No.0296


 日本映画「君の膵臓をたべたい」を観ました。 タイトルはとても刺激的ですが、けっしてカニバリズム(食人)の物語ではありません。ピュアな心の交流を描いた青春映画です。公開前から気になっていた作品ですが、「観て良かった」と思いました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

 「住野よるの小説を映画化。膵臓の病を患う高校生と同級生の"僕"の交流を、現在と過去の時間軸を交差させて描く。『エイプリルフールズ』などの浜辺美波と『あやしい彼女』などの北村匠海が主演を務め、現在の僕を小栗旬、ヒロインの親友を北川景子が演じる。監督は『黒崎くんの言いなりになんてならない』などの月川翔、脚本は『アオハライド』などの吉田智子が担当」

 ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「高校の同級生・山内桜良(浜辺美波)がひそかにつづる闘病日記『共病文庫』を偶然見つけた僕(北村匠海)は、彼女が膵臓の病気で余命わずかなことを知り、一緒に過ごすようになる。彼女の言葉をきっかけに母校の教師となった僕(小栗旬)は、桜良が亡くなってから12年後、教え子と会話をしていた際に、桜良と過ごした数か月を思い出す。一方、結婚を控えた桜良の親友・恭子(北川景子)も、桜良との日々を思い返し・・・・・・」

 この映画、とにかく、山内桜良を演じた浜辺美波がかわいい! これまで若手女優では、広瀬すずが一番かわいいと思っていましたが、これからは浜辺美波を推します。まるでアニメの声優のように透明感のある声もいいし、顔もキュートで、表情も豊かです。特に、笑顔が素晴らしい。 その笑顔の愛苦しさは、古手川祐子以来ではないでしょうか。実際、2人は母娘のように似ていると思います。

 「君の膵臓をたべたい」に出演している北川景子も今を時めく美女ですが、浜辺美波の輝きと比べると霞んでしまいます。 それほどかわいい浜辺美波ちゃんですが、まだ16歳だとか・・・。 2011年の第7回「東宝シンデレラオーディション」でニュージェネレーション賞を受賞し、芸能界入りしたそうですが、そのときはなんと10歳!
 こんな逸材を10歳のときに発見する東宝もすごいですね!

 「東宝シンデレラオーディション」といえば、1984年の第1回大会では沢口靖子が、2000年の第5回大会では長澤まさみが、それぞれグランプリを受賞しています。長澤まさみは今や日本映画界を代表する女優ですが、浜辺美波は彼女の若い頃にも雰囲気が似ています。特に、長澤まさみが17歳で「世界の中心で、愛をさけぶ」の主演を務めたときに似ています。

 「世界の中心で、愛をさけぶ」は、片山恭一原作の200万部突破の純愛小説を行定勲監督が映画化した作品です。「十数年前」「高校時代」「最後の目的地に行けなかった思い出」「恋人の死」「初恋の女性を失った青年が抱えてきた喪失感」・・・・・・2004年に公開された「世界の中心で、愛をさけぶ」と「君の膵臓をたべたい」の共通点は非常に多いです。

 おそらく、原作小説を書いた住野よる氏は大ベストセラーになった『世界の中心で、愛をさけぶ』を愛読しており、その影響を強く受けているはずです。
 また、東宝も、おそらくは自社のヒット作品である「世界の中心で、愛をさけぶ」を意識して、「君の膵臓をたべたい」を作ったのでしょう。 ギリシャ悲劇からシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』まで、人を感想させる文芸作品には「愛」と「死」が欠かせませんが、それを「セカチュー」と「キミスイ」の両作品はちゃんと併せ持っています。

 「セカチュー」で柴崎コウが演じた役割を「キミスイ」では北川景子が演じています。柴崎コウは亡くなった主人公・亜紀(長澤まさみ)を「お姉ちゃん」として慕う近所の女の子でしたが、北川景子は主人公・桜良の高校の同級生でした。今では30歳になった北川景子ですが、かつては「Dear Friends(ディア フレンズ)」(2007年)で女子高生役を演じています。病魔に侵され自ら命を絶とうとする女子高生と彼女と痛みを共有しようとする同級生の友情を描く青春ドラマで、ヒロインの同級生役は本仮屋ユイカでした。

 さて、「キミスイ」こと「君の膵臓をたべたい」は舞台が高校ですが、わたしは正直言って、「まさに自分向きの映画だ」と思いました。
 まず、この映画では図書室が重要な舞台となります。主人公の「僕」は人間嫌いの本の虫で、本の分類や整理に情熱を燃やします。わたしも本が好きなので、主人公には好感が持てました。その「僕」は、病院の待合室で『共病文庫』と書かれた文庫本スタイルの日記を見つけます。それは彼のクラスメイトである山内桜良が綴っていた秘密の日記帳であり、彼女の余命が膵臓の病気により、もう長くはないことが記されていました。

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死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)

 「僕」はその本の中身を興味本位で覗いたことにより、身内以外でただ1人の桜良の病気を知る人物となります。そして、「僕」は「山内桜良の死ぬ前にやりたいこと」に付き合うことになるのでした。
 拙著『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)の内容を連想しましたが、まだ高校生である桜良はスイーツのバイキングに行ったり、博多に一泊旅行したりするのでした。それに付き合う「僕」は、当然ながら桜良に振り回されますが、次第に2人は心を通わせるようになります。

 それにしても手書きの日記帳が登場する映画なんて久々です。 日記には、ブログなどには書けない心の秘密が記されます。
 桜良の死後、『共病文庫』をじっくり読んだ「僕」は、笑顔のまま別れた日の彼女がその日の日記に「あの後、泣いた」などと書かれた文章を発見するのですが、これはたまりませんね。わたしも貰い泣きしました。

 最後に、桜良は自分の名前の由来でもある桜が咲いている場所に行きたいと願うのですが、季節はすでに桜が散った後でした。でも、友人の協力を得て、「僕」は北海道なら6月でも桜が咲いている名所があることを知り、退院後の桜良と一緒にそこへ行く計画を立てます。しかし、2人はそこへ行けませんでした。「セカチュー」の2人も、「世界の中心」であるオーストラリアのエアーズロック(ウルル)に行き着けなかったことを思い出しました。

 桜良が北海道に行けなかった理由は、あまりにも悲惨です。 ネタバレになるので、その理由は伏せておきますが、人生何が起こるかわからないと改めて思いました。たとえば「余命1年」と宣告された場合、「1年は生きられる」と思いがちですが、じつはそんな保証はどこにもありません。また、どんなに健康で病気には縁のない人でも、翌日に交通事故で死亡するかもしれません。映画の中で不治の病のことを知られた桜良が「僕」に向かって、「病気だろうがなかろうが、1日の価値は誰でも同じなんだよ」と言うシーンがありますが、その通りです。わたしは、いつも「今日は、残りの人生の第一日目」と思って生きています。

 余命いくばくもない桜良が「満開の桜が見たい」と言った気持ちはわかる気がします。日本人は「限りある生命」のシンボルである桜を愛してきましたが、その美しさ、はかなさは限りなく「死」を連想させます。わたしも、散りゆく桜の花びらを眺めていると、死が怖くなくなっている自分に気づきます。桜良はきっと、満開の桜が散る姿を見ることによって「死の不安」を消したかったのではないでしょうか。

 この映画には、1冊の本が重要な役割を果たします。 ブログ『星の王子さま』で紹介したサン=テグジュペリの名作です。なにしろ、映画の冒頭のシーンから成人して教師になった「僕」が『星の王子さま』に出てくる「大切なものは目には見えない」という言葉を授業で紹介するのです。その後も、桜良が自分の愛読書である『星の王子さま』を「僕」に貸したり、自分の死後のメッセージを記した手紙を本の中に入れて図書室の書棚に隠したり・・・・・・多くの場面で『星の王子さま』が登場するのでした。

 しかし、「君の膵臓をたべたい」を貫くメインテーマは、『星の王子さま』の「大切なものは目には見えない」というよりも、同じサン=テグジュペリの『人間の土地』に出てくる「真の贅沢というものは、ただ1つしかない、それは人間関係の贅沢だ」のほうだと思いました。
 本の虫である「僕」は、他人との接触を極端に避ける少年でした。
 しかし、桜良と付き合う中で、彼は彼女と心を通わせながら成長していきます。そして、自分の欠けている部分を持っている彼女に対して憧れを持ち、ついには「人を認める人間に、人を愛する人間になること」を決意します。

 一方、桜良のほうも、「僕」には自分にない孤独に耐える強さがあることを発見し、憧れを持ちます。そして、恋人や友人を必要としない「僕」が初めて関わり合いを持ちたい人に選んでくれたことにより「初めて私自身として必要されている、初めて私が、たった1人の私であると思えた」と感じます。

 桜良によって「人間関係の贅沢」を知った「僕」ですが、冠婚葬祭が苦手のようで、桜良の葬儀にも参列しませんでした。結果、彼は深い悲しみを引きずることになりますが、やはり葬儀には参列すべきでした。
 拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書いたように、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことです。葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。
 その後、彼は焼香するために桜良の自宅を訪問します。本当は、連日多くの訪問者が焼香に来たら、遺族はたまりません。葬儀を行うとは、一回で「けじめ」をつけるという意味があることも忘れてはなりません。

 「僕」は、葬儀だけでなく、結婚式も苦手でした。
 高校時代の親友の結婚式に招待されるのですが、返事すら出しません。 その親友の結婚相手は、桜良の親友だった女性でした。生前の桜良は、自分の親友と「僕」とが友だちになってくれるのを望んでいたのですが、結婚式の当日に、「僕」はその親友の彼女に「僕と友だちになってくれませんか?」と頼むのでした。わたしはこの感動的なシーンを観ながら、「やはり、自分の口で言うのは素敵だな」と思いました。
 フェイスブックには「友だち申請」という馬鹿げたものがあるそうですが、そんなものをSNSで依頼するなど愚の骨頂です。

 本当の「友だち」とは、相手の結婚式や葬儀に参列する人ではないでしょうか。その意味で、桜良によって「人間関係の贅沢」を知った「僕」は、本ばかり読んでいないで、もっと周囲の人の冠婚葬祭に出るべきです。
 そう、「冠婚葬祭」とは「人間関係の贅沢」の別名なのです。
 最後に、成人した「僕」を演じたのは小栗旬ですが、最近の「銀魂」などのパワフルな役とは正反対の物静かな人物を演じていました。まったく小栗旬らしさを感じさせないというか、彼自身の存在感を消しています。こんな演技ができることも、きっと彼が名優である証なのでしょう。