No.0223
東京に来ています。第68回カンヌ国際映画祭にてグランプリに輝いた映画「サウルの息子」をヒューマントラストシネマ有楽町で観ました。強制収容所で仲間たちの死体処理を請け負うユダヤ人の主人公が、息子と思われる少年をユダヤ人として正しい儀式で弔うために収容所内を駆けずり回る2日間を描いた感動作です。詩人で小説家でもあるルーリグ・ゲーザが主人公サウルを演じています。映画評論家の町山智浩氏が早くも「2016年ベスト映画」として、この作品の名を挙げています。
映画公式HPの「INTRODUCTION」には以下のように書かれています。
「2015年のカンヌ国際映画祭のコンペ部門で、ある無名の新人監督の作品が上映されると、場内は異様な興奮に包まれた。その衝撃は瞬く間に映画ジャーナリストたちの間に伝わり、その卓越した撮影法と演出により、長篇デビュー作にして見事カンヌのグランプリを獲得するという異例の快挙を成し遂げた。その新鋭監督とは『ニーチェの馬』で知られる名匠タル・ベーラの助監督をしていた38歳のハンガリー出身のネメシュ・ラースロー。強制収容所に送り込まれたユダヤ人が辿る過酷な運命を、同胞をガス室に送り込む任務につく主人公サウルに焦点を当て、サウルが見たであろう痛ましい惨劇を見る者に想像させながら描く。これまでの映画で描かれた事の無いほどリアルなホロコーストの惨状と、極限状態におかれてもなお、息子を正しく埋葬することにより、最後まで人間としての尊厳を貫き通そうとした、一人のユダヤ人の二日間を描いた感動作」
また、映画公式HPの「STORY」には「息子を正しく弔いたい・・・その思いがサウルに再び生きる勇気を与えた」として、以下のように書かれています。
「1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。サウルは、ハンガリー系のユダヤ人で、ゾンダーコマンドとして働いている。ゾンダーコマンドとは、ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。彼らはそこで生き延びるためには、人間としての感情を押し殺すしか術が無い。
ある日、サウルは、ガス室で生き残った息子とおぼしき少年を発見する。少年はサウルの目の前ですぐさま殺されてしまうのだが、サウルはなんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出し、ユダヤ教の教義にのっとって手厚く埋葬してやろうと、収容所内を奔走する。そんな中、ゾンダーコマンド達の間には収容所脱走計画が秘密裏に進んでいた・・・。
*ユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられている」
この映画の主人公サウルは強制収容所のガス室の特殊任務としての「ゾンダーコマンド」でした。ゾンダーコマンドとは、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊であり、およそ考えうる中でこの世で最も恐ろしい仕事とされています。ゾンダーコマンドだった生存者シュロモ・ヴェネツィアは、自身の体験を著書『私はガス室の「特殊任務」をしていた』(鳥取絹子訳、河出書房新社)で赤裸々に語っています。彼は作業の内容を知らされないまま選抜され、それがわかった時にはすでに拒否することはできませんでした。同書でヴェネツィアは以下のように語っています。
「一、二週間すると、結局慣れてしまいました。すべてに慣れました。むかつくような悪臭にも慣れましたね。ある瞬間を過ぎると、何も感じなくなりました。回転する車輪に組み込まれてしまった。でも、何一つ理解していない。だって、何も考えていないんですから!」
「ニューズウィーク日本版」で映画評論家の大場正明氏は「『脱人間化の極限』に抵抗するアウシュヴィッツのゾンダーコマンドの姿に深く心を揺さぶられる」というタイトルのコラムで以下のように述べています。
「ネメシュ監督は、死を生産する工場とゾンダーコマンドの精神状態を踏まえ、独自の映像表現を駆使する。収容所には連日、列車で多くのユダヤ人が移送され、労働力になる者とそうでない者に振り分けられ、後者はガス室に送られる。サウルは、後者となった同胞たちの衣服を脱がせ、ガス室へと誘導し、残された衣服を処分し、金品を集める。扉が閉ざされたガス室は阿鼻叫喚に包まれる。虐殺が終わると、ガス室の床を清掃し、死体を焼却場に運び、灰を近くの川に捨てる」
ゾンダーコマンドの存在を知らなかった日本人は多いと思いますが、わたしも2001年に製作され、2003年に日本で公開されたアメリカ映画「灰の記憶」を観るまでは知りませんでした。ティム・ブレイク・ネルソンが監督・脚本を務めた「灰の記憶」は実在のユダヤ人医師、ミクロシュ・ニスリの手記を基に映画化されました。アウシュヴィッツ強制収容所のガス室で奇跡的に生き残った少女の命を守るユダヤ人たちの葛藤と勇気を描いた作品です。
「サウルの息子」において、サウルが「わたしの息子だ」という少年も、アウシュヴィッツ強制収容所のガス室で奇跡的に生き残ります。そのとき、少年の強い生命力に驚いた人々は「以前も少女が生きていた」と言いますが、その少女こそ「灰の記憶」の主人公のことだったのです。
一般にホロコーストを題材にした映画は暗くて悲惨ですが、これまでの作品群と比べても「サウルの息子」の暗さと悲惨さは想像を絶するほどです。なによりも、「自分がいま映画を観ているのだ」ということを忘れるほどの臨場感にあふれる映像は、まるでバーチャル・リアリティのようでした。
なぜ、わたしたち観客は、アウシュヴィッツ強制収容所でのサウルの体験をここまでリアルに感じることができたのか。「サウルの息子」の映画パンフレットの「解説」には以下のように書かれています。
「冒頭、滴るような緑の森を背景に、サウルの顔を延々とワンシーン=ワンショットでとらえるカメラが不気味なまでに印象的である。『サウルの息子』では、カメラはつねに、ほとんど感情を露わにしないサウルの顔にフォーカスを当て、あるいは背後からその行動を手持ちカメラで追い続けるという手法が徹底している。その結果、画面上では視界が極端に限定され、彼の背後で起きていること、人物たちは輪郭がぼやけて、曖昧で、不確かな、実在感を欠いたものに映る。見せたくないものを意図的に見せないように配慮しつつ、サウルの体験する過酷で悲惨きわまりない状況を、そのまま観客に経験させるという卓越した効果を上げている」
このような映画手法によって、わたしたちはかつてないほどリアルに強制収容所内の光景を現実感をもって見ることができたのです。それにしても、これほどの映画を製作した人物がわずか38歳の無名の新人監督であったとは驚きです。そのネメシュ・ラースロー監督は、インタビューで1985年のソ連映画「炎628」に大きなインスピレーションを受けたと述べています。1943年の東部戦線を舞台に、1人の少年が旧ソ連でドイツ軍による集団虐殺を体験する作品です。鮮烈かつ陰惨な戦闘・虐殺シーンで知られ、クエンティン・タランティーノは「史上最高の戦争映画」と絶賛しました。
「炎628」の舞台となったモスクワの西、白ロシア(現ベラルーシ共和国)地域は、第2次世界大戦中ドイツ軍にいちばんひどい目に遭ったとされています。じつに、628の村が虐殺の犠牲になったのです。当時、地下組織に加わっていた主人公の少年が村に戻ってくると、そこには死体の山がありました。次の村では、筆舌に尽くしがたい地獄のような体験をしました。ドイツ兵たちが女子供を大きな納屋に詰めこみ、火をつけたのです。
「炎628」に多大なインスピレーションを受けたという「サウルの息子」にも、地獄のような光景が展開されます。アウシュヴィッツのガス室も日常的な地獄でしたが、さらなる地獄がスクリーンの中に映っていました。それは、3000人ものユダヤ人が処刑されるためアウシュヴィッツに送られてきましたが、あまりにも人数が多くてガス室も焼却炉もパンクしてしまいます。するとナチスは、なんとユダヤ人たちを裸にして、生きたまま火炎放射器で焼き殺してしまったのです。これほど「人間の尊厳」というものを踏みにじった行為はありません。わたしは、呆然としてスクリーンを眺めていました。
いま、日本では「0葬」というものが話題になっています。
通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。わたしは、「0葬」は「炎628」や「灰の記憶」、そして「サウルの息子」で描かれた人間の狂気に通じる行為であり、その背後にはナチスが抱いていた全体主義・根絶主義の影響を感じます。
「0葬」の危険性を考える上で、『〈凡庸〉という悪魔』藤井聡著(晶文社)という本が参考になります。「21世紀の全体主義」というサブタイトルがついた同書は、京都大学大学院工学研究科教授(都市社会工学専攻)である藤井氏が、ナチスの蛮行を批判し続けた哲学者ハンナ・アーレントの全体主義論で現代日本の病理構造を読み解いた本です。
今日、「新自由主義」と呼ばれる考え方が注目を集めています。藤井氏は、その考え方の大きな特徴は「道徳論が不在」であり、「市場に任せさえすればそれでよい」と考える市場原理主義という、思考停止を半ば強要するような極めて「全体主義的」な色彩を強く帯びたものであると指摘します。
「道徳論が不在」で、歪んだ新自由主義がはびこっているといえば、わたしは日本の葬祭業界が思い浮かびます。家族葬、直葬、0葬・・・・・・一連の「薄葬」の背後には、親が亡くなったら子がきちんと送り出すといった「道徳論」が決定的に欠けています。わたしは、「葬式は、要らない」とか「0葬」といった考え方は一種の全体主義であると思います。そこには明らかに「思考停止」と「全否定」による根絶主義があるからです。
2015年の3月20日、地下鉄サリン事件から20年目を迎えました。ということは、いわゆるオウム真理教事件はちょうど戦後50年の年に起こったわけです。日本が敗戦した50年後にオウム真理教事件が起こったことになります。思想家の小浜逸郎氏に『オウムと全共闘』という著書がありますが、オウム事件とは一種の革命であったという見方ができます。麻原彰晃は「ナチス」に異様な関心を抱いており、自身をヒトラーに重ね合わせていたことは有名ですが、ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスはガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。
2015年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団「ISIS」が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、湯川遥菜さんや後藤健二さんの斬首刑以上の衝撃を受けました。イスラム教では火での処刑は禁じられており、火葬さえ認められていません。遺体の葬り方は、土葬が原則です。イスラム教において、死とは「一時的なもの」であり、死者は最後の審判後に肉体を持って復活すると信じているからです。
イスラム教における「地獄」は火炎地獄のイメージであり、火葬をすれば死者に地獄の苦しみを与えることになると考えます。よって、イスラム教徒の遺体を火葬にすることは最大の侮辱となるのです。イスラム国は、火での処刑を正当化する声明を発表しましたが、自分たちの残虐行為を棚に上げてイスラム教を利用するご都合主義が明らかとなりました。
わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。このことを知った瞬間、わたしの中で、イスラム国の評価が定まりました。
イスラム教が生まれた母胎はユダヤ教です。
かつて、わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三大一神教のことを「三姉妹宗教」と表現しましたが、好戦的な次女のキリスト教に比べて、長女のユダヤ教と三女のイスラム教は非常に似ている部分が多いと言えます。イスラム教が火葬を禁じているルーツは、ユダヤ教にあります。「サウルの息子」の映画パンフレットの「解説」には以下のように書かれています。
「ユダヤ教では、死後、救世主メシアが死者を復活させるために死体をそのままの状態に保つ必要があり、火葬は禁忌である。サウルが土葬に執着するのはそのためだ。最初は、『お前には息子はいない』と諭していた仲間たちが、徐々にサウルの突拍子もない提案を受け入れ、協力を惜しまなくなる」
現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増え、あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」までもが注目されています。しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。
「0葬」への反論の書である『永遠葬』(現代書林)にも書きましたが、わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
しかし、映画「サウルの息子」を観て、頑なに火葬を拒み土葬に執着するサウルの姿に深く考えさせられました。一神教の信者である人々にとって、葬儀という宗教儀式は故人が神の御許に帰ることができるかどうかという最重要問題です。わたしたち日本人は、葬儀というと、すぐに残された人びとの心の問題を考えてしまいますが、一神教の人々からすれば、そんなことは二の次であり、あくまでも神と人間との関係が最優先されるのです。
そして、この作品ではサウルが必死になって、ユダヤ教の聖職者であるラビを探していました。ラビを見つけたサウルは「息子を埋葬したい」と頼み込みます。困惑したラビたちは、とりあえず祈るしかないのですが、このような場面を観て、わたしは「儀式とは何か」「祈りとは何か」ということを考えさせられました。
わたしの次回作は『儀式論』(仮題、弘文堂)です。この本では、学術論文のようなスタイルで「儀式とは何か」について論じてみたいと思っています。そのために「儀式」に関する多くの参考文献を読んだのですが、最近読んだ本の中に「天国では、儀式も祈りも存在しない」という言葉を見つけ、大きな気づきを与えられました。天国では、そこに神がおわします。天国から遠く離れた地上だからこそ、儀式や祈りが必要であるというのです。人間は、儀式や祈りによって、初めて遠隔地である天国にいる神とコミュニケーションができるというのです。もしかすると、天国というのは大いなる情報源であって、そこにアクセスするために儀式や祈りがあるのかもしれません。いわば、Wi-Fiのような存在です。儀式や祈りとは、神に「接続」するための技術なのではないでしょうか。
それにしても改めて思い知らされるのは、人間にとって葬儀というものがいかに重要な意味を持っているかということです。葬儀は人間の最重要問題であると言っても過言ではありません。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行ってきました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。 わたしは、拙著『唯葬論』(三五館)で「問われるべきは『死』ではなく『葬』である」と訴えましたが、埋葬に対する異常なまでの執念を感動的に描いた「サウルの息子」はまさに唯葬論的な映画でした。これほど「葬」の本質を鋭く問うた映画はありません。
最後に、「サウルの息子」のラストシーンでは、サウルの微笑を見ることができます。この世の地獄に送られ、生きる希望をなくし、映画全篇を通じてまったく表情のなかったサウルですが、最後の最後に穏やかな微笑を観客に見せてくれます。どうして、サウルは微笑んだのか。それはネタバレになってしまうので書くことはできませんが、わたしはこのラストシーンに非常に感動しました。興味のある方は、ぜひ映画館で御覧になって下さい。