No.0222


 映画「永遠の僕たち」をDVDで観ました。赤の他人の葬儀に参列し続ける少年と不治の病に冒された少女の恋の物語です。
 2011年のアメリカ映画ですが、「ベスト50レビュアー」こと不識庵さんが教えてくれました。彼は、「一条先生は既にご覧になっているかもしれませんが、気になる映画をユーチューブで発見しました。既に劇場公開は終わっているようですが、是非観てみたい映画です」とメールに書いていました。わたしは、もう予告編の動画を観ただけで泣けてきました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「第64回カンヌ国際映画祭『ある視点』部門でオープニング上映され高い評価を受けた、『ミルク』のガス・ヴァン・サント監督による一風変わった青春ドラマ。葬式に参列することを日常とする、死に取り付かれた青年と、不治の病に侵された少女の恋を繊細に描く。主演は、デニス・ホッパーの息子ヘンリー・ホッパーと、『アリス・イン・ワンダーランド』のミア・ワシコウスカ。2人を見守る重要な役どころで、日本の実力派俳優・加瀬亮が出演しているのも見逃せない」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「交通事故によって両親を失い、臨死体験をした少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)のただ一人の友人は、彼だけにしか見えない死の世界から来た青年ヒロシ(加瀬亮)だけであった。他人の葬式に参列するのが日常的なイーノックは、ある日、病によって余命いくばくもない少女アナベル(ミア・ワシコウスカ)と出会う」

 この映画を観終わって、わたしは「これは100%、わたしのための映画だ!」と思いました。この作品は葬儀のシーンに始まり、葬儀のシーンに終わります。武道の基本は「礼に始まり、礼に終わる」ですが、この映画は「葬礼に始まり、葬礼に終わる」なのです。
 これまで「おくりびと」あるいは「おみおくりの作法」など、数多くの葬儀をテーマとした映画を観てきましたが、この「永遠の僕たち」にはそれらの名作とはまた違った何とも言えない不思議な味わいがありました。

 この映画には、日常的に他人の葬儀に参列するイーノックという少年が登場します。見ず知らずの赤の他人の葬儀に参列するなんて、「なんという悪趣味の悪戯か」と思う人もいるでしょうが、それには事情がありました。彼は交通事故で両親を同時に亡くしているのですが、彼自身は昏睡状態が続いていたために、両親の葬儀には立ち会えなかったのです。それで、彼は「両親ときちんとお別れができなかった」「僕だけを残して、両親は勝手に死んでいった」という思いを抱き、理不尽な「死」に対する理解を得るためにも他人の葬儀を覗いていたのだと思います。

 拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていくのです。親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。

 この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
 わたしは、葬儀を行う最大の意味はここにあると思っています。
 まさに、昏睡状態中に愛する両親の葬儀を済まされてしまったイーノックの心には、いつまでも不安や執着が残っているのでした。
 映画の中には、いろんな人の葬儀に現れるイーノックを見咎めて「遊びのつもりなら警察に」と言い放つ葬儀社の社員が登場します。これには強い違和感を覚えました。上級心理カウンセラーの資格を取得したわが紫雲閣のスタッフたちならば、「何か心に悩みを抱いているのでは?」と考え、イーノックに対してもっと優しく接してくれるはずだと思います。

 また、イーノックは自身の死を怖れていたのではないかと思います。そのために、他人の葬儀に参列していた部分もあるのではないでしょうか。というのも、人は他人の葬儀に参列すると、死の不安が和らぐものなのです。なぜなら、葬儀の場では「人は誰でも死ぬ」「いつかは終わりが来る」という真実を自然に受けとめることができるからです。そして、「自分にもいつかは終わりが来る」と悟るのです。

 さらに、死の不安を和らげる方法があります。それは、自分の葬儀を具体的にイメージすることです。それは、その人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。自分自身の葬義をイメージし、そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像するのです。そして、その弔辞の内容を具体的に想像するのです。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。
 葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。

 自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。
 よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。
 この映画にはアナベルという不治の病に侵された少女が登場しますが、彼女は「わたしのお葬式は、ポテト・ピザ・シェイク・・・たくさんの食べ物を並べたい!」と語ります。「悲しいと、人はお腹が空くから」というのがその理由なのですが、こういうイメージ・トレーニングによって、彼女は少しでも死の不安を和らげていたように思います。

 アナベルは「進化論」を唱えたチャールズ・ダーウィンを敬愛するナチュラリストでした。さまざまな鳥や虫の話をイーノックにしてくれるのですが、わたしは「なぜ、不治の病に侵された彼女は自然に惹かれるのだろう」と考えました。そして、大の虫好きとして知られる日本の解剖学者である養老孟司氏のことを連想しました。
 ブログ『死の壁』で紹介した本で、著者である養老氏は、一時期よく話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な問いに対して、人間というのは高度なシステムであるとした上で、「システムというのは非常に高度な仕組みになっている一方で、要領よくやれば、きわめて簡単に壊したり、殺したりすることが出来るのです」と述べます。

 ここでいう「システム」は人間も含む自然や環境のことであると説明し、養老氏は「だからこそ仏教では『生きているものを殺してはいけない』ということになるのです。殺すのは極めて単純な作業です。システムを壊すのはきわめて簡単。でも、そのシステムを『お前作ってみろ』と言われた瞬間に、まったく手も足も出ないということがわかるはずです」と述べています。
 この意見は、解剖学者らしいドライな考え方に一見思われます。しかし養老氏は、人の「死」は周囲の人間に対して回復不可能な影響を与えるものだとして、次のように述べます。

「人間を自然として考えてみる。つまり高度なシステムとして人間をとらえてみた場合、それに対しては畏怖の念を持つべきなのです。それは結局、自分を尊重していることにもなるのですから。人間は蝿や蚊の仲間か、それともロケットの仲間か。考えてみればすぐわかるでしょう。ところが、これをロケットのほうだと勘違いしている人がいるのではないか」

 ナチュラリストのアナベルは詩人の感性も持ち合わせており、母親と姉に「夕日が沈んだら死ぬと思っている鳥がいる。それで鳥たちは朝めざめたら生きていることに驚いて、喜びのあまり美しい声で歌うの」と語ったりします。彼女にとって、自然について考えることは生きるために必要なことでした。そして彼女は、「人間を自然として考える」ことで、死の恐怖を紛らわせていたのでしょう。要するに、自分という一個の生命体を客観視するということです。がんが再発して、余命3ヵ月が宣告されたとき、動揺する姉に対して、彼女は次のように述べます。

「地球全体の歴史を考えれば、人の一生なんて一瞬よね。爬虫類と比べたって、人類の歴史はずっと浅いし、わたしの3ヵ月は地球の3世紀とか3日分・・・」と、そこまで言ったとき、姉は「もう、やめて!」と懇願するのですが、アナベルはこのように考えることによって発想を転換し、死の恐怖から逃れようとしていたのです。

 恋人のイーノックも、彼女に対して「3ヵ月あれば何でもできる。たとえば、フランス語を習ったり、アフリカ行きとか、マリンバを習ったり、いろいろ・・・」と言って、彼女を慰めます。また、彼らはなんとアナベルが死ぬという設定の芝居の練習まで行います。それは、まさに「死のリハーサル」であり、死の恐怖を克服する試みでした。わたしは、このような「死が怖くなくなる考え方」をコレクションしたカタログのような本を書いてみたいと思いました。うまく書くことができれば、きっと、多くの人を救うことができると思います。

 さて、この映画には、イーノックのただひとりの友人として、ヒロシという青年が登場します。ヒロシは、太平洋戦争における日本軍の特攻作戦で命を散らせた兵士の幽霊でした。イーノックは交通事故で臨死体験をして以来、ヒロシの姿が見えるようになったのですが、ヒロシは「お辞儀は深い敬意を表す」とか「死者は敬うべきだ」といった大切なことをイーノックに伝えます。現代のアメリカに三菱やTOYOTAの自動車が走っていることに驚くヒロシに対して、イーノックは「今や、日米はクールな関係なんだ」と言います。「クール?」と困惑するヒロシの表情が印象的でした。

 しかし、アナベルの「ナガサキの仇討ち?」という一言から、自分の死後に長崎に原爆が投下された事実を知ったヒロシは悲しみに浸ります。映画では実際の長崎への原爆投下や焼け野原となった長崎市街の映像が流れましたが、これには感銘を受けました。日本の特攻隊員を良心を持った存在として描いたり、原爆のシーンをアメリカ映画で使用するという心遣いに、わたしはガス・ヴァン・サント監督の大いなる「隣人愛」を感じました。
 それにしても、加瀬亮は名優であると思いました。英語の発音も素晴らしいし、何よりも表情の豊かさがいいですね。

 もう一箇所、ヒロシが切ない表情をする場面があります。
 それはハロウィンの夜、イーノックがアナベルの家を訪れるところを見たときです。抱き合って互いを愛おしみ合う2人の姿を見て、ヒロシは自分の果たせなかった恋を想うのでした。特攻隊員は出撃の際に、家族や恋人への手紙を友人に託して飛び立って行きましたが、ヒロシは恋人へ書いた遺書を他人に託しませんでした。その手紙を持ったままゼロ戦に乗り込み、大空へ飛び立って行ったのです。

 あることでイーノックとアナベルは喧嘩をし、別れてしまいます。 アナベルの最期のときは近づいてきますが、意地を張ったイーノックは彼女に会いに行こうとしません。そのとき、ヒロシは自分の渡せなかった恋人への手紙をイーノックに見せ、「想いのたけを述べたいのに、時間は少ししかない。人生には限りがある」と言います。そして、「彼女に会えよ!」とイーノックの背中を押すのでした。特攻隊員の短い人生を歌ったサザンオールスターズの「蛍」には「生まれ変われたなら、また恋もするでしょう♪」という歌詞がありますが、わたしは特攻で散っていた若者たちのあまりにも悲しい青春を想うと、泣けて仕方がありませんでした。

 アナベルの最期の日、イーノックは彼女にプレゼントを贈ります。それは、以前約束していたシロフォンでした。部屋を出たイーノックが呼び戻され、彼女のもとに戻ってみると、そこには正装したヒロシがいました。
 彼は、これから「長い旅」に出るアナベルを迎えに来たのです。
 ヒロシとイーノックは敬意を表す日本式のお辞儀をします。
 そして、アナベルの葬儀は彼女が望んでいた通りのスタイルで執り行われました。彼女の遺影とともに、たくさんのお菓子や食べ物が並べられ、参列した子どもたちを喜ばせました。イーノックは故人の思い出を語る壇上に立ちます。彼の心にはアナベルとの楽しい思い出が次々に去来し、彼は笑顔を浮かべるのでした。

 このエンディングを観ながら、わたしは葬儀によってアナベルはイーノックの心の中で永遠の存在になったと思いました。愛する人を亡くしたばかりの人の頭の中は、亡くなった人の思い出でいっぱいのことでしょう。その人は、「この死別によって、わたしたちの結びつきは断たれてしまった」と考えるかもしれません。でも、それは違います。たとえ相手が死者となっても、残された人との結びつきが消えることはありません。
 拙著『永遠葬――想いは続く』(現代書林)にも書きましたが、葬儀とは「死のセレモニー」ではなく「不死のセレモニー」なのです。

 アフリカのある部族では、死者を二通りに分ける風習があるそうです。人が死んでも、生前について知る人が生きているうちは、死んだことにはなりません。生き残った者が心の中に呼び起こすことができるからです。しかし、記憶する人が死に絶えてしまったとき、死者は本当の死者になってしまうというのです。誰からも忘れ去られたとき、死者はもう一度死ぬのです。愛する人を二度も死なせてはなりません。いつも、亡くなった人を思い出すことが大切です。亡くなった人は、何よりも愛する人から思い出してもらうことを願っているのです。思い出し続けることによって、死者は永遠の存在になるのです。そのために葬儀を行うと言ってもよいでしょう。

 「永遠の僕たち」は「愛」と「死」の映画です。この映画を観て、わたしは1970年のアメリカ映画「ある愛の詩」を思い出しました。 愛は、人間にとって、もっとも価値あるものです。実話にしろ、フィクションにしろ、さまざまな愛の物語が、わたしたちの魂を揺さぶってきました。「愛」はもちろん人間にとって最も価値のあるものです。ただ「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本来の姿は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、強い輝きを放つのではないでしょうか。「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そこに感動が生まれるのです。
 逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直視できるとも言えます。「愛」と「死」の本質を見事に描いた「永遠の僕たち」を1人でも多くの方に観てほしいです。

  • 販売元:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
  • 発売日:2015/08/28
PREV
HOME
NEXT