No.0199


 遅まきながら、映画「セッション」を観ました。
 サンダンス映画祭でのグランプリと観客賞受賞を筆頭に、多くの映画賞で旋風を巻き起こした音楽ドラマです。ある友人から「すごい映画だから、ぜひ観て」と言われていたのですが、ついにレイトショーで鑑賞できました。

 映画公式HPの「INTODUCTION」には

「『まさか!』28歳の才能が生んだ1本に世界が揺れた!!」

「サンダンス映画祭 W受賞(グランプリ&観客賞)を皮切りに早くもノミネート数142・受賞数51─驚異の記録で賞レースを席巻! 本年度アカデミー賞、助演男優賞(J・K・シモンズ)・編集賞・録音賞の3部門受賞! 」

として、以下のように書かれています。

「映画を愛する者なら、あの頃の興奮は決して忘れない。『レザボア・ドッグス』『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』など、かつてない斬新な作品がサンダンス映画祭から次々と排出され、"映画史を変える才能はサンダンスから"という伝説を打ち立てたのだ。 そして2014年、満を持して伝説を受け継ぎ、映画の限界を破壊する勇者が現れた。初の長編映画、撮影当時28歳で全く無名だったデイミアン・チャゼルだ。衝撃度からオリジナリティ、ラストのカタルシスまでが、サンダンス史上でも圧倒的に群を抜く作品の、監督・脚本を手掛け、グランプリと観客賞をW受賞、輝かしい伝説をここに復活させた。 この熱狂はたちまち全米へと広がり、劇場での公開は拡大に次ぐ拡大が繰り返され、Rotten Tomatoesでは驚異の96%を弾き出した。スリリングな展開と、誰も見たことがないと胸を張れる恐ろしいほど痛快なエンディングに寄せられた絶賛コメントは、『大胆』『危険』『熱すぎる』とほとんど悲鳴に近い。本年度の賞レースでも、問答無用の実力だけで新人監督にはあり得ないほど多数の賞を強奪、本戦、アカデミー賞では、助演男優賞(J・K・シモンズ)・編集賞・録音賞の3部門で受賞を果たした」

 続いて、「INTODUCTION」には「名門音大に入学したドラマーと伝説の鬼教師。狂気のレッスンの果ての衝撃のセッションとは――? ラスト9分19秒の衝撃は圧巻にしてもはや痛快!」として、次のように書かれています。

「名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンは、伝説の鬼教師フレッチャーのバンドにスカウトされる。彼に認められれば、偉大な音楽家になるという夢と野心は叶ったも同然と喜ぶニーマン。だが、ニーマンを待っていたのは、天才を生み出すことにとりつかれ、0.1秒のテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。さらにフレッチャーは精神を鍛えるために様々な心理的ワナを仕掛けて、ニーマンを追いつめる。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーの目指す極みへと這い上がろうとするニーマン。果たしてフレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それとも叩きつぶすのか――?」

 さらに「INTODUCTION」には以下のように書かれています。

「斬新すぎて有名プロデューサーたちが怖気付いた脚本に惚れ込み、製作総指揮にあたったのは、『JUNO/ジュノ』『マイレージ、マイライフ』でアカデミー賞にノミネートされた名匠ジェイソン・ライトマン。チャゼル監督に同じ物語でまずは短編映画を作り実力を見せつけることを提案、完成した作品はライトマンの読み通り、見事2013年サンダンス映画祭で審査員賞を勝ち取り、それは長編撮影への切符となった。ニーマンに扮するのは、『ダイバージェント』のマイルズ・テラー。フレッチャーには『JUNO/ジュノ』のJ・K・シモンズ。強大なインパクトを放ち、究極の師弟関係を狂演VS怪演で演じきった二人が、スクリーンに刻み付けたラスト9分19秒の衝撃のセッションを見逃すな!」

 また映画公式HPの「STORY」には「才能vs狂気」というキャッチコピーに続いて、以下のように書かれています。

「【完璧】を求めるレッスンは常軌を逸し、加速していく――。 名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠...。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし・・・・・・」

 この映画、とにかく観ていてストレスの溜まる内容でした。 「自分には才能がある」と信じ込んでいる音楽学校の学生ニーマンと鬼教師フレッチャーの物語ですが、桁外れのスパルタ教育を施すフレッチャーの姿から、わたしは「柔道一直線」の車周作を連想しました。 ということは、ニーマンは一条直也?

 ニーマンは「成功のためには、何でも犠牲にすべき」と考えており、数少ない友人や知人に「君たちは偉大な人物にはなれない」と言い放ったり、何の罪もない可愛い彼女にも「ドラムの練習の邪魔になるから」と一方的に別れを告げるとても嫌な奴です。何よりも、わたしがニーマンを腹立たしく思ったのは、彼が遅刻を繰り返すことです。この映画では大事な場面で二度も遅刻し、それが自分の首をしっかり絞めていました。

 わたしは、時間を守らない人間が大嫌いです。というか、許せません。 その人が会議や待ち合わせの時間に遅れてくるとき、他人が被る迷惑は、計り知れないほど大きいです。待たされる時間は、完全に「失われた時間」です。経営コンサルタントの山崎武也氏は、時間を守らない人は信用できないだけでなく、「時間泥棒」と呼ばれても仕方ないと語っています。それもこっそりと盗んだのではなく、無理やり強引に奪ったので「時間強盗」と言うに等しい。さらに、強盗された時間という財物は、いったん失ったら取り返すことのできない生命の一部であり、その意味では、約束の時間に遅れることは、待たせた人の生命の一部を奪ったのと同じことになります。そうなると、時間強盗どころか「部分的殺人」の罪と断ずることもできるのです。肝に銘じなくてはなりません。

 「時間」の持つ価値を誰よりも理解していた人物に経営学者のピーター・ドラッカーがいます。「汝の時間を知れ」という名言を残したドラッカーによれば、 時間こそは最もユニークで、しかも最も乏しい資源です。これが有効に管理されなければ、他の何ものも管理されません。「マネジメント」の発明者でもあるドラッカーは、オーケストラを取り上げて自身の経営理論を展開しました。オーケストラとは知識を中心とする専門家(プロ)によって構成された組織であり、情報化組織の要素として「知識を前提にした力量」を重要視していたからです。ドラッカーびよれば、「その専門家集団は、同僚や顧客との意識的な情報の交換を中心に、自分たちの仕事の方向づけと、位置づけを行うようになる。これが情報化組織である」

 この映画に登場するのはクラシックの「オーケストラ」ならぬジャズの「バンド」です。「オーケストラ」の組織論が「バンド」にも通用するかどうかは、
(1)バンドが組織という人数規模(演奏時に指揮者が必要な規模)である。
(2)バンドがプロのミュージシャン(専門家)である。
以上の2点の要件を満たせば例外的に「通用」するとされますが、この映画に登場するバンドはフレッチャーが指揮をする専門家集団ですので、オーケストラと同じだと言えるでしょう。いわゆる「ビッグバンド」ですね。

 ところで、J・K・シモンズ演じるフレッチャーの顔立ちや雰囲気は、ドラッカーその人に似ているように思いました。
  いったんそのように思ってしまうと、もうスクリーン上でわめきまくる鬼教師はドラッカーにしか見えなくなりました。
 しかし、「人が主役」という人間尊重経営を唱えたドラッカーとは正反対で、フレッチャーは学生や楽団員を徹底的にいたぶります。超スパルタで当人の持っている才能を開花させるという意図はわかるとしても、行き過ぎた言葉の暴力はいただけません。特に、相手の人種や家庭環境などを侮辱する暴言は許されないことです。フレッチャーに責められた者の中には俯き、泣き出し、ついには「うつ」から「自殺」に走る者もいました。 映画の中にフレッチャーがピアノを演奏するシーンが出てくるのですが、はっきり言って大した演奏ではありませんでした。思うに、フレッチャーは偉大な音楽家になりたかったのに、その夢を果たすことができなかったのではないでしょうか。それで、才能ある若き音楽家に対してはジェラシーから辛く当たり、サディスティックに接する部分があったように思います。

 おそらくフレッチャーは、現代教育のように「ハラスメント」を意識した生ぬるいやり方では偉大な人物は育たないという考えの持ち主なのでしょう。しかし、わたしも大学の客員教授や企業の経営者としての経験上、やはり学生や社員に対しては「礼」をもって接するべきであると思います。どんな上下関係、たとえ師弟関係であっても「人間尊重」が基本であることに違いはありません。一種の変態としか思えないようなフレッチャーの暴言・暴行では、バンドのメンバーの志気は絶対に上がりません。フレッチャーは「マネジメント」の正反対である「独裁」による恐怖でメンバーを動かしているにすぎません。恐怖政治です。

 それにしても、フレッチャーは激しい。激しすぎる。
その常軌を逸した激しさは、まるで革命家のそれです。わたしは、目から異様な光を放って学生を指導する彼から吉田松陰を連想しました。
  日本の明治維新は世界史的に見ても、さまざまな意味で奇跡的な革命と呼ばれますが、そのスイッチャーとなったのは長州の吉田松陰、そして彼が主催する松下村塾の人々でした。松陰は、志とは、どんなに邪魔が入っても、打ちのめされても、孤立しても、それでも貫かねばならないものだと考えていました。そのためには、たとえ「狂」のそしりを受けても構わないのです。フレッチャーにも「狂」を感じます。

 『松陰と晋作の志』(ベスト新書)の著者である一坂太郎氏は、その厳しい宿命を、松陰たちは「狂」の境地に達することで受け入れたのだと述べています。人々は、先覚者を先覚者とは気づかずに、狂っていると考えます。そんな周囲の雑音に惑わされ、志を曲げないためにも、先覚者は自分が狂っているのだと、ある種開き直る必要があったのです。師である松陰の影響もあり、幕末長州の若者たちは、好んで自分の行動や号に、「狂」の文字を入れました。彼らの遺墨を見ると、高杉晋作は「東行狂生」、木戸孝允(桂小五郎)は「松菊狂夫」などと署名しています。慎重居士の代表のように言われる山県有朋でさえ、幕末の青年時代には「狂介」と称していました。

 「セッション」のラストは、聞いていたとおりの凄まじい結末でした。わたしを含めた観客は、これまで映画では経験したことがないような孤高の芸術に立ち会います。安っぽい師弟愛とか友情とか音楽への情熱など吹き飛んでしまうような圧倒的な「美」の世界であり、「狂」の境地です。

 わたしは、この映画を観ながら「音楽とは何か」についても考えました。 人類がこの地球上に誕生してから現在に至るまで、人間が追い求めてきたものは、「わたしは、いったい何者か」という自己の存在確認と意味の追求だったということもできます。そして、それは近代文明の発達とともに「わたしの幸福とはいったい何か」という自己の存在の目的を追求することに少しずつ変わっていったのです。

 有史以前の音楽には、豊かな意味性があったといいます。自分たちの集落の音楽と他の集落の音楽を区別して、戦闘のときにそれを自分たちの戦意を鼓舞するために使いました。あるいは、誕生の祝いの歌、死者を弔う歌というふうに、目的に合わせて音楽に意味を持たせていたのでしょう。

 人類が最初に楽器をつくろうとした動機は、自然の音の模倣(コピー)だったのではないでしょうか。赤ん坊が言葉を覚えるためにまわりの音をすべて模倣しようとするのと同様に、古代人たちは、波の音を、風の音を、小鳥たちの声を、その意味を探るために、あらゆる道具を使ってそれらを模倣しようとしたはずです。彼らは、自然界に聞こえてくるさまざまな音の「複雑さ」に何らかの「意味」を見いだしていたのではないでしょうか。だからこそ、その「音」をつくり出そうと、楽器をつくりはじめたのだと思います。

 楽器が自然界の音の模倣のためにつくられたとすれば、そうした楽器を使ってつくる音楽とは、まさしく、自然との同化、自然への畏敬、そして目に見えぬ神や霊への恐れだったに違いありません。そして、その楽器が現在のような西洋音楽のルールの中で高度に洗練された楽器へと変化しはじめたのは、まさしく人間が「文明」というものをつくり出した時期からなのです。
 映画のラストに登場する驚くべき演奏を呆然と聴きながら、わたしはそんな人類最古の音楽のことを考えました。そして、「セッション」を観終わった後は、とても疲れてグッタリしました。

  • 販売元:ギャガ
  • 発売日:2015/10/21
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