No.0220


 日本映画「はなちゃんのみそ汁」を観ました。
 ブログ「世界の涯てに」で紹介した映画は鎌田東二先生のおススメでしたが、同ブログ記事を読んだ鎌田先生から「すばらしい! さすが、Shinさん! 脱帽! 脱糞! いや、失礼!」というメールが来ました(笑)。
 鎌田先生はまた、「『はなちゃんのみそ汁』を観て、感動!」とも書かれていました。それで、わたしもこの作品を観ることにしたのです。

 公式HPの「イントロダクション」には、「日本中が涙した! ベストセラー実話エッセイを映画化! 広末涼子×滝藤賢一×赤松えみな(期待の新人)×一青窈 豪華キャストの幸せなアンサンブル」というリードに続いて、以下のように書かれています。

「がんでこの世を去った千恵、33歳。5歳の娘と夫、家族との日々をつづったブログを基にしたエッセイ『はなちゃんのみそ汁』は2012年に発売されるやいなや、常にひたむきな明るさで生きる安武一家の姿が日本中で大きな話題を呼び、関連書籍やテレビドラマ化、教科書への採用など社会現象を巻き起こし、このたびついに映画化」

 また、「イントロダクション」には以下のように書かれています。

「結婚、妊娠、出産と人生の転機をがんと闘い、食を大切に生きてきた千恵を演じるのは、広末涼子。夫・信吾を今や日本映画界になくてはならない滝藤賢一が演じ新境地を見せている。娘・はなは、1000人超のオーディションで選ばれた演技経験ゼロの新星・赤松えみなが演じる。また彼女たちを見守る家族や仲間として、鶴見辰吾、赤井英和、古谷一行、高畑淳子、平泉成といった豪華面々による"競演"が実現した。
2013年キネマ旬報ベストテン日本映画第一位に輝いた『ペコロスの母に会いに行く』で脚本を担当した阿久根知昭が、本作でも脚本を務め初のメガホンを握る」

 さらに、「イントロダクション」には以下のように書かれています。

「主題歌を担当するのは生前に千恵さんが好きだった歌手、一青窈。本作のために書き下ろしたオリジナル曲『満点星』を優しく強く歌いあげる。『私はツイていた』と前向きに生きる千恵たちの姿が、この冬日本をあたたかい涙で包みこむ」

 公式HPの「ストーリー」には、「ちゃんと作る、ちゃんと食べる――大切な家族へ、愛する人へ伝えたい、いのちのメッセージ」というリードに続いて、以下のように書かれています。

「恋人との何不自由ない幸せを夢見ていた千恵はある日、乳がんを宣告される。見えない不安に怯える千恵に信吾は優しく寄り添いプロポーズをする、こうして2人は晴れて夫婦となった。抗がん剤治療の影響で卵巣機能が低下、出産をあきらめていた千恵だが、ある時妊娠していることが分かる。産むか産まないか―産むということはがんの再発リスクが高まり、自らの命が危険にさらされるということだった。 周りの支えで命を懸けて産むことを決意し、はなを無事出産。
しかしながら家族3人、幸せな日々は長くは続かず、千恵を再び病魔が襲い、余命があとわずかと判明。私がいなくなってもはなが暮らしていけるようにと、千恵は鰹節を削って作るところから始めるみそ汁など料理や家事の大切さを教えはじめる。
彼女たちのおいしくてあったかい、かけがえのない日々が続いていく」

 映画の冒頭、教会の鐘が鳴るシーンが登場します。そこに、広末涼子の「人生では3回鐘が鳴るという。1回目は生まれたとき、2回目は結婚するとき、そして3回目は死んだときだ」というナレーションがかぶさるのですが、わたしは「某冠婚葬祭互助会のCMみたいだなあ」と思いました。
 それから、この映画を観て思ったのは、ガンで若い母親が亡くなる問い話なのに、あまり暗くないことでした。もちろん、ガンが再発したときの絶望感とか、家族と別れる悲しみとかは描かれているのですが、全体的に「死すべき人間」という運命を受け容れた爽やかささえ感じます。その理由の1つとして、主人公の千恵がカトリックのクリスチャンだったことがあると思います。キリスト教では「死」は天国に帰る「帰天」であり、けっして不幸な出来事ではないからです。

 わたしは昔から広末涼子がわりと好きで、彼女が出演する映画もよく見てきました。葬儀をテーマとした「おくりびと」やブログ「想いのこし」で紹介したジェントル・ゴースト・ストーリーでもスクリーン上の彼女は美しく、そこはかとない色気を漂わせていましたが、この「はなちゃんのみそ汁」の広末涼子はまったく色気がありませんでした。それだけ、ガン患者をリアルに演じたのかもしれませんが、女子大生を演じた場面でも輝きが感じられなかったので、理由はそれだけではないのかもしれません。何が言いたいのかというと、この映画での彼女は自らの美貌に一切頼ることなく、ただひたすら演技力で勝負したということです。その表情の豊かさには目を見張るものがありましたが、ネットでは「末期ガンの患者にしては顔がふっくらし過ぎている」などの意見もあるようです。

 ガンといえば、映画の中で千恵が「ガンという言葉は暗くて嫌だ」と言う場面があります。それで「ガン」の代わりに「ポン」と呼んでほしいと言い、彼女の夫と姉が「乳ガン」を「乳ポン」などと言い換えると千恵が笑い出します。
 言葉の持つパワーというものを感じさせますが、この「ポン」というのは、ブログ『泣いて生まれて笑って死のう』で紹介した本の著者である産婦人科医の昇幹夫氏の言葉ですね。同書で昇氏は以下のように述べています。

「ガンという病名、音の響き、いやですね。これがガンという病名でなくてポンという病名だったらどうでしょう。国立ポン研究所なんて笑っちゃいますね。日本語の音の響きは聞くほうにいろんなイメージを作ります。サ行の音はサラサラ、スベスベ、ソヨソヨと耳に心地いいですね。バ行の音は耳障りです。バカ、ブス、ベタベタ、ビンボーといった具合です。ガ行は元気に代表されるように力強い響きなので、怪獣の名前はガ行が多いですね。ゴジラ、ガメラ・・・・・。そういう音の響きの一つですからガンというと『ガーン』ときてやられた! という感じになるのです。胃ポン、肺ポン、乳ポンなど怖いイメージはありませんね。こんなことも病む人の気持ちを明るく前向きにしてくれるんですよ」

 わたしは、この昇氏の指摘はものすごく重要ではないかと思います。言葉には手垢がつき、その音を聞いただけでイメージができあがります。たとえば「便所」と聞くとなんとなく悪臭を感じますが、「パウダールーム」と言い換えるとイメージが変わります。別にカタカナに限りません。「おくりびと」という造語が、いかに従来の葬祭業者にまとわりついていた負のイメージを落としてくれたことでしょう。それにしても、ガンをポンに変えるとは!

 ところで、映画の中で千恵は古谷一行演じる自然食の専門家のもとへ通い、自然治癒力を高める指導を受けます。そのために多額の費用が発生し、親や友人から借金までした場面には複雑な思いがしました。専門家の意見に従って、千恵は玄米や味噌汁を食べ続けましたが、結果としてはガンに勝てずに亡くなったわけです。これは、「自然治癒力ではガンを克服できない」と見るべきなのか、それとも「食事療法によって自然治癒力を高めなかったら、千恵はもっと早く亡くなっていた」と見るべきなのか。難しいところです。この問題、鎌田先生はどのように感じたのでしょうか?

 いずれにせよ、自然食の専門家のアドバイスによって、千恵は毎日、具だくさんの味噌汁を飲み続けます。それを幼い娘の伝授する姿が、映画のタイトルにつながったわけです。はなを演じた子役の赤江えみなちゃんはとても可愛くて、わたしも思わず笑顔になりました。演技というよりも、子どもらしさをストレートに発揮しているところに好感が持てますね。
 千恵は「もしお母さんがいなくなったとしても、味噌汁さえあれば生きていける」と言って、はなに味噌汁作りを伝授しますが、それはわが子の今後の食生活のためということもあるでしょうが、それ以上に千恵は味噌汁作りを伝授することによって「死の恐怖」を軽減していたのではないかと思います。「自分が死んでも、この子が同じ味噌汁を作り続けてくれる」という思いが、「生命の連続」というものを意識させてくれたのではないでしょうか。

 じつは、わたしは、この味噌汁作りの伝授のシーンを観て、「これは孝だ!」と思いました。そして、そこに儒教の真髄を見た思いがしました。
 孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出しました。日本における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行氏によれば、祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになります。わたしたちは個体ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。つまり、人は死ななくなるわけです!

 加地氏によれば、「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺した体」であるといいます。
 つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち子なのです。親から子へ、先祖から子孫へ・・・・・・孝というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのです。 また、陽明学者の安岡正篤は、連続や統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しました。老、すなわち先輩・長者と、子、すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して1つに結ぶのです。そこから孝という字ができ上がりました。そうして先輩・長者の一番代表的なものは親ですから、親子の連続・統一を表わすことに主として用いられるようになったのです。わが子に味噌汁作りを伝授する行為の背景にはこのような思想があるのです。

 学生時代に声楽を学んでいた千恵は、亡くなる前に「ふれあいコンサート」に出演し、多くの観客の前で歌います。その前に、夫に対して「ありがとう!」と呼び掛けますが、それを聞いた夫は号泣します。この場面には、わたしも貰い泣きしました。夫婦の絆とは、家族が順風満帆なときだけではなく、逆境の中でこそ強まるのだと思います。このコンサートは千恵の生前葬であると思いました。
 千恵は亡くなる前に「わたしはツイてる」と書き残して旅立って行きましたが、本当に彼女はツイていたと思います。だって、良き夫を得て、かわいい娘を授かって、素晴らしい生前葬を行って、さらには本物の葬儀で天国に旅立ったわけですから。それにしても、彼女が妊娠したとき、ガンの再発を恐れて中絶も考えたとき、「おまえは死んでもいいから産め」と言い放った彼女の父親は偉いと思います。結果的に、彼女は娘を産んで育てたことで、幸せで「ツイてる」人生を送ることができたわけです。

 はなに対して千恵は、「ちゃんと作る」「ちゃんと食べる」ことの大切さを徹底的に教え込みました。これは、すべての日本人が肝に銘じるべき言葉であると思います。手軽なインスタント食品やファーストフードばかり食べていては、日本のガン患者は増える一方です。

 最後に、わたしは千恵がちゃんと結婚式を挙げ、ちゃんと葬儀を挙げたことを素晴らしいと思いました。結婚式や葬儀を挙げることは本来当たり前の行為ですが、現在の日本では当たり前でなくなってきました。自分が結婚しても結婚式を挙げないから、ゲスの極みになってしまうのです。同じく、親が亡くなっても葬儀を挙げないのもゲスの極みです。
 ちゃんと結婚式をする、ちゃんと葬儀をする・・・・・・ちゃんと儀式をすることが、ちゃんと人生を送ることにつながるのです。
 「はなちゃんのみそ汁」を観て、そんなことを思いました。
 この物語は実話ですが、成長したはなちゃんは料理の名人になりました。

  • 販売元:オデッサ・エンタテインメント
  • 発売日:2016/06/02
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