No.0208


 日本映画「岸辺の旅」を観ました。ブログ「リアル~完全なる首長竜の日」で紹介した作品以来の黒沢清監督の新作です。第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点部門」で日本人初の"監督賞"を受賞しました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『アカルイミライ』がパルムドールにノミネートされた経験もある黒沢清監督が、湯本香樹実が2010年に上梓した小説を映画化。3年間行方をくらましていた夫がふいに帰宅し、離れ離れだった夫婦が空白の時間を取り戻すように旅に出るさまを描く。脚本は『私の男』などで知られる宇治田隆史が黒沢監督と共同で担当。『踊る大捜査線』シリーズなどの深津絵里と、『バトルシップ』、『マイティ・ソー』シリーズなどでハリウッド進出も果たした浅野忠信が夫婦愛を体現する。

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「3年間行方不明となっていた夫の優介(浅野忠信)がある日ふいに帰ってきて、妻の瑞希(深津絵里)を旅に誘う。それは優介が失踪してから帰宅するまでに関わってきた人々を訪ねる旅で、空白の3年間をたどるように旅を続けるうちに、瑞希は彼への深い愛を再確認していく。やがて優介が突然姿を現した理由、そして彼が瑞希に伝えたかったことが明らかになり・・・・・・」

 わたしは黒沢清の映画が大好きで、これまで全作品を観ています。彼は、かの黒澤明監督と並んで「世界のクロサワ」と呼ばれています。 カンヌ・ベネチア、ベルリンなど数々の国際映画祭で賞を受賞し、海外から高い評価を得ているからです。 第61回カンヌ国際映画祭において、「ある視点部門」審査委員(JURY賞)を受賞した「トウキョウソナタ」などの芸術性の高い作品もありますが、彼の名声を高めたのは何といっても一連のディープなホラー映画です。

 「CURE」(1997年)から始まって、「カリスマ」(1999年)、「回路」(2000年)、「降霊」(2001年)、「ドッペルゲンガー」(2003年)、「LOFT」(2006年)、「叫」(2007年)といった、人間の深層心理に刃物を突きつけ、始原の感情である恐怖を鷲掴みにして取り出すような作品を作ってきました。これら一連の作品ですが、「LOFT」以外はすべて役所広司が主演しています。わたしはDVDを購入して、これらの作品を何度となく観返しています。

 特に、わたしは「降霊」を高く評価しています。ブログ「雨の日、霊を求めて」にも書きましたが、「降霊」は日本映画史上で最も怖い映画であると思っています。その黒沢清監督の最新作である「岸辺の旅」も「降霊」と同じく心霊がテーマであり、ホラーの要素もあるのですが、それ以上にハートウォーミングなジェントル・ゴースト・ストーリーとなっています。そして、愛する人を亡くした人が、死別という事実を受容して、壊れかかった「こころ」を取り戻し、「悲しみ」を癒していくというグリーフケア・ストーリーとなっています。

 日本映画「黄泉がえり」を彷彿とさせますが、冒頭からいきなり死者が日常生活の中に登場します。深津絵里扮するピアノ教師・瑞希のもとに、3年前に自殺している夫の優介がふらりと現れるのです。それは亡き夫の生前の好物であった白玉を妻が作っていたときでした。死者である優介の出現に瑞希はさほど驚かず、「おかえりなさい」と言います。そして、2人は死後の優介の足跡をたどる旅に出て、かつて優介が交流した人々と再会します。中には生者だけでなく死者も混じっているのですが、彼らは生きているときと同じように行動します。普通に仕事をし、食事をし、睡眠し、物を動かしたりもします。かつて心霊映画の名作である「シックス・センス」では、幽霊が物を動かさなくて済むように小道具を配置したとされていますが、この映画ではそんなことはまったくお構いなしです。わたしはホラーやファンタジーといった非日常的な映画ほど「リアリティ」が必要だと思っていますので、このへんは少々違和感がありました。

 「岸辺の旅」映画パンフレットには、黒沢清監督のインタビューが掲載されています。
 「原作との出会い、映画化の動機について」という質問に対して、黒沢監督は以下のように答えています。

「一度死んだ人間がこの世によみがえって、生きていた過去を懐かしむといった設定はこれまでにもあったのでしょうが、死者が死んでからの数年間を検証していくという物語は前代未聞で、これは映画にしてみたいとすぐ思いました。夫(優介/浅野忠信)が死んだ後に実はこんな風であったということを、ひとり残された妻(瑞希/深津絵里)がだんだん理解していく流れに感情移入しているうちに、素直に『死』とは終着点ではなくて、ある種の過程なんだなと納得していました。死んだあとで分かることってたくさんあるんだな、と。死んだ本人にとってもそれは同じなんだなと」

 インタビューの最後に「映画を観る人へのメッセージをお願いいたします」と言われた黒沢監督は以下のように答えます。

「原作にある『死んだ人のいない家はない』という言葉に支えられて撮影していました。考えてみると、死んだ人はたくさんいるんです。死者とともに私たちは生きている。そういうことは感覚として分かっているけれど、誰もよくよく考えたことはない。今回のドラマを通して『死者とともに生きる』意味と実感が少しでも伝わるといいなと思います」

 黒沢監督の言葉を受けるように、パンフレットには原作者である湯本香樹実氏がその名も「死んだ人のいない家はない」というタイトルの文章を寄稿しています。

 その冒頭で、湯本氏は次のように書いています。

「小説『岸辺の旅』のなかに出てくる『死んだ人のいない家はない』という一節は、学生の頃、読んでいた仏教説話のなかで出会ったものです。そのときなぜ仏教説話を読んでいたのか記憶はさだかでありませんが、仏教への関心というよりは、『宇治拾遺物語』など説話がもともと好きだったから、その延長だったに違いありません」

 湯本氏は映画「岸辺の旅」を観て、まさに「説話のよう」だと感じたそうです。しかし、これまで観てきた黒沢監督の一連の作品が、すでに説話的な世界だったことに、今さらながら気づきもしたといいます。

 湯本氏は以下のように書いています。

「遠く離れたところで死んだ人が、いちばん身近な人のもとへと戻ってくる。二人で辿る、死んでしまってから何かに牽かれるようにやってきたその道は、残された者と、死者のあいだの、ある不思議な釣り合いによって出現する道筋といえるかもしれません。映画『岸辺の旅』は、そんな見送る者と見送られる者のあいだの、特別な、やさしくも不穏な時間を、このうえなく親密なものとして描いています。隔たった者どうしがどれほど互いに互いを委ねられるか――それが親密さというものならば、生者と死者、あるいはこれから旅立とうとしている人と、それを見送る人・看取る人のあいだには、抜き差しならぬ親密な、『もうひとつの旅の時間』が生まれるにちがいありません」

 「岸辺の旅」のパンフレットは、通常の映画パンフレットよりもずっと名文が揃っているのですが、映画評論家の畑中佳樹氏による「オルフェのように」という文章も良かったです。       

 冒頭、畑中氏は以下のように述べます。

「『岸辺の旅』は、オルフェウスの神話を現代のフランスを舞台に語り直したジャン・コクトーの『オルフェ』(49)のように、息づまるような緊張が全篇を支配している。冥界から戻ってきた夫が、ふと気がつけばそこに立っている。このままいっそ、生者のように振る舞いつづけてほしい。二人して何食わぬ顔で、まるで誰も死んでいないかのように、生きている振りを続けていけたなら――。ところが何かの加減で、たった1つのミスで、どこかでちょっと気をゆるめた隙に、その幻はあえなく消失してしまう。オルフェがバックミラーごしにうっかり妻の姿を見てしまったとたん、彼女の姿がかき消えてしまったように、黒沢清の前作『リアル~完全なる首長竜の日~』(13)で現実のうす皮が不意にめくれ、ボロボロと砕け散っていったように」

 さらにパンフレットには編集者の月永理絵氏による「旅の果てに、ふたりは永遠の世界を発見する」という名文が収録されています。 ここで月永氏は次のように述べています。

「映画は目に見えるものしか映すことができない。恋や愛というような、言葉でしか現せないものは画面には映らない。それでも映画『岸辺の旅』はたしかに"愛"と呼ばれる何かを描いている、と私は言いたい。思わずたじろいでしまうほどに、映画は真っ正面からこの映し得ぬ"愛"なるものに挑んでいる」

 そして、月永氏は「永遠」というキーワードを持ち出して述べます。

「映画は"愛"を描くことはできないけれど、"愛"を求めて接近するふたりの姿を映すことはできる。離れてしまったふたりが再び出会い、接近していく過程を描いた『岸辺の旅』は、だから究極のラブストーリーなのだ。旅の果てに瑞希と優介が見た景色は、生と死、この世とあの世、過去と未来、そして私とあなたというあらゆるものの間にある境界線が取り払われた世界だ。境界線のない世界は、恐ろしくもあり魅力的でもある。人はそれを永遠と呼ぶのかもしれない」

 じつは、「永遠」はわたしの最近のテーマでもあります。
 『永遠の知的生活』(実業之日本社)や『永遠葬』(現代書林)のように、著書の中にも「永遠」というキーワードを入れ込んでいます。いずれ、真の結婚式を追求した『永遠婚』という本も書きたいと思っています。「旅の果てに、ふたりは永遠の世界を発見する」の最後に、月永氏は書いています。

「近づきたい、と心から望んだふたりの旅は静かに終わりを告げる。しかし『宇宙は終わるんじゃない、ここから始まるのです』と優介が語るように、これは終わりではなく始まりなのだ。ふたりの間の境界線が完全に消し去られたとき、女は永遠に男を手に入れる」

 わたしは『永遠葬』で、「永遠」と「葬」を結び付けました。
 というのも、葬儀こそ人を永遠の存在にすると思っているからです。
 「岸辺の旅」は幽霊が登場する映画ですが、「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れません。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。優介は瑞希の前から姿を消して、そのまま行方不明者となってしまいました。それゆえに、妻は夫の死を知らず、その葬儀をあげることができなかったのです。

 『唯葬論』(三五館)の「幽霊論」でも紹介しましたが、国文学者の安永寿延は名論文である「幽霊、出現の意味と構造」の冒頭を安永は次のように書き出しています。

「人間は死ぬことのできる存在である。それはとりもなおさず、人が希望だけでなく絶望をも享受しうるように、生を享受するだけでなく死をも享受しうることを意味している。だが、生を享受できないものは死をも享受できない。人はしばしば死でもって生を飾ろうとする。だが、生で死を飾れなかったものが、死で生を飾れるはずがない。死を享受できないものには、死を了解することなどできない。つまりは死んでも死にきれないのだ。だからこそ、宗教は葬送の儀礼を、人が"第二の生"を生きるための通過儀礼とみなし、"第一の生"の不遇と"第二の生"の豊かさとが交換可能だと説いた。こうして死者がみずからその死の意味を解読し、了解可能として受けいれるなら、そこではじめて死者は死の世界を獲得し、そこに安息を見出す」

 幽霊という名は「幽界の霊」という意味ですが、実は幽霊は幽・明両界の境界的存在なのです。それは単に生を奪われ、生きることを断念させられた存在であるだけでなく、死からも疎外された存在なのです。その出現そのものが、したがって生と死の二つの世界に対する呪いの表明であるとして、「幽霊は自分を受け入れない死の世界に対しても同時に抗議しているのだ」と安永は述べています。たしかに、幽霊とは生者でもなく死者でもありません。それは獣でもなく鳥でもないとされた蝙蝠のような境界的存在です。

 葬儀の失敗、あるいは葬儀を行わなかったことによって死者になり損ねた幽霊を、完全なる死者とするにはどうするか。そこで登場するのが、仏教説話でもおなじみの「供養」です。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションであると考えています。そして、供養においては、まず死者に、現状を理解させることが必要です。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質ではないでしょうか。「岸辺の旅」でいえば、自分が死んだことに気づかず働き続けている小松政夫演じる新聞販売店の老人、死後も生きている妻に執着する赤堀雅秋演じる男は供養されるべき存在です。

 しかし、「岸辺の旅」にはすでに供養されている死者も登場しました。元バレリーナの首藤康之扮する瑞希の父親です。彼は「あちらで母さんと穏やかに暮らしている」と言い、娘を安心させます。
 供養された死者、供養されざる幽霊、彼らは一体どこからやって来たのでしょうか。この物語では、滝壺の中にある洞窟でした。そこは「死者の通り道」で、冥界に通じているというのです。わたしはこの洞窟を見て、東日本大震災の膨大な犠牲者のことを考えました。

 『のこされた あなたへ』(佼成出版社)に詳しく書きましたが、あの未曾有の大災害により東北一帯で多くの人が亡くなりました。大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」となりました。黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。古代、「あの世」と「この世」は自由に行き来できたと神話ではされています。それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。

 それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られてしまいました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。そこまでは別に構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは千人で押しても動かない巨石でふさがれました。以上が『古事記』で語られている神話ですが、このたびのマグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。「岸辺の旅」における死者の通路としての洞窟から、わたしはヨモツヒラサカを連想しました。ちなみに、いつか黒沢監督には東日本大震災の死者たちを描いていただきたいです。

 死者といえば、この映画の冒頭に登場する瑞穂はまさに死者のようでした。
 もちろん彼女は生きているのですが、まったく生気がないのです。
  最愛の夫に見捨てられたという思いが、彼女を死者のような存在にしてしまったのかもしれません。一方、彼女の前に現れた優介は幽霊でありながら生気に満ちていました。
 わたしは不思議な感覚にとらわれながら、少し前に読んだブログ記事の一節を思い起こしました。「ベスト50レビュアー」こと不識庵さんが自身のブログである「不識庵の面影」に書かれた「高野山奥之院 上杉謙信公御廟」という記事です。

 そこには、以下のように書かれています。

「この夏、一条真也先生の『永遠葬』『唯葬論』を拝読してから高野山奥之院へ参詣したこともあり、こころゆくまで弘法大師や謙信公と交感できました。『問われるべきは「死」ではなく「葬」である!』こと、また『なぜ人間は死者を想うのか』という問いかけへの答えも理屈ではなく、こころで感じとれました。『死者を想うこと』は『死者が死者でなくなること』、すなわち『死者は生者=聖者』となるということ。そう、葬儀によって有限の存在である『人』は、無限の存在である『仏』となり、永遠の命を得て後世の先達となってくださるのです」

 この不識庵さんの発言のうち、「『死者を想うこと』は『死者が死者でなくなること』」というのは非常に重要です。そして、この言葉こそ映画「岸辺の旅」の本質を衝いていると思います。すなわち、優介を想い続けた瑞希の心が亡き夫を呼び寄せたのではないでしょうか。故人を想い続けることによって、死者は死者でなくなったのです。その一方で、愛する人を亡くしたがゆえに死者のように暮らしている生者も多いです。この世には、「生者のような死者」と「死者のような生者」の両方が溢れているのかもしれません。

 そして、この映画には何度も何度も満月が登場しました。 満月と幽霊には深い関係があります。世界各地で、満月の夜は幽霊が見えやすいという話を聞きます。映画でも幽霊出現の場面では、必ず夜空には満月が上っています。おそらく、満月の光は天然のホログラフィー現象を起こすのでしょう。つまり、自然界に焼きつけられた残像や、目には見えないけれど存在している霊の姿を浮かび上がらせる力が、満月の光にはあるのではないでしょうか。

 加えて、ブログ「月を見よ、死を想え」にも書いたように、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っています。地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたり、地上からレーザー(霊座)光線で故人の魂を送る「月への送魂」を行ったりしています。9月29日、日本経済新聞電子版の「ライフ」に連載中の「一条真也の人生の修め方」にコラム「月を見よ、死を想え」をアップしたところ、全記事中で1位となりました。日経読者の方々に初めて披露させていただいた「月面聖塔」および「月への送魂」の考えが多大な関心を集めたようで、もう20年以上もこれらのプロジェクトに取り組んでいるわたしは感無量でした。

 最後に、「岸辺の旅」には生者や死者を問わずにさまざまな人々が登場しますが、最も怖かったのが蒼井優扮する優介の不倫相手でした。彼女は優介が医師として歯科医として勤務する病院の事務員でしたが、優介の失踪後に瑞希がメールの履歴などを調べて、不倫相手を突き止めたのです。最後に2人の女性は対決しますが、ワンショットで撮影されたその場面は男にとってこれ以上ないほどの恐怖を描いていました。わたしは、どんなホラー映画より怖いこの場面を観ながら、次回作である『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(仮題、イーストプレス)のリストの中に「メールの履歴を完全に消しておくこと」を入れなければと思った次第です(苦笑)。

  • 販売元:ポニーキャニオン
  • 発売日:2016/04/20
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