No.0250


 「映画『聲の形』」を観ました。大今良時の原作コミックは『このマンガがすごい!2015』(宝島社)の[オトコ編]で1位になったそうですが、わたしは『学べるマンガ100冊』(文藝春秋)という本で原作の存在を知りました。最近、映画化されたことを知り、「ぜひ観たい!」と思った次第です。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「元ガキ大将の主人公と聴覚障害があるヒロインの切ない青春を描いた大今良時のコミックを基に、『けいおん』シリーズなどの山田尚子監督が手掛けたアニメーション。主人公の少年が転校生の少女とのある出来事を機に孤立していく小学生時代、そして高校生になった彼らの再会を映し出す。アニメーション制作を京都アニメーション、脚本を『ガールズ&パンツァー』シリーズなどの吉田玲子が担当。ボイスキャストには入野自由と早見沙織らが名を連ねる」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「西宮硝子が転校してきたことで、小学生の石田将也は大嫌いな退屈から逃れる。しかし、硝子とのある出来事のために将也は孤立し、心を閉ざす。5年後、高校生になった将也は、硝子のもとを訪れることにし・・・・・・」

 まず、この映画が聴覚障害者をめぐる物語であり、小学校でいじめに遭う話だと知って、わたしの心は正直言って重くなりました。というのも、以前、視覚障害者が悲惨な人生を歩む「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観て以来、身体障害をテーマにした映画がちょっとトラウマになっているのです。その上、障害者の方をいじめたり、差別したりする描写が出てきたりすると、もう心が苦しくなってたまらないのです。さらには、いまテレビ業界では「感動ポルノ」という言葉が論議を呼んでいますが、わたしも障害や難病を安易に取り上げて感動を狙うといった傾向には疑問を感じます。

 聴覚障害を持つ西宮硝子は普通の小学校に転入して、いじめに遭います。
 不愉快な思いでそのシーンを観ながら、わたしは「この子はどうして、聴覚障害者の専門学校に入らなかったのだろう? どうして、この子の親は普通の小学校に入れたのだろう?」と疑問に思いました。その理由は、映画館の入口で配られた『映画 聲の形 Special Book』という小冊子のコミックを読んで理解することができました。

 シングルマザーであった硝子の母親は、硝子を立派にするための方法として2つのことを誓ったのです。1つめは「皆と同じことをさせること」、2つめは「甘やかしは御法度。常に厳しくあれ」です。硝子の将来のために「鬼にならなければ」と自分に誓った母は、硝子が「自分は皆とは違う」と気づかなければ進歩はない、普通の子と一緒に過ごすことによって普通を目指すキッカケが増えればいいと考えたのです。
 ちなみに、ブログ『ゆうきくんの海』で紹介したハートフル・ブックには、障害を持つ親の苦しさや悲しみが切々と描かれています。

 子どもとは残酷な存在です。障害を持ちながらも普通の小学校に入った硝子は、母親の願いも空しく、辛い日々を過ごすのでした。彼女をいじめる先鋒に立ったのが、石田将也でした。硝子をいじめた首謀者と判明した将也は周囲から手のひらを返された形で孤立します。そして、高校生になっても人間を信じることができない彼は自死を試みるのでした。高校生になり将也と再会した硝子も自死を試みますが、彼らの心中を察すると、高校生の子を持つ1人の親として胸が痛みました。

 この映画を観て、わたしは自分の小学生の頃を思い出しました。
 わたしは北九州市立桜ヶ丘小学校に通ったのですが、公立である同校には様々な子どもがいて、中に複雑な事情を抱えた子もいました。
 家が貧しい子、病弱な子、両親が離婚した子、そして世間から理不尽な差別を受けている家の子・・・・・・彼らや彼女たちの顔を思い出しながら、わたしは彼らや彼女たちを傷つけなかったかと自問し、いくつか思い当たることもあって、深い自責の念にかられました。

 また、高学年の頃に仲の良かった友達の両親がともに聴覚障害者であったことを忽然と思い出しました。一度、彼の住む団地に遊びに行ったとき、彼の両親が手話で話しているのを見て、子ども心に衝撃を受けたことを思い出しました。今考えると、両親ともに聴覚障害のあった彼はどうして普通に会話ができたのでしょうか?唐突に、そんなことを思ったりしました。

 いずれにせよ、小学生の頃のわたしは体も大きく、家も裕福で、級友たちが一目置く「ガキ大将」でした。ガキ大将というのは本当は優しくなければいけません。でも、未熟なわたしはクラスメートたちにじゅうぶん優しくできていなかったように思います。わたしは、この映画を観ながら、「将也は自分だ」と思えて仕方がありませんでした。

 それにしても、将也も硝子も自死を試みたことには胸が痛みます。
 青春時代に「死にたい」と思ったことのある人は多いでしょうが、生きることはなかなか大変なことです。その大変な「人生」というものは、「学校」によく似ているように思います。学校というのは、いつか卒業します。小学校の卒業式も、高校の卒業式も、よく憶えています。わたしはよく、「葬儀は人生の卒業式」と言います。なぜなら、人生そのものの卒業式だからです。人生の正体は学校のようなものだと、これまでにも多くの人々によって言われてきました。『ダギーへの手紙』E・キューブラー・ロス文、アグネス・チャン訳(佼成出版社)で紹介されている脳腫瘍の9歳の男の子に宛てられた手紙には、次のように書かれています。

 人生は学校みたいなもの。
 いろいろなことを まなべるの。
 たとえば、まわりの人たちと うまくやっていくこと。
 自分の気持ちを 理解すること。
 自分に、そして 人に 正直でいること。
 そして、人に 愛を あたえたり
 人から 愛を もらったりすること。
 そして、こうしたテストに
 ぜんぶ合格したら
 (ほんとの学校みたいだね)
 私たちは 卒業できるのです。
 (『ダギーへの手紙』より)

 学校とは、学びの場です。わたしたちは、学ぶために、わざわざ生まれてきたのだと思います。スピリチュアルな考え方では、「人生とは、自分で自分に与えた問題集である」とされています。そこでは、人間関係のトラブル、貧困、病気、障害、そして死などの、さまざまな「思い通りにならないこと」つまり、さまざまな「試練」を組み合わせて自ら問題集を作成する。そして、それを解くことこそが人生の目的なのです。いわば、自分で目標管理シートを書くようなものですね。

 その「人生という問題集」の中で、人間として最も大切なことは何でしょうか。それは、魂を成長させることです。さまざまな試練を通じ、学びを積んで魂を成長させるために、人間はこの宇宙の中に存在しているのです。
 わたしたちは、なぜ生まれてくるのか。それは、生まれてこなければ経験できない貴重な学びの機会があるからこそ生まれてくるのです。その機会、つまり「貧」や「病」や「争」などの「思い通りにならないこと」を通じて学ぶことこそが、人間として生きる目的・意義・意味なのだと言えるでしょう。

 わたしたちが学ぶのは、魂の成長のためであると言いました。魂の成長といっても、さまざまなステージがあり、それによって難易度が異なります。はっきり言って、何の不自由もない平穏無事な生涯を送ることは小学校レベルの問題集です。一方、「見えない、聞こえない、話せない」の三重苦で知られるヘレン・ケラーや、両手・両足を失った中村久子のような方の人生とは、大学院レベルの最も難しい問題集なのではないでしょうか。
 この人たちは、超難解な問題集を途中で投げ出し、学校から逃げ出しませんでした。つまり、自死などせずに、これらの難問を見事に解いて、「この世」という学校を堂々と卒業していったのです。まさに、重い障害を抱えながらも人生を生ききった方々は、人類を代表して卒業証書を授与される資格のある偉人だと、わたしは心から思います。

 この映画で印象的だったのは、将也には他人の顔に「×」がついていることでした。彼が心を許した人は「×」が取れるのですが、高校のクラスメートをはじめ、世の中の多くの人々の顔は「×」だらけです。それがラストシーンですべて取れるのですが、将也は感動の涙を流します。この場面から、わたしはブログ『嫌われる勇気』ブログ『幸せになる勇気』で紹介したアドラー心理学の入門書の内容を思い出しました。わが国で心理学というとフロイトとユングが有名ですが、世界的にはアドラーを加えて三大巨頭とされています。世界的ベストセラーとして知られるデール・カーネギーの『人を動かす』や『道は開ける』、あるいはブログ『7つの習慣』で紹介したスティーブン・コヴィーの名著にはアドラーの思想が色濃く反映されています。

 フロイトはトラウマ(心に負った傷)を重要視しましたが、アドラーは、トラウマを明確に否定します。過去の出来事が現在の不幸を引き起こしていると考えるのではなく、人は経験の中から目的にかなうものを見つけ出すといいます。「原因」ではなく「目的」に注目するのがアドラー心理学です。
 「すべての悩みは人間関係の悩みである」「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」「愛される人生ではなく、愛する人生を選べ」「ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気だ」といった数々のアドラーの言葉が読者に勇気を与えてくれます。

 ブログ「新世紀エヴァンゲリオン」でも書いたように、日本のアニメ史に残る傑作「エヴァ」はアドラー心理学のアニメ化といってもいい内容だと言えます。アドラーがよく取り上げる「承認欲求を満たしたいがために自己中心的な人間」とは、エヴァンゲリオンの初号機パイロットである碇シンジその人にほかなりません。幼い頃に目の前で母親を失い、父親と確執し続けているシンジは、他人との親密な関係を怖れます。ゆえに誰とも距離を保ち、心を開こうとしません。その一方で、彼は父親から認められ、愛されることを望みます。つねに「逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせながら、自分の居場所を求めるシンジの苦悩の物語、それが「エヴァ」全体を通底しています。

 「エヴァ」のキーワードの1つに「A.T.フィールド(Absolute Terror FIELD)」があります。A.T.フィールドの正体は人間が持っている心の壁です。そして人類補完計画とは、全人類の持つA.T.フィールドを消失させて一体化させることだとされています。『嫌われる理由』の第四夜「世界の中心はどこにあるか」の「対人関係のゴールは『共同体感覚』」では、青年が哲人に対して「対人関係の「ゴール」はどこにあるのです?」と問い、哲人は「結論だけを答えよというのなら、『共同体感覚』です」と答えます。

 共同体感覚とは何か。哲人は「他者を仲間だと見なし、そこに『自分の居場所がある』と感じられることを、共同体感覚といいます」と説明します。これはまさに「エヴァ」のめざす世界です。そして、「映画『聲の形』」のラストで将也が得たものも「共同体感覚」であったと思います。「共同体感覚」の前には、聴覚障害など無意味なのです!
 将也は、あらゆる他人とつながったのです。そして、生きる目的を知った。
 そう、生きるって人とつながることなのです!

 まさに、『生きるって人とつながることだ!』福島智著(素朴社)という本があります。目も耳も不自由な「全盲ろう」の東大教授・福島智さんからの現代人へのメッセージです。1994年にテレビ番組「徹子の部屋」に出演したとき、福島さんは黒柳徹子さんの「あなたのような盲ろうの方は、日本にどのくらいいらっしゃいますか?」という質問に対して次のように答えます。

「推計2万人。でも、そのほとんどがひっそりと家に閉じこもっておられると思います。ヘレン・ケラーは有名ですが、みなさんの身近にも盲ろう者がいることを、ぜひ知っていただきたいですね」

 なんと、日本に2万人もの目も耳も不自由な方々がいたとは! わたしは、まったく知りませんでした。

 しかし、福島さんほど人間関係が豊かな人はいないと思うほど、たくさんの人が周りに集まってきます。その最大の原因は、彼がユーモアに富んだ人であることでした。同書の至るところにも、ダジャレを含めて福島さんのユーモアが満ち溢れています。
 そして、究極の人間関係が夫婦であるとするなら、福島さんはまことに良き伴侶を得ました。奥さんは、もともとボランティア関係の仕事をしていましたが、盲ろう者である福島さんと結婚するにあたり、心配する両親や親族を根気強く説得して、見事に愛を実らせました。
 
 福島さんは、奥さんに対して、「私が住むこのコンディションの悪い『ホームグラウンド』での一緒のプレー(人生)を、あなたがエンジョイしてくれていることは、いつもさりげなく伝わってきます。少なくとも私にとっては、それがどれほど嬉しいことかわかりません」という言葉を贈っています。お互いに思いやりを忘れてしまった、すべての夫婦が噛みしめたい言葉ですね。

 そして、東大の「学術博士」の学位を授与された論文において、「人の存在が深い孤独に根ざしながらも、同時に他者により支えられている」という認識にたどりついた福島さんは、次のように述べます。

 「一方で生存に伴う根元的な孤独の深さがあり、他方でそれと同じくらい強く他者の存在を『憧れる』というダイナミックな関係性がそこにはある。そして、孤独の生を生き抜くためには、他者の存在とそれを確信するためのコミュニケーションが不可欠と結論づけた」

 もう一度言いますが、生きるって人とつながること! 福島さんは、"盲ろう"という世界をリアルにわたしたちにレポートするとともに、人間にとって他者の存在が不可欠であるという真理を教えてくれました。「映画『聲の形』」のメッセージも同じではないかと思います。この映画の製作では文科省が大いに協力したそうですが、日本中の小学生をはじめ、1人でも多くの日本人、いや世界中の人たちに観てほしいと思います。

  • 販売元:ポニーキャニオン
  • 発売日:2017/05/17
PREV
HOME
NEXT