No.0254


 14日に公開された映画「永い言い訳」を早速観ました。
 ブログ「おくりびと」で紹介したアカデミー外国語賞受賞作で葬儀の納棺師を演じた本木雅弘が、今度は遺族の役を演じるところが最大の見所です。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『ディア・ドクター』などの西川美和が、直木賞候補となった自らの小説を映画化。『おくりびと』などの本木雅弘を主演に迎え、交通事故で妻が他界したものの悲しみを表せない小説家が、同じ事故で命を落とした妻の親友の遺族と交流を深める様子を映す。共演は、『悪人』などの深津絵里とミュージシャン兼俳優の竹原ピストル。繊細で鋭い心理描写に定評のある西川監督によるストーリー展開に注目」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「人気小説家の津村啓こと衣笠幸夫(本木雅弘)の妻で美容院を経営している夏子(深津絵里)は、バスの事故によりこの世を去ってしまう。しかし夫婦には愛情はなく、幸夫は悲しむことができない。そんなある日、幸夫は夏子の親友で旅行中の事故で共に命を落としたゆき(堀内敬子)の夫・大宮陽一(竹原ピストル)に会う。その後幸夫は、大宮の家に通い、幼い子供たちの面倒を見ることになる」

 「永い言い訳」を観て、わたしは過去のさまざまな日本映画を連想しました。まずは、主演の本木雅弘が葬儀の納棺師を演じた「おくりびと」です。
 納棺師としての彼は一種の聖人的な存在であったと言えるでしょう。しかしながら、「永い言い訳」の幸夫はどうしようもない最低のダメ男でした。

 幸夫のダメ男っぷりは、ブログ「海よりもまだ深く」で紹介した映画で阿部寛が演じた、探偵事務所で働いている15年前に1度だけ文学賞を受賞したことのある良太といい勝負でした。幸夫といい、良太といい、それにしても小説家という職業は「ダメ男」と相性が良いようですね。

 それから、バスの事故で幸夫の妻・夏子が亡くなるシーンは、東野圭吾の同名小説を広末涼子主演で描いた「秘密」を思い出しました。監督は「おくりびと」の滝田洋二郎で、広末涼子は「おくりびと」では本木雅弘の妻役でした。このように、キャストによっても映画が映画とつながっていきます。 「おくりびと」では山形の美しい山々を背景に夫婦の愛が深まっていきますが、「永い言い訳」では、その山形の山中で夫婦が死別するのでした。

 「永い言い訳」での本木雅弘の妻は深津絵里が演じました。彼女は映画「岸辺の旅」では、3年間行方不明となっていた夫とともに空白の3年間をたどるように旅を続けます。「夫婦とは何か」を問うという意味で、「永い言い訳」と「岸辺の旅」という2つの映画もつながっていると思います。

 「永い言い訳」という映画、「もっと泣けるかな」」と思っていたのですが、じつはまったく泣けませんでした。曲者の西川監督らしく、ところどころに毒というか捻りがあって、素直に感動して泣ける内容ではありませんでしたね。違和感をおぼえた箇所も多かったです。まず、オムツが必要な幼い子どもを家に残して母親が親友とバス旅行に行くという感覚が個人的に納得できませんでした。その子が母親の不在を寂しがって泣かないのもおかしい。

 それから、幸夫がイケメンの嫌な奴で、陽一が不細工な良い人という男性の描き方がブログ「そして父になる」で紹介した映画と同じように「ステレオタイプだな」と感じました。世の中、そんなに単純に図式化できません。最も違和感をおぼえたのは、山田真歩演じる「こども科学館」の学芸員のキャラです。なぜ、あのようなキャラにしなければならなかったのか疑問です。

 それにしても、「愛人とセックスしているときに妻が死ぬ」などという男にとっては最悪のシチュエーションや、「育児は男の罪滅ぼし」などというセリフを女性である西川監督が思いついたこと自体が「うわあ、怖いなあ」と思いましたね。ちょっと、西川美和という人に興味が湧いてきました。はい。

 DVD入りで1000円の映画パンフレットを購入しましたが、その中には「『永い言い訳』によせて」という西川監督の長い文章が掲載されています。その冒頭には以下のように書かれています。

 「この作品の着想が湧いたのは、2011年の終わり頃だったっと記憶しています。その年は日本人にとって、本当に特別な一年でした。ものごとが壊れるのは一瞬で、昨日まで当たり前にあったものも、今日はなくなるのかも知れないということを、厳しい現実として目の前に突きつけられてしまったからです。メディアがやや扇情的なトーンで伝える大きな悲しみの物語をぼんやりと眺めながら、私はふと思いました。そのような物語の表に出て来ない中で、あの日の朝に、なにげなくけんか別れをしてしまった家族もあったのではないかと」

 続いて、西川監督は以下のように書いています。

「人と人の関係性は、常に円満、良好とは限りません。関係性が谷底にあるような時にも、理不尽な別れは悪魔のように訪れます。日常の中で、近くに居る人のことをなおざりにし、小さな諍いを起こし、どうせ夜には帰って来る、明日だってある、またいくらでも修復のチャンスはある、と思ってそのままあっけなく手の中からこぼれ落としたような縁も、私自身の中ですでに経験をしています。そしてその苦い別れの経験は、多くの場合誰にも語られることはなく、残された人の胸の内で孤独にわだかまり、ひそかに自らを責め続け、いつまでも癒えることはないでしょう」

 さらに、西川監督は以下のように述べるのでした。

「災害に限ったことでもないし、家族に限ったことでもありません。仕事で縁のある仲間や、旧くからの友人や、自分にとって欠くことの出来ない人たちの存在が、ある日突然何の前触れもなく失われることは、誰にでも平等に起こりえます。そうやって訪れた喪失の先にある人生の、永遠のような重たさは、単純に『涙を伴う悲しみ』だけで収束されるものではないでしょう。そんな苦しい関係の終わり方を経験した人の、その先の物語をじっくり書いてみたいと思いました」

 しかし、幸夫と夏子の「夫婦の再生」は描き切れていないように感じました。
 「妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。そこから愛しはじめた」と映画の宣伝コピーにはありますが、妻の夏子の死後に、夫である幸夫がどのように夏子を愛しはじめたのかが、まったくわかりません。観客の想像力に委ねるというのなら、ちょっと不親切だと思います。わたしは、最後まで幸夫から夏子への愛情を感じ取ることができませんでした。

 俳優陣では、本木雅弘・深津絵里の演技力は言うまでもありませんが、他の役者陣も光っていました。黒木華の濡れ場には驚きましたが(苦笑)、彼女は「岸辺の旅」でも浅野忠信演じる主人公と不倫をする女性を演じていました。同作では、浅野の妻役が深津絵里だったので、黒木華はまたしても深津絵里の夫を寝取ったことになりますね。

 幸夫のマネージャーを演じた池松壮亮の存在感がありました。
 最近では、「デスノート Light up the NEW world」でも重要な役どころで出演しています。2003年の「ラスト サムライ」でデビューし、いきなりトム・クルーズや渡辺謙と共演した彼のこれからが楽しみです。

 それから、大宮陽一を演じた竹原ピストルが良かったですね。彼は映画に最初に登場するシーンが荒れているシーンだったので、粗暴な男をイメージしてしまいましたが、じつは底抜けに優しい奴でした。彼に対して心ない言葉を放った幸夫を殴ろうとしますが、結局は思いとどまって殴りません。

 そんな陽一は妻・ゆきの葬儀で号泣したそうです。一方の幸夫は妻・夏子の葬儀で涙を流さなかったばかりでなく、現地で妻を荼毘に附すのでした。夏子は美容院のオーナーでしたが、彼女の部下たちは夏子の遺体のない葬儀場で幸夫に「知らせていただければ、現地に駆けつけたのに!」と幸夫に言い寄ります。そして、1人の女性スタッフが「わたしたちは一年のうち、300日以上も朝から晩まで一緒に働いてきました。夏子さんには、わたしたちとの時間もあったんですよ!」と言って泣き崩れます。

 わたしは、この場面を観て、いわゆる「家族葬」のことを考えました。「葬儀は近親者のみで行います」として、「葬儀は家族葬で」というのが主流になりかけています。家族葬を選ぶ理由は以下のようなものが代表的です。
 (1)高齢者
業者に葬式を依頼するにしても、見送る側の負担を最小限にしたい
 (2)長い闘病生活を送った
遺族が長期の看病をした場合など、遺族の健康状態を考慮したい
 (3)死の理由を公開したくない
自殺や特別な事故死など、最小限の参列者にとどめたい
 (4)人付き合いがなかった
少子化の影響で親類の参列者が少なく、近所や職場での交流が少ない

 これらの理由を見ると、「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族へ迷惑はかけたくない」、そんな思いが家族葬を選択させているようです。そして、そこには「ひっそりと葬式を行いたい」という思いが見え隠れしています。家族葬のこうした話を聞くたびに、本音の部分はどうなのか、と思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当に気持ちなのではないでしょうか。その気持ちを押し殺して、故人が気をつかっている場合はないのでしょうか。

 こうした理由で家族葬が選択されることに、わたしは不安を感じています。 そもそも、1人の人間は家族の所有物ではありません。社会の中で、さまざまな人々と、さまざまな関係性、すなわち「縁」を得て生きているのです。いま、日本の社会を表現して「無縁社会」などという言い方がされます。血縁、地縁、社縁といったすべての「縁」が絶たれた絶望的な社会だというのです。わたしは無縁社会を解決するひとつの方法は、葬儀について積極的に考えることだと思います。葬儀をイメージし、「自分の葬儀は寂しいものにはしない。お世話になった方々に、わたしの人生の卒業式に立ち会っていただくのだ」と思うだけで、人は前向きに生きていけるのでないでしょうか。葬儀を考えることは、今をいかに生きるかということにつながってくるのです。

 いま、多くの日本人が葬儀のあり方について迷っています。
 宗教学者の島田裕巳氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)を22日に発売されます。その中で、わたしは「葬儀は最大のグリーフケア文化装置である」と述べました。葬儀には、残された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという叡智が込められています。仏式の葬儀ならば、通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族に「あきらめ」と「決別」をもたらしてくれます。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていくのです。

 政治学者の中島岳志氏と宗教学者の島薗進氏が対談した『愛国と信仰の構造』(集英社新書)という本があります。そこで、中島氏は現代的な問題として「葬式」を取り上げ、「お坊さんたちに申し上げたいのは、葬式を一生懸命やること、法事を一生懸命やることのほうが日本仏教にとってまずは重要だと。なぜなら、葬式や法事は死者との出会い直しの場であるからです」と述べています。たしかに、二人称の「死」というのは「出会い直し」なのかもしれません。夏子の葬儀で泣けなかった幸夫は、これから夏子の法事で亡き妻と出会い直すことができるでしょうか?

 最後に、「永い言い訳」は「夫婦の愛」を問う映画でしたが、それを観た上映館で「ボクの妻と結婚してください。」の予告編が流れました。11月5日公開だそうですが、これも気になる作品です。他にも、10月25日には「バースデーカード」が、29日には「湯を沸かすほどの熱い愛」が公開されます。いずれも「修活映画」であり、「死を乗り越える映画」でもあります。
 わたしは『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)という本を書きましたが、同書の出版後に続々と「死を乗り越える映画」が公開されています。
 いやあ、困ったものであります!

  • 販売元:バンダイビジュアル
  • 発売日:2017/04/21
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