19日に公開された映画「メッセージ」をレイトショーで観ました。 なかなか難解な内容で、映画館を訪れた多くの観客は戸惑っているように見えました。しかし、わたしは非常に重要な示唆を与えられました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「テッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』を基にしたSFドラマ。球体型宇宙船で地球に飛来した知的生命体との対話に挑む、女性言語学者の姿を見つめる。メガホンを取るのは、『ボーダーライン』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ。『ザ・マスター』などのエイミー・アダムス、『アベンジャーズ』シリーズなどのジェレミー・レナー、『ラストキング・オブ・スコットランド』などのフォレスト・ウィテカーらが結集する」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「巨大な球体型宇宙船が、突如地球に降り立つ。世界中が不安と混乱に包まれる中、言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)は宇宙船に乗ってきた者たちの言語を解読するよう軍から依頼される。彼らが使う文字を懸命に読み解いていくと、彼女は時間をさかのぼるような不思議な感覚に陥る。やがて言語をめぐるさまざまな謎が解け、彼らが地球を訪れた思いも寄らない理由と、人類に向けられたメッセージが判明し・・・・・・」

 まず、この映画の主人公を、わたしは愛娘を亡くした母親だとばかり思っていました。なにしろ、映画予告編の日本語ナレーションでも、しっかり「娘を失った言語学者ルイーズ」というフレーズが流れています。しかし、映画を最後まで観たわたしはその真相に驚きました。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、これまでに経験したことのない驚きでした。

 突然、地球上の12の地域の上空に出現した謎の飛行物体。そこには他の天体から飛行してきたと見られるエイリアンが乗っています。そのエイリアンの造形があまりにもクラシカルなのでちょっと引いてしまいましたが、彼らは「へプタポッド」と名づけられます。へプタポッドとのコミュニケーションを取ることが、言語学者であるルイーズに与えられたミッションでした。

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『科学者18人にお尋ねします 宇宙には、だれかいますか?』


 『科学者18人にお尋ねします 宇宙には、だれかいますか?』佐藤勝彦監修・縣秀彦編集(河出書房新社)という本があります。生物学、化学、物理学、生命科学、天文学・・・・・・各分野のトップランナーが集結。各人が最新成果をもとに、究極の謎に答えるというスリリングな内容の本です。
 各人宛の共通質問に「知的生命体が見つかりました。どういうアクションをしますか?」というものがあり、非常に興味深く読みました。

 高井研(海洋研究開発開発機構 深海・地殻内生物圏研究分野分野長)氏は、以下のように述べています。

「以前、異星人とのコンタクトは文化人類学的な側面をもつと、ある方に言われてまったくその通りだと思いました。生命の比較を通して我々が共通の生命を知ることができるのと同じで、地球外生命がいるなら、知性とは、文化活動とは、ということも知ることができる。そうすると、アストロバイオロジーの中に社会科学などの人文系の学問も必要になってくるでしょう。初めて出会う異邦人と、どう付き合っていくのか。我々がいま生きているこの世界についてのシステムを理解しようとする中に、地球外生命とのコンタクトは、学ぶところがあるということです。知性があるからと言って文化を持つとは限りません。そういう本質的なところが理解できるわけです」

 「異星人とのコンタクトは文化人類学的な側面をもつ」とは、まさにその通りだと思います。「メッセージ」にも、アボリジニに最初に遭遇した人類学者が「カンガルー」という言葉を知るというエピソードが登場します。

 また、成田憲保(東京大学/自然科学研究機構アストロバイオロジーセンター助教授)氏は、以下のように述べています。

「いきなり来られたり、行くのは危ないと思います。まずは意思の疎通ができるように準備することが必要。ですから電波放送や意図的な信号というのを見つけ、それをちゃんと解釈できるように、宇宙の言語を学問として発展させる必要があると思います。現在は宇宙生物学(アストロバイオロジー)ですが、仮に地球外知的生命の存在が一般化すれば、次に発展すべき学問は宇宙言語学ではないでしょうか。そういうコミュニケーションを取れる方法を編み出す、学問を発展させることをまじめにやらないと、まさにSFのような戦争になるかもしれません」

 さらに、縣秀彦(自然科学研究機構国立天文台准教授)氏は述べます。

「交信手段としては、ホログラフィでコミュニケーションをとると思います。Skypeのようなテレビ会議は今の知的レベルではすでに当たり前ですから、地球外知的生命体もきっと同様に使いこなしていることでしょう。地球人は文明を持って、たかだか4000~5000年。電磁波を使って通信ができるようになってまだ100年。宇宙においては幼稚園児か小学生レベルの新参者です。私は我々よりも圧倒的にレベルの高い生命が宇宙にいると期待しています。相手について言えば、地球でも人工知能がこれだけ進んで来ていますから、もしかしたら私たちがメッセージを送った先にいるのは生身の生き物ではなく、人工知能のような存在のみかもしれませんね。もしそうであっても、彼らを知的コミュニケーションができる他者として認めざるを得ないと思っています」

 これまで異星人と地球人の邂逅を描いたSF映画は多く、「宇宙戦争」(1953)、「2001年宇宙の旅」(1968)、「コンタクト」(1997)などの名作があります。そして、異星人とのコミュニケーションといえば、なんといってもスティーヴン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」(1977)を思い出します。世界各地で発生するUFO遭遇事件と、最後に果たされる人類と宇宙人のコンタクトを描いたSF映画史上に残る作品です。

 「未知との遭遇」の最後にUFOが行き着いたワイオミング州のデビルズ・タワーで、人類が異星人とのコミュニケーション手段として用いたのは音楽でした。しかし、「メッセージ」で、ルイーズがへプタポッドとのコミュニケーション手段に選んだのは音声言語ではなく、視覚言語でした。へプタポッドが送ってくる表義文字を彼女は必死で解読します。

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ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー著『最古の文字なのか?』


 このあたりの描写がとてもスリリングで、わたしは、ブログ『最古の文字なのか?』で紹介した本を連想しました。カナダ・ビクトリア大学人類学の博士課程在学中の研究者であるジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーが、氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解くという内容ですが、最高に知的好奇心を刺激される本です。謎の記号を解読するという点において、「メッセージ」のルイーズの姿に重なります。

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デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著『洞窟のなかの心』


 映画の中で、「古代、言語は芸術だった」というルイーズのセリフが登場。
 人類における芸術は、洞窟の中で生まれたとされています。ブログ『洞窟のなかの心』で紹介した本で、南アフリカのヨハネスバーグにあるウィトワーテルスラント大学のロック・アート研究所名誉教授デヴィッド・ルイス=ウィリアムズは、ラスコーやアルタミラなどの洞窟芸術について触れつつ、芸術という営みが数万年前に突如誕生したことに注目しています。ウィリアムズは、「芸術はなぜ必要だったのか?」「心のどのような機能が、表現にいたるのか?」「なぜ洞窟の中に誕生したのか?」といった問題を追求しました。彼によれば、現生人類の脳=心の構造、人類による社会の構成、シャーマニズムによる意識変容男状態の活用が、「芸術」誕生の鍵となるといいます。

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ロジャー・グレンジャー著『言語としての儀礼』


 そして、洞窟の中で生まれたものは他にもあります。儀礼です。
 「古代、言語は芸術だった」というルイーズのセリフにならえば、古代、儀礼は言語であり、かつ芸術でした。ブログ『言語としての儀礼』で紹介した本で、イギリス生まれの牧師、神学者であるロジャー・グレンジャーは、以下のように儀礼の本質について述べています。

「儀礼とは何だろう。それは、集合的な芸術という形を与えられた宗教的熱望である。神と人間のことを語る特殊な言語である。この目的をはたすために、生きた人々、その身体、心、想像力を駆使するがゆえに、それは人間のこと、すなわち、人間の性格、力、限界に関して極めて率直、的確に物語ることができる。(柳川啓一訳)」

 「メッセージ」で、ヘプタポッドとの交信を試みるルイーズの行為は、まさに儀礼そのものでした。もともと、未知の相手と交流する場合、そこには必ず儀礼が必要となります。原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合ったりしたのです。このような行為こそが儀礼の起源でした。

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エドマンド・リーチ『人類学再考』


 さて、「メッセージ」のメインテーマは「時間」だと思います。
 へプタポッドと交流したルイーズは時間の流れを逸脱する不思議な感覚にとらわれます。いわば、彼女は時間を超えるような存在となったのですが、「時間を超える」とはまさに儀式の最大の機能です。
 ブログ『人類学再考』で紹介した本で、イギリスの文化人類学者であるエドマンド・リーチは、「時計は別として、時間について現代イギリス人が懐く一般概念には、少なくとも、それぞれ論理的に異なり、矛盾しあいさえする二つの異なった種類の経験が含まれているようである」と述べています。
 第一に、それは繰り返しの概念であるといいます。リーチによれば、時間を計ろうと考える場合はいつでも、わたしたちは自分自身をある種のメトロノームに関係させている。つまり、その場合のメトロノームとは、時計の刻む音とか脈搏とか日とか月とか季節の移り変わりとかの循環であろうが、そこには常に繰り返す何かが存在しているのです。
 第二に、繰り返しはないという概念があるといいます。すべての生きとし生けるものは、生まれ、育ち老い、死ぬ。これは不可逆的、元に戻せぬ過程であるという意識が働いています。時間が持つその他すべての面、たとえば持続とか歴史的連続とかは、次の二つの基本的経験に由来するものにすぎないといいます。それは、
(1)自然現象は(自ら)繰り返すものだ
(2)人生の変化はもとに戻らない
ということです。リーチによれば、それぞれの宗教によって、死という「実在」を拒否しようとする思想の表わし方は非常に異なります。最もよく見られる説明は、単に死と誕生が同じものだと主張です。つまり、死が誕生に続くように、誕生は死に続くというのです。
 繰り返す出来事か、またはけっして繰り返さない出来事は、要するに論理的には同じことではありえないのです。わたしたちは、その2つの出来事を、時間という「1つのこと」の両面として取り扱います。それは、そうするのが合理的理由からではなく、宗教的偏見からです。
 リーチは、時間の観念は、神の観念と同じく、必要だと考えられているいくつかの認識上の分類の1つであると強調します。というのは、それがわたしたちの客観的な世界体験における経験できる何かであるからということよりも、わたしたちが社会的動物だからというのです。

 さらにリーチは、時間について次のように述べています。

「われわれの習慣的考え方からすれば、時間間隔はすべて、繰り返しによってはっきりと明確化される。時間間隔は、始まりと終りをもつが、双方とも「同じもの」である―たとえば、時計の刻む音、日の出、新月、元日、というように。しかし、各時間間隔は、同じく始まりと終りの繰り返しをもつ、より大きな時間間隔の一区分にしかすぎない。それだから、こうして考えてゆくと、「時間それ自身」(それが何であれ)が繰り返しているにちがいないと最後に想定しなければならない。経験的にはこれが本当のところであろう。人々は、窮極的にそれ自体が繰り返すものである何かとして時間を考える傾向を強くもっている。こうした傾向は、オーストラリア原住民や古代ギリシア民族や近代の数学的天文学者にも等しくみられる。私の考えでは、われわれがこのように考えるのは、それ以外の考え方ができないからなのではなくて、死の観念や宇宙の終末観念について熟考することを嫌忌するような心理学的(宗教的)傾向を、われわれがもっているからなのである。この議論は、未開人の儀礼や神話における時間に関する表象について考えるうえに光を投げかけるのに役立つものと私は考える。(青木保訳)」

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死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)


 時間をコントロールするのが儀式の機能の1つですが、それは映画というメディアの機能でもあります。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)のテーマは「映画で死を乗り越える」ですが、じつは、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思っています。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。その瞬間を「封印」するという意味です。しかし映画は「時間を生け捕りにする芸術」です。かけがえのない時間をそのまま「保存」します。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。その意味で、ルイーズが時間を超える(時間を漂う?)「メッセージ」は、とても映画の本質をとらえた作品だと思います。

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未来の著作をデジャ・ヴする


 直線的な時間の流から外れたルイーズは奇妙なデジャ・ヴを何度も体験します。じつは、この場面を観て思い出したことがありました。わたしは一昨年に『唯葬論』(三五館)、昨年に『儀式論』(弘文堂)を上梓しましたが、この2冊はわが代表作であると思っています。そして、この2冊は実際に書き上げるずっと前から、「すでにこの世に存在する本」のような気がしてならなかったのです。奇妙なことですが、わたしは10年以上前からこの2冊の内容を正確に「記憶」していました。『愛する人を亡くした人へ』(現代書林、2007年)、『葬式は必要!』(双葉新書、2010年)などは未来の『唯葬論』を主要参考文献として書いた本だと言ってもいいでしょう。
 「時間の不可逆性」という物理法則からすると荒唐無稽な話ですが、わたしの中では真実です。おそらく、このように時間を超えた感覚というのは、ミッションというものと密接に結びついているような気がします。

 最後に、異星人の訪問(襲来)を描いたSF映画は多いですが、たいていは外敵の存在によって人類は一枚岩となります。しかし、この「メッセージ」は違いました。へプタポッドの宇宙船が出現した世界12ヵ国は、逆にバラバラになったのです。なかなか地球訪問の真意の見えないへプタポッドに対して、中国は攻撃を仕掛け、ロシアやスーダンが追随するさまが描かれていました。わたしは、この場面を観て、へプタポッドの宇宙船の本質は人類の心を映す「鏡」であり、そこには地球の平和ではなく対立が映し出されたのだと思いました。そして、日本という国に住んでいるのが怖くなりました。
 いま、安倍晋三首相やトランプ米国大統領が、些細なスキャンダルで窮地に立たされています。しかし、安倍首相には憲法改正、トランプ大統領には北朝鮮首席斬首という大いなるミッションがあります。どうか、つまらないスキャンダルで両者のミッション遂行の足を引っ張ってほしくないものです。