そこには、当時の日本中のどこにでもある、普通の人びとの暮らしが描かれていきます。そしてそんな日本中のおかあさんが直面した戦争という現実。『お国のために』と戦地に出征する息子をただ見送らなければならない悲しみ、帰らぬ息子をひたすらに待ち続けることしかできない苦しみは、『おかえり』『ただいま』と言える当たり前の日々ががいかに尊く大切なことかを、現代に生きる我々に訴えかけてきます」
また「イントロダクション」には「戦後70年を迎える2015年初夏、日本中の"おかあさん"に捧げる」として、以下のようにも書かれています。
「主人公・ミツを演じるのは鈴木京香。『いつか、"日本のおかあさん"然とした母親役を演じてみたいと思っていた』と、25年余りの女優人生の中で節目の役に挑んでいます。さらに、ミツの次男・二郎役に三浦貴大、亡き夫の同僚役に田辺誠一、その娘・サユリ役に志田未来、物語の語り部となる現代パートのサユリ役に奈良岡朋子、と演技派の豪華キャストが集結しました。監督は『がんばっていきまっしょい』『解夏』など丁寧な心理描写に定評のある磯村一路。製作は、東映東京撮影所とアルタミラピクチャーズが初めてタッグを組み、本年1月23日にクランクイン。『ミツの家』の撮影は、戦前の雰囲気を残す茨城県かすみがうら市の民家園で行われた他、長野県、静岡県、千葉県などでロケを敢行し、3月10日にクランクアップしました。激動の時代を懸命に生きた親子の愛の物語は、6月6日全国公開となります。号泣必至、ハンカチなくして観られない感涙映画の決定版がまさに誕生しようとしています」
映画公式HPの「物語」には、以下のように書かれています。
「現代――。土地の整備事業が進むのどかな田園地帯に、凛と佇む7本の古い古い桐の木。伐採の許可をとるべく、役所の職員2人が向かったのは美しい老人ホーム。彼らを待っていた1人の老女・サユリは、時折朦朧とする意識の中、静かに力強くつぶやく。
『あの木を切ってはならん・・・。あれは・・・おかあさんの木じゃ・・・』
そして彼女は、ある悲しい物語を語り始めた――。
今から100年ほど前・・・長野県の小さな田舎村。若く美しいミツは、かねてから一途な想いを寄せていた謙次郎とめでたく祝言を挙げた。謙次郎の親友・昌平をはじめ、村中から祝福された結婚生活。ミツは一郎、二郎、三郎、四郎、五郎...と次々に元気な男の子を生み、決して裕福とはいえない暮らしぶりではあったが幸福だった。六人目の男の子・誠だけは、子宝に恵まれなかった姉夫婦に懇願され密かに里子に出したものの、さらに末っ子の六郎まで生まれ、家の中はいつも賑やか。優しい夫とヤンチャな息子たちに囲まれて、ミツはいつも笑顔で忙しい毎日を過ごしていた。しかしその笑顔が消える出来事が起きてしまう。謙次郎が心臓発作で、急逝したのだ。愛する人のあまりに突然の死に、呆然とするしかないミツ。そんな彼女を支えたのは、6人の息子たちだった。ミツは健気な子供たちの支えによって、少しずつ立ち直っていく」
続いて、「物語」には以下のように書かれています。
「それから数年後。すっかりたくましい青年に成長した息子たちを、今度は"戦争"がミツから奪う。まずは一郎、そして二郎・・・。『お国のため』という名目で華々しく出征してゆく息子たちを複雑な思いで送り出すミツは、彼らが戦地に赴く度に1本ずつ桐の木を庭に植えてゆく。
『一郎、二郎、元気でいるかい? 今どこにいる? きっと生きてるだろうない?』まるで木に息子1人1人の魂が宿っているかのように、優しく語りかけながら・・・。そんな彼女をいつも気遣い心配しているのは、昌平とその娘・サユリだった。だが昌平は郵便局員という仕事柄、ミツに息子たちの戦死の報せを告げるという辛い役回りをも担当することになる。
ある日、ついに五郎にまで出征の命令が下る。 既に3人の息子を亡くしていたミツは、これまでの感情が爆発。汽車で戦地に旅立つ五郎の足元にすがりつくという『非国民』的な行動に出てしまい、憲兵に蹴り上げられ尋問を受けることに。だが周囲の助けで、なんとか無事に帰宅することができたのだった」
そして、「物語」には以下のように書かれています。
「長い長い戦争が終わっても、7人の息子たちは誰一人戦地から帰ってこなかった。それでもミツは7本の桐の木を大事に育てながら、いつか誰かは戻って来ると信じて待ち続けた。いつまでもいつまでも・・・。
『どんな事をしても、おめぇらを戦争に行かせるんじゃなかった。母ちゃんが悪かった。許しておくれ、みんな帰ってきておくれ』
終戦翌年の冬――。唯一、生死が確認できなかった五郎が、傷だらけの姿で戻って来る。夢にまで見た懐かしい我が家、そして愛しい母を想い傷付いた足を引きずり思わず駆け出す五郎。
『おかあさん! 五郎は今、生きて帰ってきました!』
やっとの思いで辿り着いた五郎が見たものは・・・。 すべてを語り終えた老いたサユリは、疲れたように瞳を閉じる。そしてうわごとのように、再びあの言葉を繰り返す――
『あの木を切ってはいかん...あれは、おかあさんの木じゃ・・・』
この映画を観ている途中、わたしは何度もハンカチを濡らしました。 やはり、我が子を亡くすことほど親にとって辛いことはありません。グリーフケアの世界では、我が子を亡くした悲しみが癒えるには10年の時間を要すると言われています。ましてや、7人もの子を失った悲しみは想像を絶していると思います。この映画は一種の反戦映画のようにも見えますが、戦前の徴兵や「英霊」の顕彰システムをよく描いていると思いました。「死んでから英霊にされても仕方がない」という人がいることは知っていますが、それでも我が子が「犬死に」ではなく「名誉の戦死」を遂げたのだというには「癒し」の物語でした。人は心を壊さないために物語を必要とするのです。
戦死者の供養の問題については、『唯葬論』の「供養論」で詳しく論じましたが、その際に宗教学者の池上良正氏による『死者の救済史』(角川選書)が参考になりました。「「死者の救済」を考察する手がかりとして、池上氏は近世以降に特徴的な新たな展開として「死者の顕彰」を指摘し、「ここで顕彰とは、もはや『浮かばれない死者』を『安らかな死者』に変えるのではなく、すでに功なり名をとげた人物の生前の徳を称えるという行為をさす」と述べています。死者顕彰の汎用化が大規模に適用されたのが、近代国家の「戦死者」たちでした。「戦死者の祭祀と供養」について、池上氏は述べます。
「『顕彰』とはそれを誉め上げなければすまない、強固な社会集団の意志を背景にした行為である。顕彰を誇示し、あるいは誇示された顕彰を正当化する強い権威や権力が前提にあり、その権威や権力が高まることによって顕彰の信憑性も高まるという相乗的な関係がある」
映画のタイトルにもなっているように、ミツは「おかあさんの木」と呼ばれた7本の桐の木を植えます。それは子どもたちの無事な生還を願って植えたというよりは、やはり「墓代わり」という意識があったことは否定できないでしょう。ミツは、前もって子どもたちの名を冠した木を植え、それらに話しかけることによって、これから訪れる大きな悲しみの予防をしていたのでしょう。
また、「おかあさんの木」は、そのまま「子どもたちの墓標」になりました。
ブログ「樹木葬」などで紹介したように、石の墓の代わりに樹木を使う「樹木葬」が普及しています。石にせよ、木にせよ、生者は死者の魂が宿る依代を必要としているのだと思います。
この映画には、古き時代の冠婚葬祭のシーンも登場しました。大正4年(1915年)にミツが嫁入りしてきたときは、花嫁行列が行われました。また、ミツの夫が亡くなったときには葬式行列が行われました。花嫁行列と葬式行列、2つの行列を見ながら、わたしは「昔の冠婚葬祭は大変だったのだ」と改めて思いました。そして、儀式は大変なほうが良いとも思いました。
そのほうが新郎新婦も、また遺族も覚悟を決めることができるからです。 今の結婚式も葬儀も簡便になりましたが、それで人々が幸せになったかというと逆のような気がします。特に、祝言の席での三三九度で思いを寄せていた相手と添うことができた喜びにミツが泣き出す場面は感動的で、わたしも貰い泣きしました。この名場面は、ブライダル事業に関わるすべての人々に見てほしいと思いました。そして、7人の子どもを残して、ミツは夫に先立たれます。考えてみれば、結婚式と葬儀の間に「夫婦」や「家族」の歴史があるのですね。そんなことを、わたしはしみじみと思いました。
それから、長男の一郎をはじめとした息子たちが次々に戦死したとき、ミツのもとには故人の名を記した紙と盃だけで、遺骨も遺灰も帰ってきませんでした。ガダルカナル島で戦死した息子は現地の土が一緒に骨箱に入っていました。その悲しい場面を観て、わたしは「普通に遺体を前にして葬儀をあげることができるのは幸せなことなのだ」と改めて痛感しました。あの東日本大震災の大津波のときもそうでしたが、戦争時も普通の葬儀をあげることができないのです。逆に言えば、普通に葬儀があげられる社会というのは平和な社会なのです。その意味で、遺骨も遺灰も火葬場に捨ててくるという「0葬」というものが、どれほどトンデモない行為であるかを日本人は思い知る必要があります。
この映画のキャッチコピーとなっている「おかあさんは、『おかえり』と言えたのでしょうか。」「子供たちは、『ただいま』と言えたのでしょうか。」という言葉は胸に沁みました。現在、日本の家庭では「行ってきます」「行ってらっしゃい」「おかえり」「ただいま」と言っているでしょうか。
「行ってきます」は、当人にとっては「今日も元気にがんばろう」という決意と「今日も無事でありますように」と祈る気持ちで我が家を出発する言葉です。「行ってらっしゃい」という送り出す側の言葉は「今日も元気で」で応援する気持ちと、「車や事故に気をつけて」と安全を祈る心の表現です。ですから、送り出した人が元気で帰宅することが家で待つ者にとっては一番気がかりなのです。交通事故の他にも、災害、犯罪、学校でのいじめなど、日常的に心身の危険にさらされている今日では、元気な「ただいま」の一言で、家族は安心するのです。そして、「お帰りなさい」の一言で、帰ってきた者もまたホッとし、外での苦しいこと、辛いことも癒されるのです。わたしたちは、子どもにしっかりと「行ってらっしゃい」「おかえり」と言わなければなりません。そして、子どもの「ただいま」の声を聴いて、「おかえり」と言えることほど幸せなことはないのです。あの戦争では、多くの親たちが「おかえり」と言うことができませんでした。
それにしても、先の戦争は長い長い戦争でした。
じつに日中戦争の開始から太平洋戦争の終結まで、膨大な時間を費やし、大量の犠牲者を生みました。その長い戦争は、70年前の8月15日に終結しました。「戦争では、いつも弱い者にしわ寄せが行く」とは「おかあさんの木」に登場する農夫のセリフですが、もちろん一般の国民も苦労をしましたが、最高責任者たる方の苦労も筆舌に尽くしがたいものがありました。8月8日、半藤一利のノンフィクションを基にした群像歴史ドラマ大作「日本のいちばん長い日」が公開されます。太平洋戦争での日本の降伏・決定から、それを国民に伝えた玉音放送が敢行されるまでの裏側を描く映画です。 ぜひ、わたしはこの映画を早く観たいと思っています。「おくりびと」で納棺師を演じた本木雅弘が昭和天皇を演じる、この作品を!