No.0269


 日本映画「海賊とよばれた男」を観ました。
 この映画の主人公のモデルは出光佐三翁です。
 わたしは、かねてより出光翁を深く尊敬しています。
 ブログ『海賊とよばれた男』で紹介した原作小説も読みました。

 しかし、この映画の公開を知っていながら、なかなか観る気になれませんでした。というのも、ブログ『殉愛』で紹介した本の一連の騒動で原作者の百田尚樹氏に幻滅したのと、彼が『海賊とよばれた男』を書くときに、一度も物語の舞台となる門司港を取材に訪れていないことを知ったからです。その後、門司港の出光美術館での講演の依頼をするも、彼は断り続けました。そんな彼には「礼」の欠片も感じられず、「人間尊重」を生涯説き続けた出光佐三翁をモデルにした小説を書くなど不遜の極みであると思ったのです。でも、尊敬する出光翁が映画でどのように描かれているのかが気になり、上映期間が終わる今頃になって映画館に足を運んだ次第です。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「第10回本屋大賞を受賞した百田尚樹のベストセラー小説を、『永遠の0』の監督&主演コンビ、山崎貴と岡田准一のタッグで実写映画化。明治から昭和にかけて数々の困難を乗り越え石油事業に尽力した男の生きざまを、戦後の復興、そして世界の市場を牛耳る石油会社との闘いを軸に描く。日本人の誇りを胸に、周囲の仲間との絆を重んじた主人公・国岡鐡造の青年期から老年期までを、主演の岡田が一人でこなす。共演は吉岡秀隆、鈴木亮平、綾瀬はるか、堤真一ら豪華俳優陣がそろう」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「敗戦後の1945年、東京。石油会社・国岡商店を率いる国岡鐡造(岡田准一)は、日本人としての誇りを持ち復興に向け突き進もうと従業員を激励する。戦後の混乱期にもかかわらず誰も解雇せず、独自の経営哲学と行動力で事業を広げていく。やがて欧米の石油メジャーも国岡を警戒し、その強大な包囲網により同社の石油輸入ルートは全て封鎖されてしまうが・・・」

 正直言って、わたしは最初、この映画を観ることにあまり気乗りがしませんでした。しかしながら、もともとリスペクトしている人物がモデルになっているだけあって、あっという間に物語に引き込まれていきました。国岡鐡造を演じた岡田准一の演技力は素晴らしく、27歳から96歳まで、じつに70年間の年月をリアルに演じ切りました。これは驚嘆に値します。
ブログ「永遠の0」で紹介した大ヒット映画での主演に次ぐ名演技でした。

 鐡造の妻のユキを演じた綾瀬はるかも良かったです。
 ユキは子どもができない体ゆえに鐡造のもとを去りますが、この場面はあまりにも切ないです。ブログ『夫のちんぽが入らない』で紹介したベストセラー小説のように、子どもができない夫婦は多いのでしょうが、現在とは違って戦前は「跡継ぎを産まない嫁」という存在は許されなかったのですね。歴史の中には無数の「ユキ」がいたはずで、その中には、子どもができなくても夫と仲が良かった女性も多かったでしょう。それでも大好きな夫と別れなければならなかった彼女たちの心境を思うとやりきれない思いです。

 離縁したユキが亡くなった報せを鐵造が受けた場面は泣けました。 鐵造と別れた後も、ユキはずっと鐵造の人生を見守っていたのです。 国岡商店や鐵造に関する新聞記事を切り抜き、それをスクラップブックに貼っていました。ユキの死後、彼女の姪(黒木華)がそのスクラップブックを96歳になった鐵造に渡すのですが、それを手に取った鐵造は「俺に愛想を尽かして出ていったんじゃなかったのか」と驚きます。姪は「いえ、叔母は別れたかったのではなく、身を引いたのだと思います」と言います。それを聞いて、むせび泣く鐵造。わたしも貰い泣きしました。
 じつは、わが妻が新聞や雑誌に掲載されたわたしの記事やコラムを密かに切り抜いているようです。この場面を観て、感謝の念が湧いてきました。

 この映画には、じつに多くの名優たちが出演しています。
 特に国岡商店の番頭の甲賀を演じた小林薫、日章丸の盛田船長を演じた堤真一が渋かったです。鐵造は完全なワンマン経営者で、無茶も言うのですが、彼を心底慕っている店員や船員たちによって助けられるのでした。

 わたしも一介の経営者として、鐵造のようなカリスマ経営者には憧れますが、それはやはり鐵造の人徳であると思います。彼は日頃から店員や船員をわが子のように可愛がっていたのです。

 映画には登場しませんでしたが、原作には胸が熱くなった場面がありました。たとえば、ソ連の石油を購入したことで右翼が押し寄せて受付嬢が恐怖のあまり泣いたとき、老境にあった鐵造が「大勢で若い女を泣かせおって。貴様ら、それでも男か!」と一喝した場面。国岡商店が所有する宗像丸の沈没事故で36人の全乗組員が亡くなったとき、老いた鐵造が「ぼくは死ねなくなった」「乗組員の子供たちが成人するまで死ねない」と号泣した場面などです。

 この映画は、冒頭に「inspired by true events」とスクリーンに映し出されます。出光佐三の名は「国岡鐵造」という名前に変えられており、かなり脚色されてはいますが、大筋では歴史的事実に基づいています。
 出光興産は、北九州市の門司からスタートしました。
 現在は歯科医院となっている創業の地は、わが社の「門司港紫雲閣」のすぐ近くです。本当に、歩いて数分の距離です。同じく、近くには「出光美術館」もありますが、同館の「友の会」会長は八坂和子さんです。出光家とも縁の深い門司の元市長のお嬢さんで、「日緬仏教交流協会」の理事としても大変お世話になっている方です。詳しくは、ブログ「『世界平和パゴダ』再開」をお読み下さい。

 わたしは、地元・北九州に縁の深い実業家である出光佐三の名は幼少の頃から知っていました。何より、わたしの父がこよなく尊敬しており、その影響で「人間尊重」というわが社のミッションが決定したそうです。
 「人間尊重」とは、出光佐三が終生口にし続けた言葉だからです。
 彼にとっての「人間尊重」の理念は「家族主義」の経営につながり、タイムカードなし、出勤簿なし、馘首なし、定年なしを貫き通しました。
 石油関連会社でありながら、海外のメジャーに一切頼らず、日本人による日本人のための「民族会社」を経営したのです。西欧の巨大石油会社からは言うに及ばず、銀行からも監督官庁である通産省からも役員を受け入れませんでした。すべてを自社叩き上げの社員で構成されたプロ集団を作り上げたのです。これは、「戦後の奇跡」と呼べる快挙でしょう。

 日章丸がイランのアバダンに無事に着いて、さらには川崎港に帰り着いた場面も感動的でした。そう、この映画の最大のハイライトは、1953年の「日章丸事件」です。出光興産のタンカー「日章丸二世」がイランから石油を輸入した事件です。石油メジャーを介してでなく、日本の石油元売会社が産油国との直接取引をする先駆けとなりました。しかし、当時はイギリスがイランを支配しており、イランの石油もイギリスの所有であると主張されていました。イギリスのアングロ・イラニアン社は出光興産を告訴し裁判となりますが、結果は出光が勝訴しました。
 敗戦国である日本の民族会社が、石油メジャーと大英帝国を相手に戦って勝利を収めたのです。戦後、力道山が外国人プロレスラーを空手チョップで倒し、白井義男がダド・マリノからチャンピオンベルトを奪い、古橋廣之進が五輪会場に日章旗を揚げましたが、そのたびに日本人は快哉を叫びました。しかし、敗戦と占領で意気消沈していた日本人にとって、日章丸のイラン石油輸入ほど勇気を与えられた出来事はありませんでした。

 これほどの歴史的快挙を1963年生まれのわたしは知りませんでした。 それどころか、1956年生まれの百田尚樹氏も知らなかったそうで、ある日、テレビ関係の友人と雑談している時、「日章丸事件って知ってる?」と訊かれたそうです。著者が「知らない」と答えると、友人が概要を説明してくれました。著者は、そのときの心境をアマゾンの『海賊をよばれた男』の「著者コメント」で次のように述べています。

「それは俄かには信じられない事件でした。いまだ戦争の痛手から立ち直れないでいた昭和28年、『七人の魔女』と呼ばれる強大な力を持つ国際石油メジャーと大英帝国を敵に回して、堂々と渡り合い、世界をあっと言わせた『日章丸』というタンカーがあったというのです。
興味を抱いた私は早速調べてみましたが、事件の全貌を知るにつれ、驚愕すると同時に震えが止まらなくなりました。そこには現代の日本人が忘れかけている『勇気』『誇り』『闘志』そして『義』の心を持った男たちの姿があったからです。しかしそれ以上に私を驚かせたことがありました。それは、そんな男たちを率いた一人の気骨ある経営者の人生です。その九十五年の生涯はまさしく凄絶としか言いようのないものでした。
――なんという凄い男がいたんや! 私は『この男を書きたい!』と心から思いました。いや――書かねばならない!この素晴らしい男を一人でも多くの日本人に知ってもらいたい! それが作家としての使命だ。 気が付けば、取り憑かれたようにワープロに向かっていました。小説家になって六年、執筆しながらこれほどの充実感を覚えたことはありません」

 じつは、わたしの同級生に出光系の石油スタンドを経営している友人がいました。残念なことに数年前に彼は力尽き、彼の会社は倒産しました。彼とは三島由紀夫を愛読する者同士として親しくしていたのですが、心の底から出光佐三という人を尊敬しており、その偉大さをよく聞かされました。
 また、ブログ「門司港紫雲閣竣工式」に書いたように、昨年7月23日に行われた「門司港紫雲閣」の竣工式の直会の冒頭で、サンレーグループの 佐久間進会長が挨拶しました。佐久間会長は、この門司港の地は尊敬する出光佐三翁にゆかりがあるとし、出光翁の「人間尊重」という思想に感銘を受けて、わが社のミッションにしたと明かしました。それを聞いたとき、わたしの中で、孔子と出光佐三とドラッカーの3人が見事につながったのです。
 「人間尊重」というキーワードが3人を結びつけたのです。

 それにしても、知れば知るほど、出光佐三ほど偉大な人はいません。
 ブログ「実家の書庫」で紹介した「気楽亭」には、佐久間会長が集めた出光佐三の全著作をはじめ、あらゆる関連資料が揃っていました。
 特に、彼が著した『マルクスが日本に生まれていたら』という奇跡のような名著からは「人間尊重」の哲学が燦然と光を放っています。
 まさに、渋沢栄一や松下幸之助と並ぶ日本の哲人経営者でした。
 そして、出光佐三ほど日本および日本人を愛した人はいません。

 1981年(昭和56年)、出光佐三は96歳で逝去しました。
 そのとき、昭和天皇は故人を偲んで次の和歌を作られました。
  「人の為 ひとよ貫き尽したる 君また去りぬ さびしと思う」 (昭和天皇御製)
 「あなたは、戦前戦後の未曾有の国難を日本人のために全身全霊で生き抜き、日本人の誇りを取戻してくれた。そんなあなたが亡くなって、私はさびしいと思う」 といった意味でしょうか。
 天皇が一般人の死を悼んで和歌を詠まれたなど、日本史全体を見渡しても例がありません。どれほど、昭和天皇が出光佐三という方を大切に思われ、その死を惜しんでおられたかがわかります。

 じつは、出光佐三翁が亡くなられた後、奥様がわが社の松柏園ホテル、特にその茶室を愛用して下さいました。十数年間、奥様は松柏園から赤間にある佐三翁のお墓、さらには佐三翁が生涯にわたって大切にされた宗像大社へ参拝に行かれたそうです。「人間尊重」のミッションとともに、佐三翁との御縁を感じます。わたしは、偉大な出光イズムの清華である「人間尊重」をわが社のミッションとしていることを心から誇りに思います。
 そして、わたしは謹んで佐三翁の遺徳を称える歌を詠みました。佐三翁が訓示で多用した「行き方」という言葉を詠み込みましたが、これは「方向性」とか「やり方」の意味で、「生き方」ではありません。
 以下が、『海賊とよばれた男』を読了して詠んだ歌です。

 こころざし貫き尽す行き方は
        人を尊び人を重んじ (庸軒)

  • 出版社:講談社
  • 発売日:2014/07/15
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