No.0315


 日本映画「嘘八百」を観ました。
 大阪・堺。空振りばかりの「目利き古物商」と落ちぶれた「腕利き陶芸家」が、タッグを組んで利休の茶器の贋物で大金ゲットを狙う物語です。

 ヤフー映画解説には、以下のように書かれています。

「『百円の恋』の武正晴監督と脚本家の足立紳が再び組み、商人の街堺を舞台に描くコメディードラマ。うだつの上がらない古物商と陶芸家を中心に、"幻の利休の茶器"をめぐるだまし合いのバトルをユーモアたっぷりに描き出す。『花戦さ』でも共演している、中井貴一と佐々木蔵之介が出演。海千山千の人々が繰り広げる、だましだまされの応酬に笑みがこぼれる」

 また、ヤフー映画あらすじには、以下のように書かれています。

「鑑識眼はあるが、なかなかお宝に出会えない古物商の則夫(中井貴一)は、娘のいまり(森川葵)を車に乗せて千利休の出生地である大阪府堺市にやってくる。彼はある蔵つきの屋敷へと導かれ、その家の主人らしい佐輔(佐々木蔵之介)と出会う。佐輔は則夫に蔵を見せることにし......」

 中井貴一と佐々木蔵之介という名優同士の絡みは良かったです。イカサマ映画の名作「スティング」を彷彿とさせて、痛快でした。特に、佐々木蔵之介が演じる佐輔が陶器作りに情熱を傾けるシーンが興味深かったです。
 陶芸は「空気」と「土」と「火」と「水」の芸術です。この4つは古代ギリシアで四大元素と呼ばれ、世界を成り立たせているものとされました。すると、土を水でこねて、空気と調節しながら火で焼き上げる陶芸という行為は、天地創造を再現していることになります。焼き物作りに熱中している佐輔の顔は、なんだか神々しく見えました。

 ただ、中居貴一演じる則夫の娘・いまりと、佐輔の息子・前野朋哉との絡みはあまり面白くありませんでした。初めて知らない他人の家に行って、いきなりコタツに入って、一緒にすき焼きを食べたり、そこで愛の告白をしたりと、ドタバタすぎてリアリティがまったくなく、白けてしまいました。
 あと、ネタバレにならないように書くと、いまり&朋哉の2人が最後に大それたことをするのですが、正直言ってすべっていました。この映画、せっかくテンポが良いのに、ラストシーンがもたついて残念でしたね。

 他にも「よくぞ、これだけクセのある役者を揃えたな」というぐらい個性派俳優たちが腋を固めていました。失礼ながら、坂田利夫、木下ほうかなどは「本物の詐欺師か」と思えるような風貌と立ち居振る舞いで、迫力満点。
 それにしても、「骨董の世界は怖い」と思いました。じつは、父がかなりの数の骨董品を所蔵しているのですが、「親父は大丈夫かな?変なものをつかまされていないかな?」と本気で心配になってきました。わたしがそれらの品々を譲り受けるのなら、本格的に骨董の勉強をする必要がありますね。

 この映画は、骨董の贋作作りをテーマとしています。
 かの千利休が最期に作った器の贋作を作るのです。名だたる目利きたちが、まんまと騙されてしまいます。
 この映画を観ながら、連想したのは「永仁の壺事件」です。1959年、永仁2年(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されましたが、贋作ではないかと問題になりました。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されました。重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなったのですが、件の瓶子は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着。しかし、事件の真相についてはなお謎の部分が残されています。

 作家の山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤の名声はかえって高くなった」と書いています。実際、古い時代の優れた焼き物のコピーを作ることは「写し」といって悪いことでも何でもありません。名品を手本として、その作り方(技法)や、釉の再現、窯の焚き方などを、真似ることによって、その優れた作品に少しでも近づけるようにと苦心して作った作品も多いのです。その作品が手本に近づけば近づくほど、当然ながら手本と似てきて、オリジナルとの区別がつかなくなります。

 作家には偽物を作って一儲けする気などなくても、後の世には「偽物」と言われることもあるでしょう。このようなコピーも多く、骨董の世界では「倣製」と呼んで、贋作とは区別しているそうです。「永仁の壺」の場合も、贋作というよりも倣製ではなかったかと思いますが、この事件によって、加藤唐九郎は「人間国宝」の資格を失いました。でも、その後もたくさん名作を生み出し、戦後の陶芸界を代表する巨匠となったことは有名です。



20180107193754.jpg    加藤唐九郎の大陶壁「万朶」(松柏園ホテル


 わたしが経営する松柏園ホテルのロビーには加藤唐九郎の大陶壁「万朶」があります。これは陶壁としては唐九郎の遺作になるそうです。Wikipedia「加藤唐九郎」の「代表的作品」の最後には、「陶壁『万朶』松柏園ホテル(昭和55年)」としっかり記されています。もちろん、これは贋作でも模倣製でもありません。正真正銘の本物です。「松柏園のお宝」として多くのお客様に愛されています。松柏園といえば、わたしがこの映画を鑑賞した「シネプレックス小倉」では上映前に新館「ヴィラルーチェ)」のCMが流れました。松柏園ホテルは、まさに「温故知新」です!

 まあ、「嘘八百」は贋作をテーマとした物語はエンターテインメントとしては面白いですが、陶芸の本質からは大きく離れていると思います。わたしは、人間国宝の十四代今泉今右衛門さんと親しくさせていただいていますし、自分でも何度か陶芸にチャレンジしたことがあります。陶芸は「空気」と「土」と「火」と「水」の芸術だと述べましたが、土を両手でこねていると、何とも言えず心が安らぎます。その理由は、人間も含めてすべての生物は土と水の中から生まれてきたからかもしれません。空気と火は「炎」となり、土に生命を吹き込み、焼かれた物は一つの生き物のように自己を主張します。

 作陶は全神経を集中させなければなりません。
 それによってさまざまな悩みや不安は土と炎の中に消えていって、「無心」「無我」の境地に入ることができるのです。「陶を知る者は政を知る」という中国の古い言葉があります。陶芸は端的にその時代の政治、経済、学問、芸術と文化のすべてをあらわす時代精神そのものの象徴でもあるのです。利休に切腹を命じた秀吉は、「陶」と「政」を知る者だったのでしょうか。