シネスイッチ銀座で日本映画「しゃぼん玉」を観ました。
 東京に来たときは東京でしかできない体験を心がけていますが、まさに東京のミニシアターでしか鑑賞できない作品でした。ただ、物語の舞台は宮崎でしたが・・・・・・。この映画を観ながら、わたしは「宮崎って、こんなに美しい場所だったのか!」と思いました。

 ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。

「第115回直木賞受賞の『凍える牙』や、『水曜日の凱歌』などの人気作家、乃南アサの小説を基にしたヒューマンドラマ。強盗や傷害を重ねて逃亡中の青年が、ある老人と彼女が暮らす村の人々と触れ合ううちに再起を決意するさまが描かれる。監督はテレビドラマ『相棒』シリーズなどの東伸児。キャストには、林遣都、藤井美菜、綿引勝彦、市原悦子らが顔をそろえる。人と人の絆の尊さを見つめた物語に加え、ロケを敢行した宮崎県の美しい風景も見どころ」

 ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。

「親に見捨てられた果てに、通り魔となって老人や女性を襲い、強盗を重ねて逃避行中の伊豆見(林遣都)。宮崎県の山深い村に足を踏み入れた彼は、けがをしたスマ(市原悦子)を助けたのが縁で彼女の家に居候することになる。金を奪って逃げようと考えていた伊豆見だが、スマや伊豆見を彼女の孫だと思い込む村人たちと接するうちに、心の変化が生まれる。ある日、10年ぶりに村へ帰ってきた美知(藤井美菜)と出会ったのを機に自分の犯してきた罪の大きさを感じた彼は・・・・・・」

 まず、不満から言わせてもらいますと、「しゃぼん玉」というタイトルは良くないですね。主人公の伊豆見が定職にも就かずにふらふら生きている自分を「しゃぼん玉」に例えるセリフが出てくるのですが、何よりも長渕剛の歌のイメージが強すぎます。まあ、原作小説のタイトルですから仕方がないのでしょうが・・・・・・。でも、原作者の乃南アサ氏ももっと他のタイトルをつければ良かったのにと思いました。

 しかし、この映画の舞台となった宮崎の自然は素晴らしかったです。 おそらくは日向や高千穂の山中でしょうが、天孫降臨さえイメージさせる神秘的な光景には心を奪われました。ちょうどこの日、わたしは『山怪 山人が語る不思議な話』田中康弘著(山と渓谷社)という本を読んでいました。山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験を集めた本で、「現代版遠野物語」とも呼べる内容です。「しゃぼん玉」の舞台となった平家の落人集落である椎葉村も登場していることを映画の鑑賞後に知り、驚きました。「椎葉村にて」という文章の冒頭に次のように書かれています。

「宮崎県の椎葉村は、柳田國男が民俗学のアウトラインを思いついた場所である。村内には〝民俗学発祥の地"なる記念碑が建てられている。夜神楽や地元猟師たちの作法からすれば、確かにこの地には古い日本の姿が多く残されているようだ」

 『山怪』には、狐に化かされたとか、大きな人魂を見たとか、そういう類の話が多いのですが、わたしは山へのロマンを掻き立てられました。そんなときに観た「しゃぼん玉」に山深い光景が延々と映し出されて嬉しかったです。本当に山に行きたくなりました。主人公を山へ導いた重爺も渋かったです。

 老婆スマ役の市原悦子はもちろん名演技でしたが、伊豆見を演じた林遣都も存在感がありました。スクリーンで彼を見たのは初めてなのですが、現代の若者をうまく演じています。ひったくり犯を演じているときも迫真の演技でした。親に捨てられた経験から、すさみきっていた彼の人生も、椎葉村の人々の優しさに触れて、徐々に変わっていきます。

 彼はけっして村人たちから親切にされただけではありません。彼自身もまた、村人たちを助け、支えてきたのです。つまり、彼と村人たちは「相互扶助」の関係にあったのです。

 『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「相互扶助というコンセプト」にも書きましたが、「人間は社会的動物である」と言ったのはアリストテレスです。近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。人間が生物学的に成功したのは、ひとえに共同体とその協力行動のおかげです。ただしここでいう共同体とは、構成メンバーが互いに直接顔を合わせることのできる範囲、すなわち、村です。もともとは血縁関係を基本にして構成されてきたこのような共同体は、相互協力行動や相互利他行動、つまりは「相互扶助」の単位でもあります。

 共同体に属さず、放浪の旅を続ける者もいます。
 いわゆる「旅人」や「異邦人」ですが、こういった存在に対し、共同体の人々はいい知れぬ不安を抱きます。異邦人に対する愛や親切さを「フィロクセニア」と呼びます。「隣人愛」といってもよいですが、当然ながらフィロクセニアはホスピタリティに通じています。逆に、よそもの嫌いの感覚を「ネオフォビア」といいますが、人間誰しも本能的に持っている感覚です。

 チュニジア生まれの社会学者アルベール・メンミは、このネオフォビアこそが人種差別の根底にある感覚だと喝破しています。
 ところが現代の大都市というのは、こういったよそ者、旅人、異邦人が大集合してできたものです。そこには相互扶助も共同体も、そもそも存在しえないのです。しかし一方で、都市には「匿名性の快楽」とでもいうべき都会の気楽さというものがあります。匿名性の快楽は、おそらくは共同体からの拘束と表裏一体をなすものです。

 古今東西どんな共同体でも、無礼講の緩衝地帯とか、年二回の村祭りとか、そのためのガス抜きシステムを内在化してきました。

 いかに共同体を人間の心が求めているといっても、共同体からの制約を受ける一方では息苦しくなります。ですから、日常(ケ)の共同体生活を維持するためにこそ、そこからの逸脱(ハレ)が必要となるのです。

 そして都市とは、こういった定期的ガス抜きシステムの部分だけを肥大化させたものとも考えられます。つまり都会の生活とは毎日がハレであり、それゆえに都会生活者は疲れるのです。

 ここで「祭り」が登場しましたが、日本人は祭りが大好きです。
 子どもにとっては、夜遊びのワクワク感をともない、祭りはひたすら楽しいイベントです。大人になるにつれ、命がけのお祭り、勇壮なお祭り、優美な祭りに心を奪われます。どんな祭りにも日常とは違った空気が流れており、そこに惹かれるのかもしれません。小倉っ子であるわたしは、「無法松の一生」で有名な小倉祇園太鼓の季節になると血が騒ぎます。

 では、祭りとは何でしょうか。拙著『儀式論』(弘文堂)の「祭祀と儀式」でも詳しく書きましたが、祭りは自然と人間と神々との間の調和をはかり、その調和に対する感謝を表明する儀式です。「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」であることを国学者の本居宣長は『古事記伝』で説いています。「まつり」の語源は「たてまつる」の「まつる」、すなわち「供献する」「お供えする」ことに由来するというのです。

 たしかに「祭り」のはじまりは「神と人との関係」にありました。でも、現在では「人と人との関係」に重心が移動してきているのではないでしょうか。古来より、日本の祭りは人間関係を良くする機能を大いに果たしてきました。ともに祭りに参加した人間同士の心は交流して、結びつき合うのです。

 「しゃぼん玉」には、「椎葉平家祭り」という祭りが登場し、非常に重要な役割を果たします。「グルネット宮崎」というサイトの「椎葉平家まつり」には、「椎葉に残る鶴富姫と那須大八郎の伝説を現代に甦らせたイベント。毎年11月、紅葉の美しい時期に行われます。鶴富姫を供養する『法楽祭』から始まり、当時の様子が再現される華麗な時代絵巻『大和絵巻武者行列』は圧巻」と説明されています。

 また、「鶴富姫と那須大八郎の伝説」として、以下のように書かれています。

「およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち。 追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ。 古文書『椎葉山由来記』は次のように伝えています・・・道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどりついたのが山深き椎葉だった。 しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令されるが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を・・・こうして椎葉に向かった大八郎、険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見。だが、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念。幕府には討伐を果たした旨を報告した。 普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け、協力し合いながら暮らしたという。やがて、平清盛の末裔である鶴富姫との出会いが待っていました。・・・」

 さらに、「鶴富姫恋物語」として以下のように書かれています。

「いつしか姫と大八郎にはロマンスが芽生えました。
『ひえつき節』にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるような・・・
庭の山椒の木鳴る鈴かけて
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
駒に水くりょというて出ましょ
大八郎は永住の決心を固め、村中から祝福されます。
ところが、やがて幕府から、『すぐに兵をまとめて帰れ』という命令が届き、夢ははかな・・・
和様平家の公達流れ
おどま追討の那須の末よ
那須の大八鶴富おいて
椎葉立つときゃ目に涙よ
このとき鶴富姫はすでに身ごもっていました。
しかし、仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、分かれの印に名刀<天国丸>を与え、「生まれた子が男子ならわが故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで椎葉を後にするのです。生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。後に、婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです」

 『隣人の時代』(三五館)にも書いたように、祭りは血縁と地縁を強化する文化装置です。そのような本質をもつ祭りに触れ、伊豆見の心は明らかに変化していきます。また、伊豆見と美知の関係が大八郎と鶴富姫のイメージに重なっていくという構図も見られました。取り返しのつかない罪を犯した若者は、平家の落人集落という伝説の場所で、伝説と一体化していくのでした。神話の国・宮崎の伝説の里で・・・・・・。神話も伝説も物語です。

 「しゃぼん玉」という映画は、人間が物語を必要とする動物であることを示しているように思いました。とても興味深い、素晴らしい映画でした。

 さて、シネスイッチ銀座では、いくつかの映画の予告編が流れました。その中でも「マイ ビューティフル ガーデン」の予告編に心を奪われました。サイモン・アバウド監督の作品で、ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ、トム・ウィルキンソン、アンドリュー・スコット、、ジェレミー・アーヴァインなどの豪華イギリス俳優陣による美しいイングリッシュガーデンから生まれた現代のシンデレラストーリーだとか。4月から公開ですが、これはぜひ観たいですね。

  • 出版社:新潮社
  • 発売日:2008/01/29
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