No.0228
春の訪れを感じる6日の日曜日、DVDでアニメ映画「インサイド・ヘッド」を観ました。ブログ「思い出のマーニー」に書いたように、第88回アカデミー賞の授賞式が2月28日(日本時間29日)に開催され、日本のスタジオジブリによる「思い出のマーニー」を抑えて、ウォルト・ディズニー・スタジオの「インサイド・ヘッド」が最優秀長編アニメーション賞を受賞しました。
最初は「ディズニーとの対決ではジブリは勝てないよな」と思っていたわたしですが、「インサイド・ヘッド」を初めて鑑賞し、非常に感動しました。これはアニメーションの歴史に残る大傑作であると思いました。「思い出のマーニー」も傑作でしたが、「インサイド・ヘッド」はそれを上回る作品でした。けっして、ディズニーの政治力でアカデミー賞を制したわけではないことを理解しました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「11歳の少女の頭の中を舞台に、喜び、怒り、嫌悪、恐れ、悲しみといった感情がそれぞれキャラクターとなり、物語を繰り広げるディズニー/ピクサーによるアニメ。田舎から都会への引っ越しで環境が変化した少女の頭の中で起こる、感情を表すキャラクターたちの混乱やぶつかり合いなどを描く。メガホンを取るのは、『モンスターズ・インク』や『カールじいさんの空飛ぶ家』などの監督ピート・ドクター。成長という普遍的なテーマと子供の頭の内部という独創的で柔軟な世界が混じり合う、個性的な物語に期待が高まる」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「田舎町に暮らす11歳の女の子ライリーは、父親の仕事の影響で都会のサンフランシスコに移り住むことになる。新しい生活に慣れようとするライリーの頭の中では、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカたちが、ライリーの幸せのためという強い気持ちが原因で衝突していて・・・・・・。」
この映画はピクサー・アニメーション・スタジオによって作られました。
もともと同社の前身は、1979年にジョージ・ルーカスのルーカスフィルム社がニューヨーク工科大学からエド・キャットマル(現ピクサー社長)を雇用し創立したコンピュータ・アニメーション部門です。そこでは、「スタートレックII カーンの逆襲」や「ヤング・シャーロック ピラミッドの謎」などが製作されています。その後、86年に当時アップルコンピュータを退社したスティーブ・ジョブズらが1000万ドルで買収し、「ピクサー」と名付けて独立会社としました。ジョブズは買収資金として退社したアップルコンピュータの株を売り払った資金の一部を流用しています。2006年、同社はウォルト・ディズニー・カンパニーの完全子会社となりました。
ピクサーといえば、コンピュータグラフィックスを用いたアニメーションを得意とするころで有名です。1995年にリリースした世界初のフルCG長編アニメ「トイ・ストーリー」ではオモチャ、98年の「バグズ・ライフ」では昆虫、2003年の「ファインディング・ニモ」では魚、そして06年の「カーズ」では車に人格を与え、感情豊かに描いてきました。そのピクサーの20周年記念作品である「インサイド・ヘッド」では、なんと感情そのものに人格を与えたわけです。一見難解そうなテーマですが、実際はとても魅力的なキャラクターたちと、心理学を踏まえた深みある設定、そして意外性に富んだ展開に引き込まれました。
それにしても、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカといった5つの「感情」たちの表情の豊かなこと! ここまで人間の感情のメカニズムを「見える化」した映画は前代未聞であると思います。いやあ、フロイトもユングもアドラーもびっくりですね! 特に関心したのは、一般的にネガティブな感情として蔑まれている「カナシミ」に光を当てていることです。わが社ではグリーフケア・サポートに取り組んでいますが、そこで通関することは「きちんと悲しむこと」の大切さです。「インサイド・ヘッド」のラストでは、悲しみの感情が人々の心を結びつけてくれました。
ブログ『悲しんでいい』で紹介した本の最後に、日本におけるグリーフケアの第一人者である髙木慶子氏は以下のように述べています。
「人間は支えあいながら生きていくものです。誰のまわりにも、支えてくれる人はかならず存在します。ほんとうに孤独な人なんかいないのです。孤独を感じてしまうのは、自分の心が殻に閉じこもり、まわりが見えなくなっているだけなのです。自分が心を開き、最初は手探りでもいいから、前に向かって歩いてみる。そうすれば、大切なものを失った悲しみの日々は、大切なものを見つけるための新しい明日につながります。その朝を迎えたとき、悲しみは希望に変わるのです――」
また、悲しみの感情は「涙」につながります。
冠婚葬祭というものは、とにかく涙がついて回ります。結婚披露宴での「花嫁の手紙」もそうですが、葬儀でも弔辞などの場面で泣くことは多いです。日本人は悲しみを我慢する傾向がありますが、わたしはもっと葬儀の場でも素直に泣いたほうがいいと思っています。近年、涙を流すことはストレスを奥深くから発散し、免疫力を強くすることが指摘されています。
涙を流すことの効用を説く長谷川病院院長の柏瀬宏隆氏は著書『涙の治癒力』(リヨン社)で以下のように述べています。
「悲しいとき、泣けるときもあれば泣けないときもあります。
あまりにも悲しい出来事があると、人によっては涙が出ないことだってあります。そんな涙を忘れてた人でも、あるとき何気なく聴いた曲が心の琴線にふれ、一気に涙が溢れ出ることがあります。砂漠のように乾いていた心の奥が、涙の川で癒されていくのです。
悲しみを感じないときは、真の喜びも感じることができないときです。今の世の中で生き抜くには、ある程度感情を抑え、鈍くすることも必要です。ただ、感情が麻痺しないように気を付けないといけません。そこにあるのは、ただのむなしさしか残りません。むなしさは生きる気力を失わせます。
笑うと免疫力が上がるように、涙を流すと免疫力が上がります。感情を表出すると、スッキリとした気分になります。それが自分の中のけじめとなり、新たな未来に向かって歩く原動力につながるのだとおもいます。
ひとりになって泣いてみるのもいいかもしれません」
5つの感情キャラクター以外で印象に残るのは、ライリーの空想上の友であるビンボンです。彼はゾウとも猫ともつかないじつに不思議な姿をしているのですが、自製のロケットで「ライリーを月に連れていってあげる」約束をしています。そのビンボンは、ライリーの幼い頃はいつも楽しい歌で彼女をハッピーにしてあげていました。物語の後半で、「思い出のゴミ捨て場」の底に落ちてしまったヨロコビは、ビンボンの歌の力を借りて奈落なら這い上がります。そのとき、ヨロコビとビンボンは「楽しい友だち、ビンボンビンボン、ロケットで飛ぶよ、ビンボンビンボン♪」と歌ったのですが、まさに歌が希望への推進力となることが見事に表現されていました。
この場面を観て、わたしは今は亡き作家・景山民夫さんのホラー小説『ボルネオホテル』(角川ホラー文庫)の内容を思い出しました。景山さんには生前とてもお世話になったのですが、『ボルネオホテル』で最恐の幽霊屋敷を描いたとき、悪霊を追い払う画期的な方法を示されたのです。それは恐怖の感情こそが悪霊にパワーを与えるので、怖がらないために明るいハッピーな歌を歌うというというものでした。景山さんは「この世で最もハッピーな歌といえば、あの歌しかない!」として、なんとディズニーの「ミッキーマウス・マーチ」を登場人物に歌わせます。その歌のポジティブなパワーに気圧された悪霊は退散するのでした。いやあ、なつかしいですね。景山さん、いま、あちらの世界では元気にされていますか?
さて、「インサイド・ヘッド」を観終わって、この映画の本当のテーマは「感情」ではなくて「記憶」であると思いました。
上智大学名誉教授の渡部昇一先生との対談本である『永遠の知的生活』(実業之日本社)では、「記憶こそ人生」として、記憶の中にこそその人の人生があるというご意見を渡部先生から伺いました。
同書で渡部先生とわたしは記憶を失わないための方策について語り合いました。わたしは、究極のエンディングノートを目指して作った『思い出ノート』(現代書林)の活用を提案いたしました。『思い出ノート』では、第1章を「あなたのことを教えてください」と題して、基本的な個人情報(故人情報)を記せるようになっています。たとえば、氏名・生年月日・血液型・出身地・本籍・父親の名前・母親の名前といったものです。次に、小学校からはじまる学歴、職歴や団体歴、資格・免許など。
『思い出ノート』の真骨頂はこれからで、「私の思い出の日々」として、幼かった頃、学生時代、仕事に就いてからの懐かしい思い出など、過ぎ去った過去の日々について記します。たとえば「誕生」の項では、生まれた場所、健康状態(身長・体重など)、名前の由来や愛称などについて。「幼い頃・小学校時代」の項では、好きだった先生や友達、仲の良い友人、得意科目と不得意科目などについて。「高校時代」の項では、学業成績、クラブ活動、好きだった人、印象に残ったこと・人などについて。
また、「今までで一番楽しかったこと」ベスト5、「今までで一番、悲しかったこと、つらかったこと」ベスト5、「子どもの頃の夢・あこがれていた職業・してみたかったこと」、「今までで最も思い出に残っている旅」、「これからしたいこと」、そして「やり残したこと」ベスト10といった項目も特徴的です。そして、「生きてきた記録」では、大正10年(1921年)から現在に至るまでの自分史を一年毎に記入してゆきます。参考として、当時の主な出来事、内閣、ベストセラー、流行歌などが掲載されています。こういったアイテムをフックとして、当時のことを思い出していただくわけです。
「HISTORY(歴史)」とは、もともと「HIS(彼の)STORY(物語)」という意味だそうですが、すべての人には、その生涯において紡いできた物語があり、歴史があります。そして、それらは「思い出」と呼ばれます。自らの思い出が、そのまま後に残された人たちの思い出になる。そんな素敵な心のリレーを実現するノートになってくれればいいなと思います。「インサイド・ヘッド」には「思い出の貯蔵庫」という脳内の場所が登場しますが、『思い出ノート』はそれを本(ノート)の形にしたものなのです。
一方、記憶を失うことはけっして不幸なことではないという見方もあります。 ブログ『解放老人』で紹介した本は、認知症を"救い"の視点から見直した内容でした。たとえば、著者の野村進氏は次のように書いています。
「重度認知症のお年寄りたちには、いわゆる"悪知恵"がまるでない。相手を出し抜いたり陥れたりは、決してしないのである。単に病気のせいでそうできないのだと言う向きもあろうが、私は違うと思う。魂の無垢さが、そんなまねをさせないのである。言い換えれば、俗世の汚れやら体面やらしがらみやらを削ぎ落として純化されつつある魂が、悪知恵を寄せ付けないのだ。こうしたありようにおいては、われらのいわば"成れの果て"が彼らではなく、逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか。
人生を魂の長い旅とするなら、彼らはわれらが将来『ああはなりたくない』とか『あんなふうになったらおしまい』と忌避する者たちでは決してなく、実はその対極にいる旅の案内役、そう、まさしく人生の先達たちなのである」
こういった一般に良くない現状を「陽にとらえる」発想は大切だと思います。
そういえば、ブログ「五木寛之講演会」で紹介した国民作家の五木寛之さんは、講演で「悲しみ」に光を当てられました。仏教の「慈悲」とは「慈しみ」と「悲しみ」です。ともに人間にとって最も大切なものなのであると述べれました。また、五木さんは国学者の本居宣長や民俗学者の柳田國男の考えなどを紹介しつつ、「泣くこと」の大切さを訴えられました。涙、ため息、猫背・・・・・・これまで多くの人がマイナスであるとして蔑んできたことに光を当てて見直すという五木節が炸裂しました。わたしは、「インサイド・ヘッド」はまさに五木さん向きの作品ではないかと思いました。
ところで、このブログ記事の冒頭で、スタジオ・ジブリの「思い出のマーニー」を抑えて、ウォルト・ディズニー・スタジオの「インサイド・ヘッド」が第88回アカデミー賞の最優秀長編アニメーション賞を受賞したことに触れましたが、じつはこの両作品はよく似ていると思いました。ともにメインテーマは「思い出」すなわち「記憶」ですし、少女が大人に成長していく物語であることも共通しています。
さらに、「思い出のマーニー」の主人公である杏奈は12歳で、「インサイド・ヘッド」の主人公ライリーは11歳ですが、物語の最後には12歳になっていました。杏奈とライリーは完全に同年代であり、ともに思春期への入り口に立って戸惑う少女でした。わたしは今、この日米の名作アニメーション映画をともに劇場で観なかったことを大変後悔しています。