No.0304


 リドリー・スコット監督のSF映画「エイリアン:コヴェナント」を観ました。
 同じくスコット監督の「プロメテウス」(2012年)の後日譚であると同時に、やはりスコット監督の「エイリアン」(1979年)の前日譚でもあります。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「巨匠リドリー・スコット監督がメガホンを取った『エイリアン』シリーズの原点となるSFホラー。移住のため宇宙船コヴェナント号で旅立ったクルーたちが、ある惑星で遭遇した出来事を描写する。アンドロイドを『スティーブ・ジョブズ』などのマイケル・ファスベンダーが演じ、ヒロインを『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』などのキャサリン・ウォーターストンが熱演。スコット監督が構築した世界観と衝撃の展開に絶句する」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「宇宙移住計画を遂行するため、コールドスリープ中の男女2000人を乗せた宇宙船コヴェナント号は、植民地の惑星に向かって宇宙を航行する。最新型アンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)が船の管理を任されていたが、途中で事故が発生。乗組員たちは必死で修復作業に取り組み・・・・・・」

 この映画、じつはそれほど興味はなかったのですが、「週刊文春」10月12月号でコラムニストの小石輝氏が絶賛していたので、「それほどの名作なら、観てみようか」と思いました。「サブカルの狙撃手」との異名を持つ小石氏は「大傑作や!」と感嘆し、以下のように述べています。

「『エイリアン:コヴェナント』は『エイリアンはどのようにして誕生したのか』という謎を解き明かす作品であると同時に、2012年公開の『プロメテウス』の続編でもある。この2作でリドリー・スコット監督は『誰が人類を創造したのか』『創造主と「創造された者」の関係とは何か』という宗教的・哲学的な問いかけをしている」

 この宗教的・哲学的な問いかけは映画の開始早々に展開されるのですが、じつは「プロメテウス」の世界観や登場人物を引き継いでいるため、「プロメテウス」をきちんと観ておかないと、わかりにくいです。わたしも「プロメテウス」は一応観た記憶はあるのですが、内容をほとんど憶えておらず、映画の全篇にわたってチンプンカンプンでした。そのせいと、ストーリーの中だるみもあって、途中でずいぶん寝てしまいました。「プロメテウス」はあまり評価の高い作品ではありませんでしたが、もっと「エイリアン:コヴェナント」だけを観て理解できる映画にしてほしかったです。

 ただ、この映画には宗教的・哲学的な問いかけがあることは事実です。その意味では、SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」を連想しました。
 リドリー・スコット監督はもうすぐ80歳になるそうですが、「人類が進化という生物学的偶然で生まれたはずがない」「宇宙のどこかに人類の創造主が必ずいる」と本気で信じていることを自身のインタビューで明かしています。

 宇宙と人類との関係ということでは、わたしは『唯葬論』(三五館)の「宇宙論」において、人類の生命が宇宙から来たという仮説を紹介しました。DNAの二重螺旋構造を提唱してノーベル賞受賞者となった分子生物学者のフランシス・クリックが「生命の起源と自然」を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を認めました。その後、イギリスの天文学者フレッド・ホイルと、星間物質を専門とするスリランカ出身の天文学者チャンドラ・ウィックラマシンジは「パンスペルミア説」を提唱しました。
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   『唯葬論』(三五館)


 「パンスペルミア説」とは、生命は宇宙に広く多く存在しており、地球の生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものであるという説です。ホイルとウィックラマシンジは、生命の種子が彗星によってもたらされたと主張したのです。その後、クリックはさらに、高度に進化した宇宙生物が生命の種子を地球に送り込んだとする「意図的パンスペルミア説」を提唱しました。
 地球が誕生する以前の知的生命体が、意図的に"種まき"をしたというSFそのもののような仮説です。

 「パンスペルミア説」が正しいにせよ、SFのような「意図的パンスペルミア説」が正しいにせよ、わたしたち人間の肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。これは、もう間違いないでしょう。その材料の供給源は地球だけではありません。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じてわたしたちの肉体に入り込み、わたしたちは「いのち」を営んでいます。

「いのち」といえば、この映画館でも紹介した映画「ライフ」は、明らかに「エイリアン」シリーズを意識していました。ダニエル・エスピノーサがメガホンを取ったSFスリラーです。国際宇宙ステーションを舞台に、火星で発見された生命体の脅威にさらされた宇宙飛行士たちの運命を追う物語ですが、逃げ場のない宇宙船内で未知の生物と戦う姿は、「エイリアン:コヴェナント」と見分けがつかないくらい似ていました。まあ、「ライフ」にはアンドロイドが登場しませんでしたが・・・・・・。

 さて、「生命」とはいったい何でしょうか?
 一般的に広く認められている「生命の定義」は以下の3つです。


 1.外界と自己を隔てる膜を有している
 2.自己と遺伝的に類似した子孫を残せる(=自己複製能力を有する)
 3.代謝による生命維持機能を有する


 以上の3点は、ほぼ異論なく認められる定義です。
 「ライフ」と同様に、「エイリアン:コヴェナント」を観ていると、「生命とは何か」について考えざるをえません。

 「エイリアン:コヴェナント」にはデヴィッドという名の人工知能が登場します。つまりはアンドロイドですが、穏やかな表情で悪魔のような所業に熱中するところは怖ろしさを感じます。アンドロイドである以上、人間のモラルからはかけ離れたところにいるのでしょうが、それにしても人間が実験動物を見るような目で、デヴィッドは人間を見ています。
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   『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)


 先の小石氏は「スコット監督は、創造主のように生命をもてあそぶ不死の存在デヴィッドに感情移入することで、自らの死の恐怖を乗り越えようとしているのかもしれないとさえ思える」と述べています。ということは、この作品は、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で提示した「死を乗り越える映画」の1つなのかもしれませんね。吸血鬼やゾンビやミイラや人造人間といったモンスターたちと並んで、アンドロイドも「不死」の存在ですから。

 わたしにとってのSF映画とは、単なるエンターテインメントというよりも、物事の本質を考える見方を与えてくれる「哲学映画」としての要素が強いと言えます。わたしがSF映画を観て考えるテーマには、「人間とは何か」というものがあるのですが、これは「人間そのもの」を扱った映画というよりも、「人間以上」あるいは「人間以下」の異形の存在を扱った映画のほうが、より「人間」の本質を浮き彫りにできるような気がします。

 アンドロイドといえば、リドリー・スコット監督の代表作で、SF映画史上に残る名作「ブレードランナー」が有名です。なにしろ、「ブレードランナー」の原作は、SF小説の巨匠であるフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』でした。それを映画化した伝説の名作「ブレードランナー」も、新作「ブレードランナー2049」としてアップデートされました。

 前作の主人公を演じたハリソン・フォードが再び出演し、ライアン・ゴズリングが新人のブレードランナーを演じます。監督はブログ「メッセージ」で紹介した映画でメガホンを取ったドゥニ・ヴィルヌーヴです。「ブレードランナー2049」は、10月27日に公開されます。楽しみです!

 さて、「エイリアン:コヴェナント」で観客に恐怖を与えるのはアンドロイドだけではありません。主役であるエイリアンも暴れまくります。
 かのH・R・ギーガーがデザインしたその造形はやはり素晴らしく、グロテスクではありながら、奇妙な美しさも感じさせます。「エイリアン」シリーズは1979年の衝撃の第1作以来、多くの観客を宇宙的恐怖に陥れてきました。未知の宇宙生物は不可解にして恐怖です。

 「エイリアン:コヴェナント」は2104年の物語です。
 「プロメテウス」の11年後、「エイリアン」の20年前です。「プロメテウス」を含めた一連のシリーズを年表にすると、以下のようになります。
もうちょっと年表を見てみましょう。


 「プロメテウス」2089年
 「エイリアン」 2124年
 「エイリアン2」2181年
 「エイリアン3」2270年
 「エイリアン4」2470年

 こうやってシリーズを俯瞰すると、エイリアンをめぐる神話が形成されている感があります。「映画は神話の代用品である」とはわが持論であり、神話なき国アメリカで最も映画産業が発展した秘密はここにあります。
 特に、SF映画は神話的要素が強いと言えるでしょう。
 SF映画といえば、「エイリアン:コヴェナント」が上映される前、スクリーンには「猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)」の予告編が流れました。

 「エイリアン」にしろ、「猿の惑星」にしろ、「スターウォーズ」にしろ、アメリカにおけるSF映画は壮大な神話と化していきます。
 「バッドマン」シリーズに代表されるアメコミのヒーロー映画も神話化しています。そして、「ジャスティス・リーグ」とか「アヴェンジャーズ」といったヒーロー総登場映画とは、神話の再編集であり総集編です。改めて、「映画はアメリカの神話である」という事実を再確認した次第です。