No.0276
ブッダの誕生日である「花祭り」の日、映画「ムーンライト」を観ました。
第89回アカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚色賞に輝いた作品です。
アカデミー賞の授賞式では、作品賞の受賞作が「ラ・ラ・ランド」と間違って発表され、その後に訂正されるという前代未聞の珍事もありました。わたしは、意味のあるハプニングだと思いました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「ブラッド・ピットが製作陣に名を連ね、さまざまな映画祭・映画賞で高評価を得たドラマ。マイアミの貧困地域に生きる少年が成長する姿を、三つの時代に分けて追う。監督は、短編やテレビシリーズを中心に活躍してきたバリー・ジェンキンズ。『マンデラ 自由への長い道』などのナオミ・ハリス、『グローリー/明日への行進』などのアンドレ・ホランドらが出演。逆境の中で懸命に生きる主人公に胸を打たれる」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「マイアミの貧困地域で、麻薬を常習している母親ポーラ(ナオミ・ハリス)と暮らす少年シャロン(アレックス・R・ヒバート)。学校ではチビと呼ばれていじめられ、母親からは育児放棄されている彼は、何かと面倒を見てくれる麻薬ディーラーのホアン(マハーシャラ・アリ)とその妻、唯一の友人のケビンだけが心の支えだった。そんな中、シャロンは同性のケビンを好きになる。そのことを誰にも言わなかったが・・・・・・」
「ムーンライト」は、とても重い内容の映画でした。
なにしろ、売春、麻薬、いじめ、ゲイ・・・・・・それぞれ単独でもじゅうぶんに重いテーマがこれでもかとばかりに波状攻撃のように描かれています。あの「能天気」を絵に描いたような「ラ・ラ・ランド」とはまさに正反対です。
わたしは「ラ・ラ・ランド」という映画を楽しみながら観ましたし、最後は感動もしました。間違いなく名作だと思います。でも、「ムーンライト」の重さに比べたら、どうしても軽く感じてしまうのも事実です。
その軽さは、インド映画「きっと、うまくいく」にも通じるでしょう。あの植木等の「無責任」シリーズをも彷彿とさせるインド映画は、一部で「おバカ映画」とも呼ばれていましたが、「ラ・ラ・ランド」も同様の評価を受けています。アカデミー賞の授賞式で、一度は「ラ・ラ・ランド」と発表された作品賞受賞作がじつは「ムーンライト」であったというのは悪い冗談にしか思えません。だって、「ムーンライト」を作品賞に選ぶような審査員は、けっして「ラ・ラ・ランド」を高く評価しないでしょうから・・・・・・。
しかし、わたしは「ラ・ラ・ランド」と「ムーンライト」の両作品は併せ鏡のような関係であると思いました。どういうことかというと、「人生」の光と影の両面を見事に表現しているのです。両作品を観ると、とらえどころのない「人生」の全体像というものが浮き彫りになってくるのです。これは、わたしが「冠婚葬祭」という仕事に携わっていることも大いに関係していると思います。
わたしはこれまで、『結魂論』と『老福論』(ともに成甲書房)、また、『むすびびと』(三五館)と『最期のセレモニー』(PHP研究所)、さらには、『幸せノート』と『思い出ノート』(ともに現代書林)などを同時刊行あるいはほぼ同時に刊行してきました。結婚と死、結婚式と葬儀、喜びと悲しみ・・・・・・こういった陰陽の世界をなぜ同時に扱うのかというと、それは人間の「幸福」の本質を浮き彫りにするためです。単に嬉しいだけとか、単に悲しいだけではなく、2つの光線を両方向から投射してみて初めて立体的に浮かび上がってくるものがあると思うのです。「ラ・ラ・ランド」と「ムーンライト」も同じように「人生」や「幸福」の実像を浮き彫りにする光線ではないでしょうか。
さて、この映画の大きなキーワードは「誇り」だと思います。
黒人としての「誇り」、ゲイとしての「誇り」、人間としての「誇り」・・・・・・。
それらの「誇り」を持つことが主人公シャロンに問われています。
しかし、彼にはどうしても「誇り」を持てないものがありました。それは仕事の「誇り」です。彼の仕事は、麻薬ディーラーだったのです。
シャロンの父親代りとでもいうべきホアンも麻薬ディーラーでした。 マハーシャラ・アリが演じたホアンは本当に優しい人物で、学友からいじめに遭って脅えながら生きていた少年シャロンに対して、慈悲深く接しました。「自分の生きる道は自分で決めろ」など、ホアンは人生の指針をシャロンに与えます。そんなホアンでさえ、麻薬を売るという自分の仕事には誇りを持てませんでした。わたしは「すべての仕事には意味と価値がある」と考えている人間ですが、やはり、詐欺、殺人、人身売買、麻薬販売などの反社会的な仕事を認めるわけにはいきません。ホアンやシャロンのような善良な人間が麻薬ディーラーのような闇の仕事に就いている・・・・・・このことこそ、「ムーンライト」が描いた最大の悲しみであると思いました。
タイトルの「ムーンライト」というのは、「月光の下では黒人の少年は青く見える」という老婆の言葉からきているようです。ここでの「ムーンライト」すなわち月光は「平等」のシンボルと言ってよいでしょう。月光の下では、白人も黒人も黄色人も、ノーマルもゲイも、金持ちも貧乏人も、みんな平等なのです。そして、月光は「慈悲」のシンボルでもあります。
4月8日の「花祭り」はブッダの誕生日ですが、興味深いことに、ブッダは満月の夜に「慈経」を説いたと伝えられています。満月とは、満たされた心のシンボルにほかなりません。わたしは、こよなく愛してやまないドビュッシーの「月の光」を聴きながら、ブッダ最初の教えとされる「慈経」を心のままに訳し、『慈経 自由訳』(三五館)を上梓しました。
『慈経 自由訳』(三五館)
『慈経 自由訳』のプロモーション・ヴィデオ(PV)では、ドビュッシー「月の光」の調べに乗せて、世界的写真家リサ・ヴォートさんの美しい写真とともに「慈経」の自由訳文が流れていきます。「ムーンライト」を観た後も、わたしの頭の中にはドビュッシーの調べが静かに流れていました。
わたしは、「慈悲の徳」を説く仏教の思想、つまりブッダの考え方が世界を救うと信じています。「ブッダの慈しみは、愛をも超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。
生命のつながりを洞察したブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視しました。そして、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために「慈経」を残しました。
そこには、「すべての生きとし生けるものは、すこやかであり、危険がなく、心安らかに幸せでありますように」と念じるブッダの願いが満ちています。
月光は「慈悲」の見える化である!
「慈経」(メッタ・スッタ)は、仏教の開祖であるブッダの本心が最もシンプルに、そしてダイレクトに語られている、最古にして最重要であるお経です。
上座仏教の根本経典であり、大乗仏教における「般若心経」にも比肩します。上座部仏教はかつて、「小乗仏教」などと蔑称された時期がありました。しかし、僧侶たちはブッダの教えを忠実に守り、厳しい修行に明け暮れてきました。「メッタ」とは、怒りのない状態を示し、つまるところ「慈しみ」という意味になります。「スッタ」とは、「たていと」「経」を表します。
『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)
『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)にも書きましたが、仏教を開いた「お釈迦さま」ことゴータマ・ブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。
ブッダは、きっと月の光に影響を受けやすかったのでしょう。
言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのだと思います。
わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。
「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放です。東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。
『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)
『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)に詳しく書きましたが、仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルなのです。キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立が最大の問題になっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。月の下では、あらゆる人間はみな死すべき存在として平等です。最後に、映画「ムーンライト」は「平等」と「平和」を求めてやまない人間の悲しさと美しさを描いた作品であると思います。
ブッダの誕生日にふさわしい映画を観ることができて良かったです。