No.0219
日本映画「縁 The Bride of Izumo」を観ました。
昨年9月26日から出雲で先行ロードショーを行い、今月16日から全国で順次公開の作品ですが、わたしは小倉のコロナワールドで観ました。
ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『呪怨 ――終わりの始まり――』などの佐々木希をヒロインに迎え、『2046』などの撮影の巨匠クリストファー・ドイルが撮影監督を担当したヒューマンドラマ。日本の原風景が残る島根県出雲市を舞台に、時を超えて結び付く人間同士がたぐり寄せる不思議なつながりを映す。『キッズ・リターン 再会の時』などの平岡祐太が、主人公の婚約者を好演。出雲出身の新鋭堀内博志監督が描く風景と物語に魅了される」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「都内大手出版社でウエディング情報誌の編集者として働く真紀(佐々木希)は、翌月には結婚式を執り行う予定だった。そんな中、自分を育ててくれた祖母あきゑがこの世を去り、遺品の整理中に彼女は、桐の箱に残された白無垢と共に束ねた婚姻届を発見する。真紀は婚約者の和典(平岡祐太)と一緒に、幼少時に暮らした島根県出雲市へと向かう」
この映画のタイトルは「縁(えにし)」です。「The Bride of Izumo」というサブタイトルからわかるように、まずは「夫婦の縁」が描かれています。
興味深かったのは、主人公の真紀が婚約者である和典と一度もケンカをしたことがないのを不安に思う場面です。イケメンの和典はいわゆる「草食系」で、真紀に対してとにかく優しいです。一度もケンカをしたことがないどころか、真紀の希望やわがままにも「ダメ」と言ったことがありません。周囲からも「気配り王子」とか「優しさ王子」などと呼ばれている和典のことを、意外にも真紀は「結婚するにもふさわしい相手だろうか」と悩むのです。なぜなら、一度もケンカをしないということは生の感情を見せないということであり、真紀の前で素になっていないということだからです。だから、真紀も気を使って和典の前では素になれないのでした。
一方、真紀をトラックに乗せて出雲を回ってくれた男性がいます。しじみ漁師の充(みつる)です。彼は粗野でケンカっ早いのですが、一本筋の通った優しさを持っています。充は東京から来た真紀のことを「おまえ」と呼び、説教もします。真紀も充に対して怒りの感情を見せ、時には充を平手打ちにします。婚約者でもなんでもない充と真紀はケンカのできる関係になるわけです。ということは、真紀と和典と充をめぐる三角関係の映画になるかと思ったのですが、そうはなりませんでした。「縁結びのまち」に住む充は、けっして真紀と和典の間には入り込もうとしません。わたしは、ブログ「世界の涯てに」で紹介した、前日観たばかりの香港映画の三角関係にちょっと似ているなと思いました。最後は、充が「世界の涯てに」のテッドに見えました。
わたしは、2人の娘の父親です。わたしは非常に気が短いのですが、その反動でしょうか、娘たちに理想の結婚相手を聞くと、2人とも「優しい人がいい」などと言います。世間一般でも「とにかく優しい人」とか「おだやかな人」というのが若い女性に人気が高いようです。しかし、いざ結婚してみると、優しさが優柔不断につながる男性、さらにはマザコンの男性が多いそうで、そういう夫は妻から「優しさしか取り柄のない、つまらない男」として離婚されるケースも多いと聞きます。この映画で真紀が考えたように、「一度もケンカしたことがないのに、結婚して大丈夫だろうか?」という疑問は正しいと思います。もちろん、すぐキレる男などは論外ですが、少しくらい気が短くても正直な男性が一番ではないでしょうか。それと「ケンカするほど仲が良い」というのは本当だと思います。
さて、「縁(えにし)」という映画のタイトルには「夫婦の縁」の他にも、さまざまな縁が込められています。たとえば「家族の縁」などがそうですが、中でも特に「親子の縁」がよく描かれていました。いま、「無縁社会」などと呼ばれています。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、「縁」こそは冠婚葬祭業界のインフラであると、ことあるごとに言っています。ですから、わが社では、各種の儀式の施行をはじめ、最近では地域社会の人々が食事をしながら語り合う「隣人祭り」や「婚活セミナー」などに積極的に取り組み、全社をあげてサポートしています。これらの活動は、すべて「無縁社会」から「有縁社会」へ進路変更する試みだと思っています。
わたしたちは一人では生きていけません。誰かと一緒に暮らさなければなりません。では、誰とともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人です。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれませんね。現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、わたしは凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。この縦横の二つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思います。
この世にあるすべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは1つもありません。他と無関係では何も存在できないのです。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と呼びます。そして、縁ある者の集まりを「社会」と呼びます。ですから、「無縁社会」という言葉は本当はおかしいのであり、明らかな表現矛盾なのです。「社会」とは最初から「有縁社会」なのです。
そして、この世に張り巡らされている縁は目に見えませんが、それを可視化するものこそ冠婚葬祭ではないでしょうか。結婚式や葬儀には、その人と縁のある人々が集まって、目に見えるからです。
ちなみに、この映画は結婚式がテーマですが、冒頭では映画「おくりびと」を彷彿とさせるような葬儀のシーンが流れました。
異色の哲学者である中村天風は、こう言いました。
「要するにこの広い世界に、幾多数え切れないたくさんの人という人のいるなかに、自分たちだけが、一つ家のなかに、夫婦となり、親となり、子となり、兄弟姉妹となり、さては使うもの使われるものとなって、一緒に生活しているということが、並々ならぬ、換言すればとうてい人間の普通の頭では考えきれない縁という不思議以上の幽玄なるものが作用した結果だという、極めて重大な消息を、重大に考えないからである」
天風の有名な「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉も、この世に張りめぐらされた縁というネットワークが持つ不思議以上の幽玄さを表現しているのでしょう。
陽明学者の安岡正篤はこう言いました。
「仏語に、縁尋機妙という語がある。縁尋機妙とは、縁が尋ねめぐって、そこここに不思議な作用をなすことである。縁が縁を産み、新しい結縁の世界を展開させる。人間が善い縁、勝れた縁に逢うことは大変大事なことなのである。これを地蔵経は聖縁・勝縁という」
さすがに中村天風も安岡正篤も、豊かな縁を得て、幾多の政治家や実業家を指導しただけあって、含蓄のある言葉を残していますね。
いわゆる「柳生家の家訓」といわれるものに、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」という言葉があります。この世は最初から縁に満ちており、多くの者はそれに気づいていないだけなのです。
わたしたちの周囲には目に見えないさまざまな縁が張りめぐらされており、その存在に気づくことが大切なのです。
そう、社会とは最初から「有縁社会」なのです。
「無縁社会」など、妄言にすぎません。
「縁(えにし)」は花嫁の映画、すなわち結婚式の映画です。
ウエディング雑誌の仕事をしている真紀ですが、同僚から「結婚おめでとう。それで、式は?」と聞かれ、「まだ決めていないの」とか「落ち着いてから」とか答えます。そして、まずは先に入籍を済ませるのですが、わたしはこれを観ながら「いかんなあ」と思いました。 批判を承知であえて言いますが、結婚式を挙げていない夫婦は本物の夫婦ではありません。婚姻届さえ出せば夫婦になれるという考えは、現代日本人が陥っている最大の誤りであると思います。
ブログ「ゲスの極みにならないために」にも書きましたが、結婚したら、必ず結婚式を挙げなければなりません。
これは、国家や民族や宗教を超えた人類普遍の「人の道」です。
結婚式は何のために行うのかと考えたら、それは簡単に言えば、神や人の前で離婚しないように約束するためです。ですから、神前式でも教会式でも人前式でも、二人が夫婦として仲良く添い遂げることを誓う「宣誓の言葉」を述べるのです。結婚するだけなら役所に婚姻届を出せばいいし、結婚式をしたことを周囲の人々に知らせ祝福してもらいたいのなら、レストランでの披露パーティーで充分です。わざわざ結婚式をやる意味とは、離婚を防止するため、これに尽きると思います。
最初から離婚するつもりで結婚する人が、この世にいるでしょうか? もし、そんな人がいたら、まず「慰謝料目当て」という言葉を連想し、さらには「保険金殺人」といった犯罪の匂いさえします。まあ、それほどパートナーのことが好きでもなく、成り行きで結婚することになったので、「離婚することになっても別にいいや」と考えている人はいるでしょう。そういう人こそ婚姻届の提出だけにして、挙式や披露宴は行なわないでいただきたい。そんないいかげんな気持ちで式や披露宴を行なったら、大事なお金と時間とエネルギーを使う参列者に失礼です。
だいたい、「自分たちは結婚するけど、離婚するかもしれない」などと考えている人には、覚悟というものがない。覚悟とは、赤の他人であるパートナーと夫婦になって一緒に暮らすのだから、性根を据えて相手を思いやり、結婚生活を快適に続けていく努力を怠らないという覚悟です。そんな覚悟のないままに何となくムードで結婚する人の将来は目に見えています。そういう人は子育ての覚悟のないままに子どもをつくって児童虐待に走ったり、生き物を飼う覚悟もなく、ただかわいいからと思いつきでペットを買ってきて、飽きたら捨てるといった人だと私は思います。何事も「覚悟」を持って行動をはじめなければならず、結婚というのはその最たるものではないでしょうか。
わたしは、日本人にとって理想の結婚式とは神前結婚式だと思います。
2014年10月5日、高円宮家の次女である典子さまと、出雲大社の神職である千家国麿さんが出雲大社で結婚式を挙げました。
千家は代々、出雲大社の神事を司る「出雲国造」という役職を務めてきた家柄です。「古事記」「日本書紀」にある高天原から大国主神の下に遣わされた神「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とします。その天穂日命は、天照大神の次男です。天照大神は天皇家を初めとする皇室の先祖としても知られています。つまり、典子さまと千家さんは、はるか昔の先祖を同じくするカップルなのです。そして、ここが重なのですが、天皇家も出雲国造家もともに万世一系の家系とされています。
出雲大社に皇族をお迎えすることについての気持ちを問われて、千家さんは「大変畏れ多く光栄に思っています。私どもの家の初代が、皇祖・天照大神の次男と伝えられています。2000年を超える時を経て、今こうしてきょうという日を迎えたということに深いご縁を感じています」と答えています。「2000年を超える時を経て・・・」という表現がドラマティックであり、かつロマンティックですね。
「ロマンティック」といえば、出雲大社は「縁結びの神様」として知られます。
お二人の婚礼は、まさに「和婚」という言葉にぴったりの儀式でした。
「和婚」の和は「和風」の和であると同時に「平和」の和です。 ブログ「最高の平和」に書いたように、わたしは「結婚は最高の平和である」という信条を持っています。いつも、この言葉を結婚する若い二人に贈っています。
実際、結婚ほど平和な出来事はありません。人と人とがいがみ合う、それが発展すれば喧嘩になり、それぞれ仲間を集めて抗争となり、さらには9・11同時多発テロのような悲劇を引き起こし、最終的には戦争へと至ってしまいます。逆に、まったくの赤の他人同士であるのもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う結婚とは究極の平和であると言えないでしょうか。結婚は最高に平和な「出来事」であり、「戦争」に対して唯一の反対概念になるのです。そして、結婚という「最高の平和」を司るにふさわしい宗教といえば、なんといっても神道でしょう。
神前結婚式には知られざる秘密があります。神前式に対して「古くさい」「窮屈だ」「ダサい」といったようなネガティブ・イメージを抱く若い人も多いようです。でも、そんな人たちにも神前式の意外な一面を知っていただき、神前式を見直してほしいと、わたしは心から思います。わたしは、神前式の伝統性を重視し、日本で昔から行われてきた儀式だから見直せと言っているのではありません。第一、今の神前式のスタイルは決して伝統的ではなく、その起こりは意外に新しいのです。それどころか、キリスト教式、仏式、人前式などの結婚式のスタイルの中で一番歴史の新しいのが神前式なのです。
もちろん古くから、日本人は神道の結婚式を行ってきました。でも、それは家を守る神の前で、新郎と新婦がともに生きることを誓い、その後で神々を家に迎えて家族、親戚や近隣の住民と一緒にごちそうを食べて2人を祝福するものだったのです。神前式の歴史はたかだか100年ちょっとにすぎず、それもキリスト教式の導入がきっかけという、いわば外圧によって生まれたものであり、伝統などとはまったく無縁なのです。神前式の秘密は、そんなところにあるのではありません。
以前、わが社の結婚式場で挙式されたカップルの追跡調査を行ったことがあります。わが社では、神前式をはじめ教会式、人前式とあらゆるスタイルの結婚式を提供していますが、調査の結果、興味深いデータが出ました。
なぜか神前式をあげたカップルの離婚率が、その他のスタイルに比べて、とても低いのです。「神前式だと離婚しにくいのか」という疑問を抱いた私は、他の結婚式場やホテルの経営者にもたずねてみましたが、答えは同じでした。やはり、どこでも神前式を行ったカップルの離婚率は低いのです。
なぜ神前式のカップルは離婚しにくいのでしょうか。いろいろ理由はあると思いますが、何よりも神道という宗教の本質と結婚という行為の相性が良いのです。もともと結婚は、男性と女性が結びついて新しい生命をつくり出す、「産霊」の行為を意味します。これは神道が最上のものとするコンセプトですが、わが社の「サンレー」という社名も、この「産霊」に由来しています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はその源を1つとしながらも異なる形で発展しましたが、いずれも他の宗教を認めない一神教です。宗教的寛容性というものがないから対立し、戦争になってしまう。一方、八百万の神々をいただく多神教としての神道の良さは、他の宗教を認め、共存していけるところにあります。自分だけを絶対視しない。
自己を絶対的中心とはしない。根本的に開かれていて寛容である。他者に対する畏敬の念を持っている。神道のこういった平和的側面は、そのまま結婚生活に必要なものではないでしょうか。
結婚という人間界最高の平和と、神道という平和宗教は基本的に相性が良いのです。そして、結婚とは「結魂」です。神前式は、荒魂、奇魂、幸魂、和魂が1つに結び合わされる結魂が成し遂げられる場であり、そこで新郎の魂と新婦の魂も固く結ばれます。一度、結魂を果たした魂同士は簡単には離れにくい。神前式に何となくネガティブ・イメージを持っていた結婚予定者で、もし離婚を絶対にしたくない方がいれば、ぜひ神前式を見直してみて下さい。さらに知りたい方は、拙著『結魂論』(成甲書房)をお読み下さい。
「縁 The Bride of Izumo」には、当然ながら出雲大社が何度も登場しました。そして、登場するたびに息を呑むほどの美しさでした。撮影監督を務めたクリストファー・ドイルが、最高の「日本の美」を表現してくれました。
ちょっと気になったのは、食事の場面がいつも照明が暗かったことですが、ドイルには「陰翳礼讃」の美学があるのかもしれません。しかし、和食というものは見た目も大事です。真紀や充が御飯に味噌汁の食事を取るシーンなどは明るい照明の下で撮影してほしかったですね。
出雲大社といえば、須佐之男命や大国主神(大穴牟遅神)の神話で有名です。須佐之男命の7代目にあたるのが大国主神です。八十神と呼ばれる多くの兄たちがいました。八十神に迫害され続けた大国主神は、死者の国(根の国)へ逃げて須佐之男命に出会い、さまざまな試練のすえに、須佐之男命の娘である須世理毘売命と、神宝である太刀や弓矢を得ます。そして地上に戻り、須佐之男命の助言どおり太刀と弓矢で八十神を退治。出雲の国を治め、ほかの神と協力をしつつ出雲の国づくりを精力的に行いました。その頃になって、天照大神が、建御雷神と経津主神を使者にして、国を譲るようにと申し入れてきました。
大国主神は自分の息子の同意を条件に、国譲りを受けいれました。事代主神は同意しましたが、もうひとりの息子の建御名方神は反抗し、建御雷神に勝負を挑みました。しかし、あえなく敗れ、諏訪の地まで逃げたあとでとらえられたのでした。これが、諏訪大社の祭神となっています。こうして、「出雲の国譲り」は行われましたが、その条件として大国主神が出したのが、天照大神と同じくらいりっぱな神殿を作ることで、それが出雲大社です。
大国主神はその後、この大神殿にこもって静かに暮らしたと伝えられています。このような神話に触れると、なんだかホッとしますね。人間には神話と儀礼が必要であると、つくづく実感します。
わたしは、これまで3回、出雲大社を訪れました。 最近では「大遷宮」の年である2013年の3月に、サンレー本社の社員旅行で訪れましたが、この映画を観て、また行きたくなりました。
単なる観光というよりも、一度、出雲大社での結婚式を見てみたいです。
出雲大社は「世界の涯て」に位置していると思います。
前日に観た映画に登場した「世界の涯て」は寒流と暖流が出合うスコットランドの奇跡の海でした。その瞬間は非常に神々しく、まさに大自然の神秘、偉大さを感じさせる感動的な光景でした。わたしは、この場面は皆既日食、あるいは結婚式に似ていると思いました。なぜなら、寒流と暖流の結婚、太陽と月の結婚、そして男と女の結婚・・・すべて、この世の陰陽のシンボル同士が合体する大いなる錬金術が実現する瞬間だからです。「世界の涯て」とは、錬金術が行われる場所のことなのです。そして出雲大社をはじめとした神社でも、男女の「結魂」という魂の錬金術が行われます。
「縁 The Bride of Izumo」のラストシーンは、晴れて出雲大社で結婚式を挙げた真紀の白無垢姿でした。それはあまりにも美しく、わたしは「日本人には和が似合う!」と心の底から思いました。この素晴らしい映画を、冠婚葬祭互助会の経営者のみなさんはもちろん、ブライダル産業に関わるすべての方々に観ていただきたいです。