No.0249
シネプレックス小倉で日本映画「怒り」を観ました。
ブログ「悪人」で紹介した映画の原作者と監督が再びタッグを組み、日本映画を代表する豪華キャストが一同に集った話題作です。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『横道世之介』『さよなら渓谷』などの原作者・吉田修一のミステリー小説を、『悪人』でタッグを組んだ李相日監督が映画化。現場に『怒』という血文字が残った未解決殺人事件から1年後の千葉、東京、沖縄を舞台に三つのストーリーが紡がれる群像劇で、前歴不詳の3人の男と出会った人々がその正体をめぐり、疑念と信頼のはざまで揺れる様子を描く。出演には渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡など日本映画界を代表する豪華キャストが集結」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「八王子で起きた凄惨な殺人事件の現場には『怒』の血文字が残され、事件から1年が経過しても未解決のままだった。洋平(渡辺謙)と娘の愛子(宮崎あおい)が暮らす千葉の漁港で田代(松山ケンイチ)と名乗る青年が働き始め、やがて彼は愛子と恋仲になる。洋平は娘の幸せを願うも前歴不詳の田代の素性に不安を抱いていた折り、ニュースで報じられる八王子の殺人事件の続報に目が留まり・・・・・・」
前作の「悪人」ですが、139分もの映画を観終わったとき、正直言って、期待が大きかっただけにガッカリしました。「悪」を描いた映画としては、その前に観たブログ「告白」で紹介した作品のほうがずっと傑作でした。ラストなどは泣かせる場面なのでしょうが、わたしの心には何の波紋も起こりませんでした。「あらゆる映画を面白く観る」ことを心がけているわたしとしては、珍しいことでした。しかし、「ネタバレ」とかそういった次元を超えて、事前にストーリーは予告編などで知れ渡っていたわけですし、そこには意外性もヒネリも感じられませんでした。おそらく、「人間には善人も悪人もいない、いるのは悲しい人だけだ」といったテーマなのだと推察されます。また、この映画のレビューにも、そういった感想が目立ちました。でも、それだけでは、「それで?」と言いたくなってしまいますね。
それで「怒り」ですが、日本映画界を代表する演技派をずらりと揃えただけに見応えはありました。渡辺謙は渋かったし、森山未來も松山ケンイチも綾野剛もそれぞれに影があって謎めいていて、それゆえに怪しくて、誰が殺人事件の真犯人だとしてもおかしくない印象でしたね。
ちなみに、残念ながら真犯人はわたしの予想とは違う人物でしたね。 さすがに、ラスト30分前ぐらいからはわかりましたけど・・・・・・。
この映画はストーリーが重要で、ネタバレ厳禁です。ですから、具体的な感想がなかなか書きにくいのですが、千葉・東京・沖縄という3つの舞台のうち、沖縄の描き方に複雑な思いを抱きました。たしかに沖縄が抱えている根本的な問題を提起しているのかもしれませんが、「悪人」同様に、あまりにもステレオタイプな描き方であると思いました。沖縄のイメージダウンというか、沖縄の人々はこの映画を観てどう思うでしょうか?
さて、多くの名優たちの中でも、わたしが特に楽しみにしていたのは妻夫木聡で、それも彼の号泣する場面でした。そのシーンが登場することは予告編を見て知っていたからです。ブログ「ジョゼと虎と魚たち」、ブログ「東京家族」でも書いたように、彼の号泣する演技は日本映画でも最高のレベルにありますが、この「怒り」でも存分に泣いてくれました。今や彼の泣く演技は「名人芸」の域に達していると思います。
タイトルの「怒り」ですが、わたしも気が短くて怒りっぽい人間です。
でも、何の罪もない夫婦を惨殺した殺人者の動機を知って、「くだらない」と思いました。そんなことで、いちいち人を殺していたらキリがない。おそらくは性格異常者というか、精神を病んでいるのでしょうが、この犯人には大きな「怒り」を感じます。ネタバレにならないように注意しながら書きますが、そもそも怒りのあまり無関係な者に八つ当たりするというのが許せません。 怒りを晴らしたいなら、怒りを自分に抱かせた当人に向かうべきです。 八つ当たりせずに、逃げずに、本人に直接リベンジしろ!
わたしたちは、「怒り」をどのように扱うべきなのでしょうか。
スリランカ初期仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏によれば、仏教では、怒りを完全に否定しているそうです。ブッダは、「たとえば、恐ろしい泥棒たちが来て、何も悪いことをしていない自分を捕まえて、面白がってノコギリで切ろうとするとしよう。そのときでさえ、わずかでも怒ってはいけない。わずかでも怒ったら、あなた方はわが教えを実践する人間ではない。だから、仏弟子になりたければ、絶対に怒らないという覚悟を持って生きてほしい」と言ったそうです。なぜなら、怒りは人間にとって猛毒だからです。その猛毒をコントロールすることが心の平安の道であることをブッダは告げたかったのでしょう。ブッダは、「怒るのはいけない。怒りは毒である。殺される瞬間でさえ、もし怒ったら、心は穢れ、今まで得た徳はぜんぶ無効になってしまって、地獄に行くことになる」とさえ言っています。つまり、怒ったら、自分が損をするのです。
でも、必要な怒りというものもあるかもしれません。
わたしは、かつて『孔子とドラッカー』(三五館)で、「怒り」について書きました。古代ギリシャの数学者ピタゴラスの「怒りは常に愚行に始まり悔恨に終わる」という言葉を引くまでもなく、怒ったり、腹を立てるということは、普通は好ましくないこととされています。できるだけ腹を立てずに穏やかに生き、円満に他人と接することが一番だと誰もが考えるのでしょう。しかし、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはアレクサンダーの家庭教師を務めたとき、効果的な指導に役立ついくつかの原則を教えました。アリストテレスによれば、リーダーは「正しい相手に対して、正しい方法で、正しい時に、正しい理由で怒る人」でなければならないそうです。
多くの首相を指導した安岡正篤も、指導者には怒りが必要であると説きました。もちろん怒るといっても、下らない私憤から出る怒りではありません。人間の良心から出る、民族で言うならば民族精神・民族的良心・民族的道心から発する怒りです。時局に限らずすべてのことに阿って、私心・私欲を欲しいままにしようとする佞人・奸人に対して、佞策・奸策に対して、良心から慨然として怒りを発するのです。
『詩経』に「文王赫怒」という名高い言葉があります。殷の末、紂王を中心にして政治が極度し頽廃し堕落して、人民が苦しんでいた時に、文王はその暴政に対して赫然として怒りを発して決起し、百姓は救われました。ですから、一国の首相は首相としての怒りを、会社の社長は社長としての怒りを持たなくてはなりません。ましてや難局に直面し、難しい問題が山積みしているとき、リーダーはすべからく私憤にかられず私情にかられず、公のための怒りをもって事に当たらなければならないのです。
「怒り」で八王子の夫婦を殺害した犯人は、顔を整形して逃亡します。
その整形前の顔は、実際に起きたある殺人事件の犯人によく似ていました。英会話講師リンゼイ・ホーカーさんを殺害後、顔を変えて全国を転々としながら逃げ続けた市橋達也です。「怒り」の犯人のモデルが市橋達也であることは明らかだと思います。その彼は最初に殺した夫人を浴槽に入れ、蘇生を祈るという「儀式」を行っていました。殺人現場に「怒り」という血文字を書いたのも一種の儀式であると考えられます
この場面を観て、わたしはブログ『絶歌』で紹介した本の内容を思い出しました。著者は、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件における殺人及び死体遺棄の容疑で逮捕された「酒鬼薔薇聖斗」こと元少年Aです。彼が書いた手記『絶歌』には「それぞれの儀式」という章があります。土部淳君を殺害した遺体を隠した入角ノ池のほとりにある大きな樹木を「アエダヴァーム(生命の樹)」と名付けていたという元少年Aは、次のように書いています。
女性器と男性器のイメージを重ね合わせたアエダヴァームは、僕にとって"生命の起源"だった。その生命の起源を象徴する樹の根元の洞に、僕は遺体の一部を隠した。僕は、心のどこかで淳君を"生き返らせたかった"のではないか。
ふざけた事をほざくなと思われるかもしれない。しかし、極限状態に置かれた人間というものは、時に正常な頭ではとうてい思い浮かばない不可解な行動に出ることがある。
英会話講師リンゼイ・ホーカーさん殺害容疑で指名手配され、2年7か月ものあいだ全国を転々としながら逃げ続けた市橋達也は、その極限状態の逃走生活の中で、「被害者を生き返らせるため」に四国八十八箇所のお遍路巡りを行った。
光市母子殺害事件の犯人である元少年は、母子を殺害後、母親の遺体を「生き返らせるため」に屍姦し、子供の遺体を「ドラえもんに助けてもらうため」に押入れに隠したのだと話した。
世間や被害者の感情を逆撫でするような彼らの不謹慎な言動を、僕は彼らと同じ(人間であることを捨てきれなかった未熟な)一殺人者として、一笑に付すことはできない。
彼らがどこまで本気でそういった「よみがえりの儀式」を行ったのかはわからない。自分自身についてさえ、何を考えていたのかは未だによくわからない。(『絶歌』P.33~34)
わたしは日々、「儀式とは何か」について考え続けています。
11月には『儀式論』(弘文堂)という600ページを超える著書を上梓する予定ですが、わたしは、儀式の本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。儀式は、その不安定な魂を安定させるテクノロジーなのです。殺人者の不安定な魂の安定法も「儀式」と呼ばれたことは皮肉ですが、一般に日本で一般的な儀式は「冠婚葬祭」と呼ばれます。
まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の魂。次に、成長していく子どもの魂。そして、大人になる新成人の魂。それらの不安定な魂を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式などがあります。
また、これから結婚する新郎新婦の魂は喜びに満ちているようで、じつはさまざまな不安に揺れ動いてもいます。その不安な魂を安定させ、「結魂」を果たすために結婚式というものはあるのです。
さらに、老いてゆく人間の魂はも不安だらけです。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。
しかしながら、日本には「長寿祝い」と総称される、老いてゆく者の不安な魂を安定させる一連の儀式があります。
そして、人生における最大の儀式としての葬儀があります。葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。大事な人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまったカタチを与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになりますこれは非常に危険なことなのです。
死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬儀というものはあるのです。また、葬儀には、いったん儀式の力で時間と空間を断ち切ってリセットし、もう一度、新しい時間と空間を創造して生きていくという意味もあります。もし、愛する人を亡くした人が葬儀をしなかったらどうなるか。そのまま何食わぬ顔で次の日から生活しようとしても、喪失でゆがんでしまった時間と空間を再創造することができず、心が悲鳴をあげてしまうのではないでしょうか。ある意味、自殺の連鎖による「人類の滅亡」を葬儀という文化装置が防いできたのです。
さらに、一連の法要があります。これらは故人をしのび、冥福を祈るためのものです。故人に対し、「あなたは亡くなったのですよ」と今の状況を伝達する役割があります。また、遺族の心にぽっかりとあいた穴を埋める役割もあります。動揺や不安を抱え込んでいる心にカタチを与えることが大事なのです。儀式には、人を再生する力があるのです。
最後に、「怒り」では妻夫木聡と綾野剛がゲイのカップルを演じましたが、日本映画史に残るような美しい男同士のラブシーンがスクリーン上に展開されました。2人が演じるカップルは、「一緒に墓に入るか」「一緒は無理でも、隣ならいいかな」という会話を交わすのですが、無縁社会に生きる人間同士の悲哀を見事に表現していました。これからの世の中、他人同士であっても一緒に墓に入る「墓縁」というものが増えるような気がします。この映画、ゲイの人たちにとっては「死を乗り越える」映画なのかもしれません。