No.0264
公開されて間もない映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を観ました。3D吹き替え版でした。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『ハリー・ポッター』シリーズの原作者J・K・ローリングが映画の脚本に初参加し、『リリーのすべて』などのエディ・レッドメインらが出演したファンタジー。不思議な生き物たちが詰まったトランクを手にイギリスからニューヨークに渡った魔法動物学者が、そのうち数匹を逃がしたことから始まる大騒動を描く。『スティーブ・ジョブズ』などのキャサリン・ウォーターストンらが出演。アメリカを舞台に魔法動物学者と仲間たちが巻き起こす旋風に興奮する」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「魔法動物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、魔法動物の調査と保護のためニューヨークを訪問する。ある日、彼の魔法のトランクが人間のものと取り違えられ、魔法動物たちが人間の世界に逃亡してしまう。街中がパニックに陥る中、ニュートはティナ(キャサリン・ウォーターストン)らと共に追跡を開始するが・・・・・・」
「ハリー・ポッター」新シリーズということで楽しみにしていたのですが、面白さはまあまあでしたね。3Dのメガネをかけると画面が暗くなりすぎて、途中で眠たくなってしまいました。トランクの中に魔法動物を閉じこめているというアイデアは悪くないのですが、魔法の取り締まり機関みたいな組織の存在が浮いているように思えました。
ニューヨークを舞台にしたオカルト映画の名作にロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」がありますが、それを連想させるようなオカルト・ハンターの集団が登場します。それは明らかに「セイラム魔女裁判」をイメージしたカルト集団でした。セイラム魔女裁判とは、現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で1692年3月1日にはじまる一連の裁判です。これを詳しく論じた『セイレムの魔術~17世紀ニューイングランドの魔女裁判』チャドウィック・ハンセン著、飯田実訳(工作舎)という好著があります。
1691年の冬のある夜、アメリカのマサチューセッツ州のセーラムの牧師の家に集まった子どもたちが、西インド諸島からきた奴隷の女性を囲んで、未来を占う術を教えてもらっていました。そのうち、子どもたちはひきつけを起こし、体を痙攣させて異様な声をあげ始め、子どもたちは次々と村人たちが「魔女だ」と言い始めたのです。アメリカで最後にして最悪の魔女裁判 である「セーラム魔女裁判」の始まりでした。200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死しました。無実とされる人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の代表例とされています。
この映画では、ある魔界の存在の力によってニューヨークの道路に次々と亀裂が入り、穴が開いていくシーンがありました。ちょっと怪獣映画の怪作「クローバー・フィールド・レーン」を連想させるような道路陥没です。主人公の魔法使いが道路を修復していくのですが、それを見てわたしは、JR博多駅前の道路が陥没した事故を思い出しました。福岡市の対応が早く、1週間で修復して諸外国からは「まるで魔法のようだ」と思われたとか。
ブログ「大陥没事故現場へ!」に書いたように、15日午前5時、大陥没事故で通行止めになっていた道路の通行が再開されました。
わたしは早速、その日の午前中に現場を訪れてみました。
こんな博多のど真ん中に大穴が開いたとはビックリです!
ばってん、死者はもちろん、怪我人が出なくて良かったですたい!
さて、ニューヨークを舞台とした魔法合戦ということで、わたしはブログ「魔法使いの弟子」で紹介した2010年公開のディズニー映画を思い出しました。ニコラス・ケイジ、ジェイ・バルチェル主演で、現代のニューヨークを舞台に、800年にわたり繰り広げられてきた魔法大戦争を描いたファンタジー・アクションです。気弱な物理オタク青年が、伝説の魔法使いの後継者にされてしまいます。彼が一人前の魔法使いになるまでの成長物語です。
「魔法使いの弟子」といえば、アニメ映画「ファンタジア」に同名の作品が出てきます。ミッキーマウスが魔法修行をしてホウキたちを操る場面が有名ですね。この場面は、新しい「魔法使いの弟子」にもしっかり登場します。というより「魔法使いの弟子」という映画そのものが、不朽の名作「ファンタジア」の製作70周年記念として作られた作品なのです。
「魔法使いの弟子」は、「ハリー・ポッター」シリーズも自然に連想させます。というより、この映画はウォルト・ディズニーのライバル会社であるワーナー・ブラザーズ製作の「ハリー・ポッター」シリーズを強く意識していました。「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」は「ハリー・ポッター」新シリーズという位置づけで、ともに原作者はJ・K・ローリングです。
しかし、正直に言って、ハリポタに比べて何から何まで落ちるという印象でしたね。物語の深みが違います。
さて、魔法使いというものは、はたしてこの世に実在するのでしょうか。
わたしは、実在すると思っています。それどころか、わたしは、なんと魔法使いになるための本も書いています!
『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本です。
「魔法使い」になるための入門書
その本では、さまざまな人間関係を良くする魔法を紹介しているのですが、その基本を小笠原流礼法に置いています。「思いやりの心」「うやまいの心」「つつしみの心」という三つの心を大切にする小笠原流は、日本の礼法の基本です。特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいています。
そもそも礼法とは何でしょうか。
原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。
自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。
相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合ったりしたのです。
このような行為が礼儀作法、すなわち礼法の起源でした。身ぶり、手ぶりから始まった礼儀作法は社会や国家が構築されてゆくにつれて変化し、発展して、今日の礼法として確立されてきたのです。ですから、礼法とはある意味で護身術なのです。剣道、柔道、空手、合気道などなど、護身術にはさまざまなものがあります。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼法の方がずっと上ではないでしょうか。まさしく、礼法こそは最強の護身術なのです。
さらに、礼法というものの正体とは魔法にほかなりません。
フランスの作家サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は人類の「こころの世界遺産」ともいえる名作ですが、その中には「本当に大切なものは、目には見えない」という有名な言葉が出てきます。本当に大切なものとは、人間の「こころ」に他なりません。その目には見えない「こころ」を目に見える「かたち」にしてくれるものこそが、立ち居振る舞いであり、挨拶であり、お辞儀であり、笑いであり、愛語などではないでしょうか。それらを総称する礼法とは、つまるところ「人間関係を良くする魔法」なのです。
「魔法」とは、正確にいうと「魔術」のことです。西洋の神秘学などによれば、魔術は人間の意識、つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすものとされています。ならば、相手のことを思いやる「こころ」のエネルギーを「かたち」にして、現実の人間関係に変化を及ぼす礼法とは魔法そのものなのです。 わが社では、社員教育に小笠原流礼法を取り入れています。わたしは、かつて「見えぬもの見えるかたちにする人は まこと不思議な魔法使いよ」という短歌を詠み、わが社の社員に披露しました。
冠婚葬祭やホテルといったホスピタリティ・サービスの現場において、目には見えない「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といった、この世で本当に大切なものを目に見える形にしてほしいという願いを込めました。
"むすびびと"や"おくりびと"たちが、サン=テグジュぺリが「見えない」といった大切なものを「見える」形にできるとしたら、それは魔法使いそのものだと思いませんか?