5日の日曜日、両国にある「シアターX(カイ)」を訪れました。
 ブログ「古事記~天と地といのちの架け橋~」で紹介した劇場ですが、大重潤一郎監督の「久高オデッセイ第三部 風章」完成上映会&シンポジウム「大重映画と『久高オデッセイ』が問いかけるもの」が開催されたのです。

 この映画の製作者は「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生であり、株式会社サンレーが協賛、わたしも協力者に名を連ねています。この日は「久高オデッセイ第一部 結章」「久高オデッセイ第二部 生章」「久高オデッセイ第三部 風章」が朝から上映され、わたしは一気に鑑賞しました。

 「久高オデッセイ」三部作のパンフレットの表紙には、以下のような大重監督のメッセージが掲載されています。

「昔から久高島では男は海人女は神人と
定められて生きてきた。
そして月の満ち欠けに基づいた旧暦の暦に沿って
漁や祭祀が行われてきた。
琉球王朝時代以降『神の島』と呼ばれてきた久高島では
12年に一度の午年神女の継承式であるイザイホーが行われてきた。
しかしイザイホーは1978年を最後に後継者不足のため途絶えた。
イザイホーは途絶えたけれど地下水脈は流れ続けている。
これは2002年から2014年までの12年間
その地下水脈の流れを見続けてきた記録である」

 わたしは、すでに第一部を観ていましたが、この際良い機会であると思って、三部作を一挙に観ました。第一部も以前観たときよりずっと感銘を受けました。わたしは「久高オデッセイ」三部作を観て、まず、「これはサンレーのための映画だ!」と思いました。サンレー沖縄は、沖縄が本土復帰した翌年である1973年(昭和48年)に誕生しました。北九州を本拠地として各地で冠婚葬祭互助会を展開してきたサンレーですが、特に沖縄の地に縁を得たことは非常に深い意味があると思っています。サンレーの社名には3つの意味がありますが、そのどれもが沖縄と密接に関わっています。

 まず、サンレーとは「SUN‐RAY(太陽の光)」です。
沖縄は太陽の島。太陽信仰というのは月信仰とともに世界共通で普遍性がありますが、沖縄にはきわめてユニークな太陽洞窟信仰というものがあります。「東から出づる太陽は、やがて西に傾き沈む。そして久高島にある太陽専用の洞窟(ガマ)を通って、翌朝、再び東に再生する。その繰り返しである」という神話があるのです。おそらく、久高島が首里から見て東の方角にあるため、太陽が生まれる島、つまり神の島とされたのでしょう。
 そして久高島から昇った太陽は、ニライカナイという海の彼方にある死後の理想郷に沈むといいます。紫雲閣とは魂の港としてのソウル・ポートであり、ここから故人の魂はニライカナイへ旅立っていくのです。

 次に、サンレーとは「産霊(むすび)」です。
生命をよみがえらせるという意味です。産霊といえば何といっても祭りですが、沖縄は祭りの島といわれるほど祭りが多い。特に村落単位で行なわれる伝統的な祭りが多く、本土では神社が舞台ですが、沖縄ではウタキ、神アシャギ、殿(トゥン)といった独特の祭場で行なわれます。司会者はノロやツカサなど女性が多いのですが、八重山のアカマタ・クロマタや中部のシヌグなど男性中心の祭りもあります。また、本土のように「みこし」を担ぐ習慣はなく、歌や踊りといった芸能が非常に発達しています。

 産霊といえば、生命そのものの誕生も意味しますが、沖縄は出生率が日本一です。15歳以下の年少人口率も日本一で、まともな人口構造は日本で沖縄だけと言っても過言ではありません。「久高オデッセイ第三部 風章」でも、久高島に新しい生命が誕生していましたね。
 わが社の結婚式場「マリエール・オークパイン那覇」での結婚式を見ると、花嫁さんの多くはお腹が大きいです。つまり、「できちゃった結婚」がとても多いわけですが、これは素晴らしいことだと思います。セックスしても子どもは作らないヤマトンチューはバッド! 子どもを作って責任取って結婚式まできちんとするウチナンチューはグッドです。これぞ、人の道!

 そして、サンレーとは「讃礼」(礼を讃えること)です。
言うまでもなく、沖縄は守礼之邦。礼においても最も大事なことは、親の葬儀であり、先祖供養です。沖縄人ほど、先祖を大切にする人はいません。
 1月には16日(ジュールクニチー)、3月には清明祭(シーミーサイ)。ともに墓参りの祭りですが、最大の墓地地帯である那覇の識名の祭りも壮観だし、糸満の幸地腹門中墓は沖縄最大の清明祭が行なわれます。沖縄の人は、先祖の墓の前で宴会を開く。先祖と一緒にご飯を食べ、そこは先祖と子孫が交流する空間となる。本当に素晴らしいことです!
 子どもの頃から墓で遊ぶことは、家族意識・共同体意識を育て、縦につながる行事です。これは今の日本人に最も欠けていることで、ぜひ本土でもやるべきだと確信します。

 このように守礼之邦・沖縄は何よりも「礼」を重んじますが、2500年前に孔子は「礼楽」という道を説きました。「楽」とは音楽のことです。音楽をこよなく愛した孔子は、自らも琴を弾きながら人の道を説いたといいます。
 沖縄は芸能の島です。沖縄出身の芸能人を見ると、安室奈美恵、MAX、SPEED、Kiroro、DAPUMP、BEGIN、Gackt、夏川りみ、喜納昌吉&チャンプルーズという面々は沖縄出身です。その他にも、アルベルト城間がボーカルをつとめたDIAMANTES、Cocco、モンゴル800、ネーネーズ、りんけんバンドなど全国ブランドの人気バンドが目白押し。沖縄音楽大躍進の秘密について、安室やMAX、SPEEDが幼い頃から通った沖縄アクターズスクールが何かと取りざたされてきましたが、それよりも重要なのは、沖縄全域におけるエイサー教育の存在です。

 本来は、先祖供養のための盆踊りとして沖縄島各地で行なわれていたエイサーですが、中部の中頭を中心に、より芸能的な要素を加えて徐々に裾野を広げていきました。地域によって演じられるスタイルは異なりますが、保育園や幼稚園、それに小学校、中学校の運動会でエイサーが演じられるようになり、今では、堂々の主役となっています。沖縄出身アーティストたちは学校でのエイサーを体験してきたのです。沖縄は礼楽の島なのです。ちなみに、サンレー沖縄の社員のみなさんも芸達者ぞろいです。

 このように「太陽の島」であり「祭りの島」である沖縄はまさにサンレーの理想そのものです。わたしはサンレーが沖縄で40年以上も冠婚葬祭業を続けてこられたことを心の底から誇りに思います。そして、沖縄には本土の人間が忘れた「人の道」があり、それこそ日本人の原点であると確信します。戦後70年の今こそ、本土は「沖縄復帰」すべきではないでしょうか。
「久高オデッセイ」三部作を観て、そんなことを考えました。

 三部作の中でも初上映となる「久高オデッセイ第三部 風章」は、前2作と比較しても格段の完成度の高さでした。上映会の後に開催されたシンポジウムで鎌田先生は「第一部が60点だとしたら、第二部が80点、そして第三部は100点だと思う」と述べられていました。
 冒頭から久高島から望む海の上に浮かぶ雲が美しく、中にはシーサーのような形をした雲もありました。雲だけでなく、海、木々、花、そして太陽と月・・・・・・すべての自然描写が素晴らしかったです。わたしは、スクリーンを観ながら、久高島の「気」を感じました。
 そして、わたしは「久高オデッセイ第三部 風章」を観て、2つのキーワードが心に浮かびました。「儀式」と「涙」です。

 最初のキーワードは「儀式」です。
わたしは今、『儀式論』(弘文堂)という本を書く準備を進めており、毎日のように「儀式とは何か」について考えています。
 ブログ「カタチにはチカラがある」にも書きましたが、儀式には大いなる力があります。わたしは、儀式の本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の魂。次に、成長していく子どもの魂、そして、大人になる新成人者の魂。それらの不安定な魂を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式などがあります。
 この映画では内間奈保子ちゃんという女の赤ちゃんが一生餅を背負う儀式が登場しました。

 それから、登場したのは長寿祝いのシーンです。
老いてゆく人間の魂も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。
 しかしながら、『老福論』に書いたように、日本には老いゆく者の不安な魂を安定させる一連の儀式があります。そう、長寿祝いです。61歳の「還暦」、70歳の「古稀」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、などです。

 沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、わたしは長寿祝いにしろ生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。それらは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれるからです。それは大いなる「老い」の祝祭なのです。その後に、人生における最大の儀式としての葬儀があります。
 この映画には赤ちゃんの儀式と老人の儀式がともに登場し、儀式がいかに人間の魂を安定させ、幸福になるためのテクノロジーであるかが見事に描かれていました。

 次のキーワードは「涙」です。
 この映画では、2度の場面で印象的な「涙」が流されます。
 1つは、満月の夜の砂浜で産卵しながら流すウミガメの涙です。もう1つは、本来はイザイホーが行われるはずの日にたった1人の神人である若い女性が祈りながら号泣する涙です。
 「久高オデッセイ第三部 風章」は、「涙」の映画であると言えるでしょう。

 わたしには、その名も『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という著書があります。その本で、わたしは、ドイツ語の「メルヘン」の語源には「小さな海」という意味があることを紹介しました。大海原から取り出された1滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。

 人類の歴史は、いわゆる「四大文明」からはじまりました。その4つの巨大文明は、いずれも大河から生まれました。そして、大事なことは河は必ず海に流れ込むということです。さらに大事なことは、地球上の海は最終的にすべてつながっているということ。チグリス・ユーフラテス河も、ナイル河も、インダス河も、黄河も、いずれは大海に流れ出るのです。

 人類も、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは河の流れとなって大海で合流するのではないでしょうか。人類には、心の大西洋や、心の太平洋があるのではないでしょうか。そして、その大西洋や太平洋の水も究極はつながっているように、人類の心もその奥底でつながっているのではないでしょうか。それがユングのいう「集合的無意識」の本質ではないかと、わたしは考えます。

 さて、人間は涙というものを流します。では、どんなときに涙を流すのか。
 それは、悲しいとき、寂しいとき、つらいときです。また、他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底から幸せを感じたときです。つまり、人間の心はその働きによって、普遍の「小さな海」である涙を生み出すことができるのです。人間の心の力で、人類をつなぐことのできる「小さな海」をつくることができるのです。

 アンデルセンは、涙は「世界でいちばん小さな海」だといいました。そして、わたしたちは、自分で小さな海をつくることができます。その小さな海は大きな海につながって、人類の心も深海でつながります。たとえ人類が、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは深海において混ざり合うのだと思います。

 そして、「儀式」と「涙」がクロスする場が海洋葬です。
 ブログ「海洋葬」などにも書いたように、サンレー沖縄では「海洋散骨」を定期的に行っています。青い「美ら海」に白い遺灰が溶け込んでゆくさまは詩的でさえありますが、それを見つめる遺族の方々の目からは涙が流れます。それを見て、わたしは「ああ、小さな海と大きな海がつながったなあ」といつも思います。まことに、ドラマティックで感動的な瞬間です。

 久高島は、2000年の歴史の中で、その文化を変えていないそうです。
土地はすべて天からの預かりものとし、現在まで私有地は一切存在しません。それゆえに、隣人が助け合い、ともに土地を耕し合う強力な「地縁」共同体となっています。また、1500年頃に始まったと推定される神事「イザイホー」以前の、20を数える神事を今も継続しています。先祖を祀る神事も多く、これまた強力な「血縁」共同体となっています。久高島は人口約150人(公称200人)という小さな島ですが、日本全国で最も「血縁」と「地縁」が重んじられている場所でもあるのです。
  「血縁」と「地縁」を強化する文化装置が「祭り」です。
 久高島こそは、日本一の「祭り」の島なのです。

 大重監督は、久高島のことを「日本列島の基層文化を維持してきたラストランナー、アンカーの役割そのものを担っている」と表現されていますが、そのラストランナーがトップランナーに一変する可能性をこの島は秘めています。久高島をはじめとして、沖縄すべてが先祖と隣人をこよなく大切にします。本土の人間が忘れつつあるものが沖縄にはしっかりと息づいているのです。やはり、日本人は「本土復帰」ならぬ「沖縄復帰」するべきです!

 最後に、「久高オデッセイ第三部 風章」のエンドロールでは協力者として、わたしの本名である「佐久間庸和」の名前、協賛として「株式会社サンレー」のクレジットが流れました。自分の名前が映画で流れたのは初めての経験なので、ちょっと感動しました。鎌田先生とのご縁から、このような素晴らしい映画づくりに協力することができて本当に良かったです。
 わたしは『死が怖くなくなる映画』(現代書林)という本を書く準備を進めており、日々可能な限り映画を鑑賞しているのですが、「生命の連続」を描いた「久高オデッセイ第三部 風章」こそは「死が怖くなくなる映画」でした。 大重監督、大変お疲れ様でした。そして、ありがとうございました!

  • 出版社:晃洋書房
  • 発売日:2011/04
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