No.0229
3月12日に公開された日本映画「家族はつらいよ」を観ました。
「男はつらいよ」シリーズなどをはじめ、長年にわたって「家族」を撮り続けてきた山田洋次監督による喜劇です。橋爪功と吉行和子が離婚の危機に瀕する熟年夫婦を演じ、長男夫婦を西村雅彦と夏川結衣、長女夫婦を中嶋朋子と林家正蔵、次男カップルを妻夫木聡と蒼井優が演じています。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『男はつらいよ』シリーズや『たそがれ清兵衛』などの名匠・山田洋次監督によるコメディードラマ。結婚50年を迎えた夫婦に突如として訪れた離婚の危機と、それを機にため込んできた不満が噴き上げる家族たちの姿を描く。ベテラン橋爪功と『御手洗薫の愛と死』などの吉行和子が騒動を引き起こす夫婦にふんし、その脇を西村雅彦、夏川結衣、妻夫木聡、蒼井優といった実力派が固めている。彼らが繰り出す濃密なストーリー展開に加え、笑いをちりばめながら家族の尊さを表現する山田監督の手腕も見もの」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「長男・幸之助(西村雅彦)の一家、次男・庄太(妻夫木聡)と3世代で同居をする平田家の主、周造(橋爪功)。妻・富子(吉行和子)の誕生日であることを忘れていたことに気付き、彼女に何か欲しいものはないかと尋ねてみると、何と離婚届を突き付けられる。思わぬ事態にぼうぜんとする中、金井家に嫁いだ長女・成子(中嶋朋子)が浪費癖のある夫・泰蔵(林家正蔵)と別れたいと泣きついてくる。追い掛けてきた成子の夫の言い訳を聞いていらついた周造は、思わず自分も離婚の危機にあることをぶちまけてしまう」
この映画、ブログ「東京家族」で紹介した映画とほとんど同じ俳優が同じような役柄を演じていました。せっかく「東京家族」に感動した者から言わせてもらえれば、「喜劇なんか作って!」「余計なことをして!」と思いがちですが、山田監督は悲劇(感動ドラマ)と喜劇の両方の視点から描くことによって「家族」の本質を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか。
これは、「冠婚葬祭」という仕事に携わっているということもあるのですが、わたしはこれまで、『結魂論』と『老福論』(ともに成甲書房)、また、『むすびびと』(三五館)と『最期のセレモニー』(PHP研究所)、さらには、『幸せノート』と『思い出ノート』(ともに現代書林)などを同時刊行あるいはほぼ同時に刊行してきました。結婚と死、結婚式と葬儀、喜びと悲しみ・・・・・・こういった陰陽の世界をなぜ同時に扱うのかというと、それは人間の「幸福」の本質を浮き彫りにするためです。単に嬉しいだけとか、単に悲しいだけではなく、2つの光線を両方向から投射してみて初めて立体的に浮かび上がってくるものがあると思うのです。山田監督が「東京家族」と「家族はつらいよ」の2作を続けて世に問うた理由もそのへんにあるのではないでしょうか。
「家族はつらいよ」はそのタイトルからいっても、山田監督の代名詞である「男はつらいよ」の世界に通じるユーモアが満ち溢れています。じつは、わたしは「男はつらいよ」をあまり観たことがないのですが、映画館に集まった高齢者の方々は笑うツボが同じというか、「ああ、この人たちは『男がつらいよ』をずっと観てきた人たちなんだろうな」と思わせるものがありました。正直、その予定調和の物語はわたしの好みではなく、最初は笑えなかったのですが、最後は周囲につられて一緒に笑ってしまいました。(苦笑)
それにしても、老夫婦の観客が多いことには驚きました。それが必ず御主人(おじいさん)のほうがよく喋るのです。つぶやきといったレベルではなく、けっこう大きな声で喋るのです。きっと隣りに座っている奥さん(おばあさん)に聞かせるために声を出しているのでしょうが、「なるほどねぇ」とか「役者ってのは、やっぱり演技がうまいねぇ」とか、どうでもいいような下らないことを大きな声で言うのです。まいったなあ、もう!(苦笑)
映画の序盤で、吉行和子演じる老妻が橋爪功演じる老夫に「あなたにお願いがあります」といって書類を手渡す場面があります。こんなの映画のテーマから言っても、誰が見たって何の書類かわかるのに、わたしの真後ろに座っている老人は大きな声で「おい、ありゃあ、離婚届だよ、絶対!」などと言うのです。うるさくて仕方がありませんでしたね。
もしかしたら、自宅でテレビを観ている感覚なのかもしれませんね。でも、聞いている奥さんのほうは無言でしたね。「あなた、静かにしなさいよ」ぐらい言ってくれてもいいと思いましたけど・・・・・・。
わたしは、そんな様子を見ながら、「男っていうのは変な行動をする動物だな」と改めて思いました。映画そのものが、そんな男が嫌になってしまった女から離婚を切り出すという話なのですが、客観的にみて、夫婦の中では圧倒的に夫のほうが非常識な人間が多いように思います。吉行和子が家族の前で切々と訴えた「別れたい理由」については、わたしも含めて、すべての男性に思い当たる節があるのではないでしょうか。
わたしの行った映画館には、平気で周囲に迷惑をかける御主人(おじいさん)たちがいました。この人たちは、きっと家でも奥さん(おばあさん)に迷惑をかけ続けているのではないかと思います。ある日、奥さんから離婚届を突きつけられるかもしれません。わたしは、この映画を観ながら「迷惑とは何か」ということをずっと考えていました。
最近、「終活」がブームになっています。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように、ずっと思っていました。「無縁社会」などと呼ばれる現在、みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。
「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」。すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えます。
結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。亡くなった親が葬儀の生前契約、墓地の生前購入などをしたことをわが子に知らせなかったために、本人の死後、さまざまなトラブルも発生しているようです。みんな、家族間で話し合ったり、相手を説得することが面倒くさいのでしょう。その意味で、「迷惑」という建前の背景には「面倒」という本音が潜んでいるのではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。
そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。当たり前ではないですか。そもそも"つながり"や"縁"というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。家族だって隣人だって、みんなそうでした。
「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な"つながり"。
現代の日本社会では"ひとりぼっち"で生きる人間が増え続けていることも事実です。しかし、いま「面倒くさいことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります。
さらには、「面倒くさいこと」の中にこそ、幸せがあるのではないでしょうか。
考えてみれば、赤ちゃんのオムツを替えることだって、早起きして子どもの弁当を作ることだって、寝たきりになった親の介護をすることだって、みんな「面倒くさいこと」です。でも、それらは親として、子として、やらなければならないこと。そして、子どもが成長した後、また親が亡くなった後、どうなるか。わたしたちは「あのときは大変だったけど、精一杯やってあげて良かった。あのとき、自分は幸せだった」としみじみと思うのです。それが「面倒くさいこと」のままであれば、どうなるか。行き着く果ては、赤ん坊を何人も捨ててしまう鬼畜のような親が出現するのではないでしょうか。
家族とは迷惑をかけ合うもの。しかしながら、感謝の「こころ」を忘れてはなりません。そして、「こころ」は「ことば」にしたり、「かたち」にする必要があります。「こころ」を「かたち」にする最も良い場面こそ、冠婚葬祭です。夫婦の場合であれば、「金婚式」や「銀婚式」でしょうか。わたしの両親は3年前に金婚式を、わたしたち夫婦は2年前に銀婚式を迎えました。わたしたちが金婚式を迎えるまでには、あと23年もあります。感謝の気持ちを忘れずに、仲良く暮らしていきたいものです。いや、ほんとに。
ところで、前作の「東京家族」は「東京物語」のリメイクといってもいいほどのオマージュ作品でした。山田監督が「今回、初めて小津さんの凄さがわかった」と言うほど、小津映画に傾倒して作られた映画でした。
「家族はつらいよ」にも、橋爪功演じる主人公が「東京物語」のDVDを観る場面が登場します。山田監督にとって、「東京物語」とは家族映画のシンボルであり、さらには理想の映画なのでしょう。
ブログ「小津安二郎展」にも書きましたが、わたしは小津安二郎の映画が昔から大好きで、ほぼ全作品を観ています。黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのではないかと思います。
2013年は、小津安二郎の生誕110周年でした。
それにあわせて、わたしは小津映画の本を書く予定でした。
実際に出版社から正式なオファーも受けていたのですが、残念ながら執筆を断念しました。なぜなら、その本を書くには大量の小津映画をもう一度観直さなければならず、わたしにはその時間がどうしても取れなかったからです。敬愛する人物の家族論を書くことに情熱を燃やしていたわたしにとって、執筆断念は大きな心残りでしたが、仕方ありません。
昨年の9月には、小津映画のヒロインであった女優の原節子さんが95歳で亡くなられました。その童顔に似合わず、美空ひばりのような老成した声の持ち主である蒼井優は「平成の原節子」になれたのでしょうか?