No.0242


 ブログ「アリス・イン・ワンダーランド」で紹介した映画の続編である「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」を観ました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』をモチーフにした前作の続編で、アリスが時間の旅に出るファンタジーアドベンチャー。帰らぬ家族をひたすら待っているマッドハッターを助けるべく、アリスが時をさかのぼり奮闘する姿を活写。前作の監督ティム・バートンが製作を務め、『ザ・マペッツ』シリーズなどのジェームズ・ボビンがメガホンを取る。ミア・ワシコウスカやジョニー・デップなど前作のキャストが続投し、時間を司るタイムを、『ブルーノ』などのサシャ・バロン・コーエンが演じる。アリスをはじめチェシャ猫など人気キャラクターによる新しい物語に期待」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「ワンダー号での3年に及ぶ船旅からロンドンに帰郷した後、青い蝶アブソレムにマッドハッター(ジョニー・デップ)のことを聞いたアリス(ミア・ワシコウスカ)。マッドハッターは、ワンダーランドで死んだ家族の帰りを待っていたのだ。ワンダーランドに着いたアリスは、白の女王(アン・ハサウェイ)たちから頼まれ、マッドハッターの家族をよみがえらせるべく、過去を変えようとする。時間の番人タイム(サシャ・バロン・コーエン)から時間をコントロールできる"クロノスフィア"を盗み、時間をさかのぼったアリスだったが・・・・・・」

 ブログ「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」にも書いたように、わたしは基本的に続編映画というのが、あまり好きではありません。いかにも新しい企画に自信がないので、過去のヒット作に便乗しようという弱気の製作意欲を感じてしまうのです。実際、9日に観賞した「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は非常に残念な作品でした。しかし、「アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅」は予想に反して、とても面白かったです。また、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を一応ベースにしていました。アリスが鏡を通り抜けて異世界へ行く設定の他は、ほとんどオリジナルでしたけど。

 ところで、この映画、公開初週の土日2日間、前作と比べて、動員比で約33%、興収比で約32%という数字で、惨敗でした。この規模の超大作の続編でここまで大幅ダウンした作品というのは前例がないそうです。「リアルサウンド」配信の「『アリス・イン・ワンダーランド』続編、前作から初動興収68%ダウンの衝撃」というネット記事には以下のように書かれています。

「前作との比較という点では、ある程度の苦戦は予想できた(もっとも、スクリーン数は前作の855スクリーンから大幅に増えているのだが)。まず、前作の記録的ヒットは、公開タイミング的に、その4ヶ月前に公開された『アバター』の社会現象化によっていきなり巻き起こった3D映画ブームの恩恵を大いに授かったものであったこと。この頃、人々は『アバター』に続く本格的な3D映画を熱望していたのだ」

 続いて、同記事には以下のようにも書かれています。

「また、日本におけるジョニー・デップの異常人気が、2010年にはまだ続いていたこと。『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』の本国での公開タイミングを狙いすましたように全世界で報道されたジョニー・デップのDVスキャンダルについては、まだ真相が明らかにされていないので言及は避けるが、あのスキャンダルがあってもなくても、日本でのジョニー・デップ人気はここ数年すっかり落ち着いたものになっていた」
 なるほど、ジョニー・デップのDV報道の影響ねぇ・・・でも、ブログ「誕生日には同級生のことを考える」にも書いたように、彼はわたしの同級生なので、いつも応援しています。彼を信じています。でも、もし報道内容が本当だとしたら、女性に暴力はいけませんぞなもし、デップ君!

 そのデップ君扮するマッドハッターが今回は重要な役割を果します。彼の家族はすでに亡くなっているのですが、彼はあることから「家族は生きている」と直観し、その家族に再会したくて気も狂わんばかりになっているのでした。そんなマッドハッターを救うために、アリスが過去にさかのぼるというわけです。今は亡き家族に会いたいというマッドハッターの想うは、わたしが日頃から取り組んでいるグリーフケアの問題そのものです。

 拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)でも紹介しましたが、フランスには「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、自分自身の死に直面することであり、自分の愛する人を亡くすことなのです。

 わたしは、冠婚葬祭の会社を経営しています。本社はセレモニーホールも兼ねており、そこでは年間じつに数千件の葬儀が行なわれています。そのような場所にいるわけですから、わたしは毎日のように、多くの「愛する人を亡くした人」たちにお会いしています。
 その中には、涙が止まらない方や、気の毒なほど気落ちしている方、健康を害するくらいに悲しみにひたっている方もたくさんいます。亡くなった人の後を追って自殺しかねないと心配してしまう方もいます。この映画に登場するマッドハッターは、まさにそんな「愛する人を亡くした人」の1人でした。

 最近、わたしは『死を乗り越える映画』(現代書林)という本を脱稿しました。来月刊行予定ですが、「映画で死を乗り越える」というのが同書のテーマです。じつは、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思っています。
 映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。その瞬間を「封印」するという意味です。しかし映画は「時間を生け捕りにする芸術」です。かけがえのない時間をそのまま「保存」します。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。

 たとえば、「タイムマシン 80万年後の世界へ」(1960年)、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)、「バタフライ・エフェクト」(2004年)、「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)、「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」(2013年)、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(2014年)といったところが、タイムトラベルあるいはタイムループを描いた名作であると思います。日本では、原田知世が主演した角川映画「時をかける少女」(1983年)を忘れることができません。これらの作品はすべてSF映画ですが、「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」はファンタジー映画です。ファンタジーで時間旅行を描いたというのは、ドイツの作家ミヒャエル・エンデの名作童話を映画化した「モモ」(1986年)以来ではないでしょうか。

 『モモ』は1973年に刊行され、翌74年にドイツ児童文学賞を受賞しました。各国で翻訳されているますが、特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぎます。物語の舞台は、イタリア・ローマを思わせるとある街。「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちが現われ、人々の時間を次々に盗みます。時間を盗まれた人の心からは余裕が消えてしまいます。しかし、貧しくとも友人の話に耳を傾け、その人自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女モモが、冒険の中で奪われた時間を取り戻していくというストーリーです。86年に製作された映画にはエンデ自身が本人役で出演しています。

 さて、わたしは自分がタイムトラベラーになったときの心境を想像しました。
 日本が世界に誇るSFコミック『ドラえもん』には、ドラえもんとのび太がタイムマシンに乗って時間の流れの中を行く場面がよく登場します。彼らはどこか特定の時点を目的地とし、その時代にタイムトラベルするわけですが、自分ならどの時間を目指すか? 例えば、わたしが車を運転していて人身事故を起こしたような場合は、確実に事故が起こる前の時点に帰りたいと思うでしょう。つまり、流れゆく時間の中でタイムトラベルの目的地とされるのは「事故」の直前といったケースが多いように思います。

 「事故」というのは出来事です。それもマイナスの出来事です。
 そして、流れてゆく時間の中には、プラスの出来事もあります。その最大のものが結婚式ではないでしょうか?
 考えてみれば、多くの人が動画として残したいと願う人生の場面の最たるものは結婚式および結婚披露宴ではないかと思います。なぜなら、それが「人生最高の良き日」だからです。結婚式以外にも、初宮参り、七五三、成人式などは動画に残されます。それらの人生儀礼も、結婚式と同じくプラスの出来事だからです。わたしがタイムトラベラーだとしたら、プラスの出来事かマイナスの出来事か、どちらかを必ず目指すのではないかと思います。ここで、忘れてはならないことがあります。最大の人生儀礼とは、葬儀であるということです。葬儀は、まさに故人の人生の総決算です。

 ブログ「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」で紹介した映画では、タイムトラベラーが結婚式や葬儀をめざして時間旅行します。リチャード・カーティス監督は、一連のラブコメ映画で幸福な結婚式の場面を描き続けてきました。しかし、彼は、「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」では主人公の父親の葬儀を描きました。主人公は愛する父の死をどうしても受け入れられず、何度かタイムトラベルして生前の父に会いに行きます。 『唯葬論』を書いたわたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、この映画で何度も生前の父親に会いに行く主人公の姿を見ながら、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあることに気づくのでした。

 さて、映画の原作となった『鏡の国のアリス』はわたしの少年時代の愛読書です。もともとは、前作の原作である『不思議の国のアリス』が大好きでした。子ども時代に読んだ講談社のディズニー絵本の中で『アリス』は最も好きな作品で、中学生になると岩崎民平訳の角川文庫を5、6回は読みました。高校生になってからは英語の勉強をかねて原書を読んだ思い出があります。わたしは、『不思議の国のアリス』とメーテルリンクの『青い鳥』とボウムの『オズの魔法使い』を世界の三大ファンタジーだと勝手に決めていました。その後、アンデルセンや宮沢賢治やサン=テグジュペリの深さに気づき、『涙は世界で一番小さな海』(三五館)というファンタジーの本を書くことになるとは、当時は夢にも思いませんでした。

 高校生ぐらいになると、『オズの魔法使い』が能天気なMGMのミュージカル映画に最高にフィットするのに比べ、『不思議の国のアリス』と『青い鳥』には両方とも、ファンタスティックな面白さとともに、どこか不気味でグロテスクな味わいがあると思っていました。
 『青い鳥』はじつは兄妹相姦の物語だと言われているそうです。チルチルとミチルは互いに愛し合っていましたが、やがてどちらからということもなく疎んじ、それぞれの相手を求めて旅に出ます。しかし、青い鳥はやはり我が家にいたのです。メーテルリンクは、同じ血の流れる近親同士の愛こそ至高の愛であるというセックス感を持っていたという説もあるそうです。

 一方、アリスが訪れた「ワンダーランド」の正体は初潮だったという説は有名です。アリスははじめ、お姉さんに甘える幼い少女に過ぎませんでしたが、ワンダーランドから帰ってきた後はしっかりしていて、大人の女に近づいたことが読者にもわかります。途中の洪水のシーンでプカプカ揺られたり、身体が大きくなったり小さくなったりするのは、初潮を迎えて不安に揺れ動く少女の微妙な心を表しているというのです。ちなみに、作者であるルイス・キャロルが少女を偏愛するロリコンであったことはよく知られています。
 そんな、ちょっと不気味でエロティックなアリスの世界を忠実に表現できたのは、初版の挿絵を描いたジョン・テニエルだけでした。はっきり言って、アーサー・ラッカムもウォルト・ディズニーも単なる子ども向けの童話としてしかアリスをとらえていませんでした。『不思議の国のアリス』の実写版映画も各国で何度か実現されましたが、ピーター・セラーズが主演したイギリス映画「アリス 不思議の国の大冒険」は雰囲気が出ていたと思います。

 そして、2010年にディズニーが「アリス・イン・ワンダーランド」を発表してくれたのです。原作の世界観に忠実で、長年のわたしの夢をかなえてくれました。3Dで観賞しましたが、迫力満点でした。
 なんといっても、ティム・バートン監督の妻であるヘレナ・ボナム・カーター演じるトランプの「赤の女王」が良かったですね。

 ヘレナ・ボナム・カーターは、「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」でも、存在感抜群の「赤の女王」を演じていました。そして今回は彼女にまつわる悲しい秘話が明かされます。彼女の頭は巨大ですが、それは子どもの頃の怪我が原因でした。彼女が王女として戴冠するとき、頭が大きすぎて王冠が壊れてしまいます。それを見たマッドハッターをはじめ、多くの人々が爆笑して、彼女は大きく傷つきます。それ以来、彼女は世を恨む「悪」の権化になったというのですが、これはあまりにも可哀そうな話です。 そもそも、彼女が怪我をした原因は妹である「白の女王」(アン・ハサウェイ)がついたウソにあったのですから・・・・・・。

 ディズニーは、かつて、「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」「ムーラン」といった一連のアニメ作品で大成功を収め、"ディズニー・ルネッサンス"と呼ばれる黄金時代を築きました。あのとき、新大陸の異民族、身体障害者、アジアの辺境民といった、従来のディズニー・アニメではありえなかった主人公を作り出すことによって、社会派アニメという新境地を開拓し、商業的にも成功したのです。その弱者に優しい視点というものが「赤の女王」の描き方には感じられませんでした。

 近年のディズニーでは、「マレフィセント」や「白雪姫と鏡の女王」など、プリンセス・ストーリーの影になっていた悪役に焦点を当てて、「なぜ彼女は悪と見られるようになったのか」を描くようになっています。その路線からいっても、もう少し、「赤の女王」の苦しみや悲しみを表現してあげるべきだったと思います。でも、最後に妹の「白の女王」が幼い頃のウソを詫びて、姉妹が和解するシーンにはジーンときました。

 また、かつて誤解から家出したマッドハッターが憎んでいたはずの父親を求める姿にも感動しました。彼はけっして親を捨てずに、親を救おうと懸命になります。いまベストセラーになっている島田裕巳氏の『もう親を捨てるしかない』(幻冬舎新書)を読んで感化され、「親を捨ててやろうか」などと考えている人がいれば、ぜひ、「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」を観て、思い直してほしいです。わたしも、「家族は大切だよ。替えがきかない」というマッドハッターの言葉が心に響き、自身の家族観に影響を受けました。

 最後に、時間をコントロールできる「クロノスフィア」の存在が興味深かったです。映画の中に、時間の番人タイム(サシャ・バロン・コーエン)の「時間がなくなれば、宇宙の秩序が崩れる」というセリフが登場します。
 それを聴いて、わたしは次回作である『儀式論』(弘文堂)の中の「時間と儀式」という章で紹介した社会学者エミール・デュルケムの名言を思い出しました。それはデュルケムの名著『宗教生活の原初形態』に書かれている「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」という言葉です。これは、「時間を区切ることによって、人間は初めて時間を認識できる」という意味ではないかと思います。

 ならば、デュルケムの名言にならって、「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」ということが言えないでしょうか。
 儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間に区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできないでしょう。「儀式なくして人生なし」なのです。わたしは、「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」を観て、そんなことを思いました。

  • 販売元:ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
  • 発売日:2016/11/02
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