No.0278


 春爛漫は映画日和・・・・・・。
 昨日紹介した映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」に続き、同じく7日に公開された映画「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観ました。
 実話に基づいたヒューマン・ドラマですが、いやもう大変感動しました。
 今年の「一条賞」の最有力候補です。超おススメです!

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『英国王のスピーチ』などのプロデューサー、イアン・カニングが製作に名を連ねた実録ドラマ。幼少時にインドで迷子になり、オーストラリアで育った青年が Google Earthを頼りに自分の家を捜す姿を追う。メガホンを取るのは、テレビシリーズや短編などを手掛けてきたガース・デイヴィス。『スラムドッグ$ミリオネア』などのデヴ・パテル、『ドラゴン・タトゥーの女』などのルーニー・マーラ、名女優のニコール・キッドマンらが顔をそろえる」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「インドのスラム街。5歳のサルーは、兄と遊んでいる最中に停車していた電車内に潜り込んで眠ってしまい、そのまま遠くの見知らぬ地へと運ばれて迷子になる。やがて彼は、オーストラリアへ養子に出され、その後25年が経過する。ポッカリと人生に穴があいているような感覚を抱いてきた彼は、それを埋めるためにも本当の自分の家を捜そうと決意。わずかな記憶を手掛かりに、Google Earthを駆使して捜索すると・・・・・・」

 TV番組「アンビリーバボー」なら10分か15分のエピソードにまとめられるのでしょうが、映画では2時間のドラマに仕上げています。登場人物たちの内面の奥にまで深く踏み込んで、彼らの人生そのものを描いたからです。
 この映画を観て、まず、わたしは大いに驚きました。
 「事実は小説より奇なり」と言いますが、まさにその通りです。 その事実の奇妙さとともに、わたしはインドという国にも驚きました。
 わたしは昨年初めてインドを訪れましたが、その貧しさには衝撃を受けました。人間の平等をめざしたブッダが仏教を開いてから2500年経った今も「カースト制度」はなくなっていませんし、国中に物乞いが溢れていました。

 この物語は19世紀とか20世紀の初期の話ではありません。
 サルー少年が迷子になったのは、1980年代なのです。
 日本ならば、交番に行けば、すぐに迷子は親に会えるでしょう。
 この物語のように、少年が無人列車に乗って遠方まで行ったとしても、警察は少年の身元を探してくれたはずです。でも、インドの場合はそれが出来ませんでした。インドを中傷する気などまったくありませんが、この国の行政は機能していないのではないかと思えてしまいます。
 この映画のエンドロールで知ったのですが、今もインドでは毎年、8万人の子どもが行方不明になっているとか。国際的に、行方不明の子どもの問題はユニセフが扱っているそうです。

 なぜ、サルー少年の身元がわからなかったかというと、幼かった彼は自分の正しい姓名を知らなかったからです。なぜ知らなかったかというと、彼の母親は文盲だったので、わが子に名前のスペルも教えることができなかったからです。その母親は石運びの仕事をしており、サルー少年も手伝いをする日々を送っていました。このあたりの描写に、現在もインドが抱えている問題が浮き彫りになっているように感じました。

 それにしても、かわいい息子が行方不明になった母親の心境はいかばかりだったでしょうか。この映画のサブタイトルは「25年目のただいま」ですが、「ただいま」という何気ない挨拶の言葉がどんなに幸せな言葉なのかということを思い知ります。わたしは、家庭での日常の挨拶ほど大切なものはないと思っています。親しい家庭の中で他人行儀な挨拶など無用と思っている人がいたら大間違いです。そんな家庭の子どもは将来、必ず社会を騒がすような問題を起こす人間となるでしょう。

 わたしは、父から7つの挨拶を幼少のときより徹底的に叩き込まれました。すなわち、
1.おはようございます
2.行って来ます
3.ただいま
4.いただきます
5.ごちそうさま
6.おやすみなさい
7.ありがとうございます

 これは「躾に必要な七つの挨拶」として、わたしも2人の娘たちに教えました。このような日常わたしたちが何気なく使っている挨拶こそが、バラバラになりがちな家族の心を結びつけ、互いに思い合い、気づかい合い、なごやかな家庭を作り出す土台なのだと信じています。 その中でも、「行ってきます」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「おかえり」はとても大切な挨拶です。

 「行ってきます」は、当人にとっては「今日も元気にがんばろう」という決意と「今日も無事でありますように」と祈る気持ちで我が家を出発する言葉です。「行ってらっしゃい」という送り出す側の言葉は「今日も元気で」で応援する気持ちと、「車や事故に気をつけて」と安全を祈る心の表現です。

 ですから、送り出した人が元気で帰宅することが家で待つ者にとっては一番気がかりなのです。交通事故の他にも、災害、犯罪、学校でのいじめなど、日常的に心身の危険にさらされている今日では、元気な「ただいま」の一言で、家族は安心するのです。そして、「おかえり」の一言で、帰ってきた者もまたホッとし、外での苦しいこと、辛いことも癒されるのです。

 主人公サルーの少年時代を演じた子役サニー・パワール君の存在感の大きさです。数千人から選ばれた逸材というだけあって、戸惑いの表情、悲しい表情、喜びの表情・・・・・・そのどれもが最高に素晴らしかったです。

 また、彼を取り巻くインド人俳優たちも良かったです。今や世界の映画界を支える一翼になっているインド映画界の層の厚さを感じました。

 サルー少年は、カルカッタの施設からオーストラリアの夫婦の養子となります。里親となった夫妻は、本当は自分の子どもを作ろうと思えば作れたのですが、「世界には人が多過ぎる。自分の子どもを作るより、苦しんでいる子どもを救いたい」という考えの持ち主でした。わたしは、他人の子どもを育てるという人を心から尊敬していますが、この夫妻もそんな人々でした。

 里親の母親役は、ニコール・キッドマンが演じています。

 彼女はもともとオーストラリア出身で、大作映画「オーストラリア」にも主演しました。しかし、ハリウッドを代表する美女であった彼女が完全に「オーストラリアのおばさん」になり切っている女優魂には感動を覚えました。
 このニコールが演じる女性は、一種の霊媒的能力があるようで、12歳のときに「褐色の少年に出会うビジョン」を見たそうです。
 そのビジョンに出てきた少年こそが、サルーなのでした。

 映画のエンドロールでは、実際の映像が流れました。そこでは、サルーの生みの母とオーストラリアの育ての母が抱き合うという感動的な光景が映し出されます。わたしは、このシーンを観て涙が止まりませんでした。そして、2人の母に対して深い感謝の心を示すサルーに「孝」を強く感じました。

 儒教では親子愛としての「孝」とともに、兄弟愛としての「悌」を重んじます。この映画はけっして儒教映画ではないのですが、大いなる「悌」も描いていました。サルーには兄が1人いました。いつも兄にくっついて離れないサルーでしたが、その中の良さが仇になって彼は迷子になりました。
 かわいい弟を見失ってしまった兄の狼狽、絶望、そしてその後の運命を想像すると、泣けてきます。

 わたしは、この映画を観ながら、わたしのたった1人の弟のことを考えました。わたしと弟はかなり年齢が離れています。ずっと一人っ子だったわたしは弟が生まれて嬉しくてたまりませんでした。そして、幼い弟が行方不明になったり、死んでしまったりしないかということを心配していました。2人とも中年となった今では、わたしのほうが弟に心配され、助けてもらってばかりですが・・・・・・。

 それからオーストラリアに貰われていったサルーには1人の弟がいました。
 サルーと同じく養子である弟は問題を抱えていて、両親もサルーも悩みます。しかし長年の弟との確執の末に、サルーは弟のすべてを受け容れるのでした。母親によれば、精神的に問題を抱えている弟は非常に頭が良く、自分の持っている大きなエネルギーをコントロールできないのだそうです。たしかに、そういくことがあるかもしれないと思いました。

 頭が良いといえば、インド人には頭の良い人が多いそうです。「0」 や「∞」という概念を発見したのもインド人ですが、成人したサルーが、自分は迷子だったことを思いだしたとき、周囲にいたインド人の友人たちが「当時の列車の速度と、走行距離を調べれば、場所が割り出せる」とか「グーグル・アースを使えばいい」など、即座にアイデアを矢継ぎ早に出した場面がありました。まさに「衆知を集める」といったシーンで、興味深かったです。

 そして、サルーは実際にグーグル・アースを使って、自分の生家があった場所を見つけ出したのでした。わたしは、これまでグーグル・アースに対して良い印象を持っていませんでした。マッド・サイエンティストであったフランケンシュタインは、悲劇のモンスターを生み出してしまいます。サイエンティスト企業としてのグーグルを興したブリンとラリーが創り出したものも「SFの実現」というモンスターに近い存在であると考えているからです。特に、グーグル・アースなどを見ると、なんだか途方もないことを企んでいる気配を強く感じました。

 しかし、この映画を観てから、グーグル・アースを見直しました。
 というか、テクノロジーというのはそれ自体に善悪はなく、それを使う人間の心によって善悪が生まれるのだと改めて思いました。
 『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「超人化のテクノロジー」において、わたしは、ハイテクノロジー社会において、人類は超能力を使えるようになると書きました。これは、そのまま言葉の通り、人類がもともと潜在的にもっていたとされる超能力がよみがえる(実際、そのように主張する人々も存在する)という意味ではありません。人類がすべて超能力者になるに等しいような社会システムがハイテクノロジーによって出現するという意味です。

 ひと口に超能力といってもさまざまなものがあります。研究者たちは、超能力をPSI(サイ)と総称しており、これは「科学では説明できない、人間が秘める、五感を超える、潜在的、超自然的な能力や現象」を意味する代名詞とされています。そして一般的には、PSI現象は、思念などによって外部環境に影響を及ぼすPK(念力、念動、念写)、透視、テレパシー、霊感などのESP(超感覚的知覚)の2つに分類されます。

 スプーン曲げに代表される念力などのPKは、現代社会において、すでに実現されていると言えます。それは何より、核兵器の存在に代表されるでしょう。核はどんなに遠く離れたものでも、この地球ですら一瞬で破壊することのできる強大な念力のテクノロジー化なのです。 核だけではなく、コンピュータもPKを実現してきています。

 ハッカーと呼ばれる人々は、遠く離れたコンピュータでも自由に、また相手に知られることなく操作することができます。彼らは超大国の軍事までをも思いのままに操ることによって、多くの人々を生かしも殺しもできる恐るべきPK能力者なのです。

 PKとともにPSI現象を構成するのがESPです。ESPの諸能力を仏教の用語を使ってわかりやすく表現すると、次のようになります。
1.天眼通・・・・・・透視、千里眼
2.天耳通・・・・・・千里耳(地獄耳)
3.他心通・・・・・・テレパシー
4.宿命通・・・・・・予知、後知
5.神足通・・・・・・テレポート
6.漏尽通・・・・・・悟りの境地

 この中でも、ある程度は現在実現しているものがあります。漏尽通は、幽体離脱をテクノロジー化した宇宙船によって獲得することができます。なぜなら、宇宙飛行士の多くは宇宙で神の実在を感じ、悟りのような境地に達したといいます。重力とはあらゆる煩悩の象徴であり、そこから脱出することは悟りへ至ることなのです。ブッダはものすごい苦労をして悟りを開きましたが、無重力の宇宙空間では凡人でも悟りを開けるのかもしれません。

 また、神足通は飛行機などによって、宿命通は世界中をケーブルでつながれたひとつの世界の市場とした金融テクノロジーをはじめとする情報システムによって、他心通は遠く離れた相手ともコミュニケーションが可能なインターネットや携帯電話の電子メールによって、天耳通は電話によって、それぞれある程度実現しています。
 そして、グーグル・アースとは天眼通の獲得にほかなりません。
 「鳥の目」どころか「神の目」ともいえる天眼通をテクノロジー化したグーグル・アースによって、サルーは自分の故郷を見つけたのです。

 サルーが見つけたものは、生家だけではありませんでした。
 彼は生涯の伴侶も見つけました。サルーの恋人を演じたのは、「キャロル」でアカデミー賞にノミネートされたルーニー・マーラです。彼らは、ホテル・マネジメントを学ぶ者同士で、「ホスピタリティ産業」についての議論を交わしたのが出会いでした。その後、サルーは実際にホテルの支配人になるのですが、彼がホスピタリティ産業に興味を抱いた理由はなんとなくわかる気がします。というのも、迷子になってからの彼は寝る場所にも困り、食べる物にも困り、ヒンドゥー語しか話せないために言葉にも困っていたからです。

 『ハートフル・ソサエティ』の「ホスピタリティが世界を動かす」にも書きましたが、ホスピタリティを人類の普遍的な文化としてとらえると、その起源は古いです。じつに、人類がこの地球上に誕生し、夫婦、家族、そして原始村落共同体を形成する過程で、共同体の外からの来訪者を歓待し、宿舎や食事・衣類を提供する異人歓待という風習にさかのぼります。

 異邦人を嫌う感覚をネオフォビアといいますが、ホスピタリティはまったくその反対なのです。異邦人や旅人を客人としてもてなす習慣もしくは儀式というものは、社会秩序を保つうえで非常に意義深い伝統的通念であり、時代や地域を超えて存続しました。養子となったオーストラリアの両親からサルーが与えられたものこそ、「ホスピタリティ」の精神だったと思います。

 最後に、この映画のタイトルには「ライオン」とありますが、その理由をエンドロールで知ったとき、わたしは大きな感動を覚えました。
 この映画、とにかくエンドロールが情報満載です。必ず、お見逃しなく!