No.0323


 公開されたばかりの映画「グレイテスト・ショーマン」をレイトショーで観ました。「映画史上最高にロマンティックな感動ミュージカル・エンタテイメント」が謳い文句ですが、わたしは公開されるのをずっと楽しみにしていました。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「19世紀に活躍した伝説のエンターテイナー、P・T・バーナムを『X-MEN』シリーズや『レ・ミゼラブル』などのヒュー・ジャックマンが演じるミュージカル。空想家の主人公が卓越したアイデアと野心で世界中を熱狂させるさまと、ロマンチックな愛の物語が描かれる。監督はマイケル・グレイシー。ミシェル・ウィリアムズやザック・エフロンらが共演。『ラ・ラ・ランド』で第89回アカデミー賞歌曲賞を受賞した、ベンジ・パセックとジャスティン・ポールが音楽を担当している」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「P・T・バーナム(ヒュー・ジャックマン)は妻(ミシェル・ウィリアムズ)と娘たちを幸せにすることを願い、これまでにないゴージャスなショーを作ろうと考える。イギリスから奇跡の声を持つオペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)を連れてアメリカに戻った彼は、各地でショーを開催し、大成功を収めるが......」

「グレイテスト・ショーマン」は冒頭から歌が流れます。映画の冒頭ではなく、ワーナー・ブラザーズのオープニング・ロゴから流れるのです。映画という儀式にとって「降神の儀」にもあたるオープニング・ロゴで、これから始まる映画の音楽が流れるのを初めて経験しました。それほど、ワーナー・ブラザーズにとっても会社を挙げて大ヒットさせたい作品なのでしょう。

 映画の中で流される数々のナンバーも力強く、素晴らしかったです。「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」に代表されるように、ミュージカル(映画)は社会的弱者にスポットを当てたものが多いですが、「グレイテスト・ショーマン」には社会的弱者、すなわち、マイノリティが大量に登場します。1人だけなら悲劇の様相が濃くなったかもしれませんが、これだけ多く出てくると暗くはありません。人種、性別、体型、その他もろもろの差異をすべて取っ払って、あらゆる人々が舞台に上がった光景は、この映画にも登場した「人類の祝祭」という言葉がふさわしいでしょう。

 しかし、正直な感想を言うと、この映画には物足りなさも感じました。というのも、上映時間が短いこともありますが、わたしが最も知りたかった「グレイテスト・ショーマン」ことフィニアス・テイラー・バーナム(Phiness Taylor Barnum、1810年―1891年)の生涯が断片的にしか描かれていなかったからです。わたしは、この人物に並々ならぬ関心を抱いてきたので、歌や踊りのシーンもいいのですが、もっとバーナムの人生における光と闇を詳しく描いてほしかったです。全体的に「軽い」、そして「浅い」印象でした。

 P・T・バーナムは、アメリカ合衆国の興行師です。その愉快な「ホラ話」と、サーカス(後のリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス)を設立したこととで有名です。

 Wikipedia「P・T・バーナム」の「生涯」には、こう書かれています。

「P・T・バーナムは、コネチカット州ベサルで生まれた。彼の父は、宿屋兼商店の主人だった。バーナムは、商店主として出発したが、当時アメリカで猖獗を極めていた宝くじブームに浮かれ、事業に失敗する。その後、彼は1829年にダンバリィにおいて週間新聞『ザ・ヘラルド・オブ・フリーダム』を創刊した。この新聞での数件の名誉毀損訴訟及び一件の訴追を受けた結果、彼は収監されることとなった」

 続けて、ウィキぺディアには以下のように書かれています。

「その後1834年にニューヨーク市に移り住み、1835年に、ジョージ・ワシントンの元乳母で160歳を超えているとの評判があった黒人奴隷の女性、ジョイス・ヘス(Joice Heth)を買い取って見世物にすることで、興行師としての人生を始めた。この女性自身の存在とちょっとした付け足しをもとに、P・T・バーナムは、非常に巧妙な宣伝を行って、1836年のジョイス・ヘスの死亡(その際、彼女の年齢は70歳を超えないことが判った)後の1839年までアメリカにおける巡業を成功させた」

 続けて、ウィキぺディアには以下のように書かれています。

「その後一時期不振だったが、1841年に、ニューヨーク市にあった『スカダーのアメリカ博物館』を買い取り、これに相当の補強をして『バーナムのアメリカ博物館』(Barnum's American Museum)と名付け、ここを拠点に国内で最も人気がある興行の1つにした」

 また、ウィキぺディアには以下のようにも書かれています。

「1842年には、『親指トム将軍』("General Tom Thumb")として有名な矮人・チャールズ・ストラットンの見世物で大当たりをとった。インディアンのダンス団『フー・フム・ミー』を作って彼らに伝統的なダンスを踊らせ、これも評判となった。1844年から45年にかけて、バーナムは、『親指トム将軍』を連れてヨーロッパ巡業を行ない、ヴィクトリア女王にも面会した」

 また、ウィキぺディアには以下のようにも書かれています。

「彼が立てた注目すべき企画の一例としては、スウェーデンの女性歌手・ジェニー・リンドと、米国において一晩1000ドルで150公演行う(費用は全額興行主もち)と云う契約をしたことがあげられる。この巡業は1850年に始まった。バーナムは、1855年にいったん興行界から引退したが、債権支払いを迫られたため、1857年に興行師・展示館経営者としての以前の人生を再開した」

 さらには、ウィキぺディアには以下のようにも書かれています。

「1871年には、彼はニューヨーク市ブルックリンの『バーナムのアメリカ博物館』で、サーカス・動物園・フリークス・蝋人形展示をない交ぜにしたものを巡業させる『地上最大のショウ』を設立した。1872年、サーカス業界初の興業列車を立ち上げる。サーカス団の規模拡大に伴い、馬車での移動では全米中の興行が困難となり、その解決策として発案。以来このサーカス列車は、他のサーカス団でも採用された」

 そして、ウィキぺディアには以下のように書かれているのでした。

「1881年、彼は、ジェームズ・ベイリーが経営していた『クーパー・アンド・ベイリー・サーカス』と合併して、『バーナム・アンド・ベイリー・サーカス』とし、世界中を巡業した。このサーカスの一番の呼び物は、バーナムがロンドン動物園から買い取ったアフリカ象のジャンボだった。P・T・バーナムの死後、1909年(あるいは、1907年?)に、彼のサーカスはリングリング兄弟(Ringling Brothers)に売却され、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスとなった」

 リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスといえば、1952年のアメリカ映画「地上最大のショウ」(The Greatest Show on Earth)で有名です。映画の舞台は同サーカスで、主人公はその中央リングで競い合うあう3人の男女です。空中ブランコ乗りのホリーと、ザ・グレート・セバスチャン、そしてショウの公演監督でもあるサーカス経営者のブラッド・ブレイデンですが、彼らは恋のさや当てをする「三角関係」でもあります。この「地上最大のショウ」のヒットで、同サーカスの人気はますます高まりました。


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   『遊びの神話』(東急エージェンシー)


 わたしは、1989年5月に刊行された『遊びの神話』(東急エージェンシー)の中で、「リングリング・サーカスについて」という一文を書きました。当時、同サーカスは、ケネス・フェルドのプロデュースによって、個人所有としては世界最大の列車を2組運行させてアメリカ中を興行していました。250人の団員達と動物何十頭とが機材と共に、年間1万2000マイルの旅を続けていたのです。当時は毎年88都市を訪れ、観客数は1100万人を超えていました。国外で公演したことは一度もなく、「昭和」の最後の年となった昭和64年(1989年)に海外初公演として日本にやって来たのです。


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   『遊びの神話』(PHP文庫)


 わたしは本当に楽しみにしており、初日のチケットを購入して、当日も早めに会場へ出かけました。会場の汐留駅跡には「ザ・ビッグ・トップ」という世界最大のテントが張られました。ビッグ・トップの中央には3つのリングが設置され、そこで様々なパフォーマンスが展開されました。ゴージャスな衣裳を着たエンターテイナーたちが繰り広げるトリプル・ショー。スーパー・チャージ・オートバイによる死の球舞台、空中ブランコ、空中デュエット、綱渡り、ティーターボード曲芸、そして象やライオンのショー......。極めつけは、伝説の一角獣ユニコーンの登場でした。すさまじいファンファーレとともに黄金の台に乗ったユニコーンが現れました。「何だ、角が1本しかないヤギじゃないか」と思ってはシラけてしまいます。わたしは「これは、ユニコーン。1本の角が太陽に輝き、雪のように白いたてがみが風になびく麗わしの生物。そう思って自らを盛り上げないと、入場料がもったいない!」と思ったものです。はい。

 リングリング・サーカスの最大の見せ場、16頭の象が音楽に合わせて踊りながら繰り広げるパレードは大人も子供も大喜びで、象たちが2本足で立つところでは興奮はピークに達しました。象が立ってうれしいのは人間のように見えるからであり、自然を征服したという満足感を味わえるからでしょう。猿まわしにしろ、犬のチンチンにしろ、すべて動物に芸を教え込むという行為は、自然界に対して人間の力というものを示すデモンストレーションです。もしかすると、サーカスとは人類そのもののコーポレート・アイデンティティ(CI)かもしれないと思いました。

 リングリング・サーカスを観たとき、わたしは「人類そのもののコーポレート・アイデンティティ(CI)」と思いましたが、映画「グレイテスト・ショーマン」では「人類の祝祭」という言葉が使われました。その背景には、「サイド・ショー」と呼ばれたフリークスの見世物の存在があります。これは長らく触れることを避けられてきましたが、サーカスがフリークスを珍しい動物などと一緒に見世物として客を集めてきたことは紛れもない事実であり、サーカスについて語るのにオミットするわけにはいかない問題です。

 人間に必ず訪れる死を忌み嫌うものとしてはならないのと同じで、この世に存在するあらゆるものは正当化されなければなりません。1930年のトッド・ブラウニングの映画「フリークス」や、1973年に書かれたフレデリック・ドリマーの『ベリー・スペシャル・ピープル』そして、バーナード・ポメランスがブロードウェイでヒットさせ、デビット・リンチが映画化した「エレファントマン」などがタブーに挑戦しました。彼らは、フリークスを神から印をつけられたエリート「神の子ら」と呼んだのでした。

 後にリングリング・ブラザーズと合体したバーナム・アンド・ベイリーサーカスを率いたP・T・バーナムは、はじめアクロバットよりもサイド・ショーに力を入れ、親指トム、シャム双生児をはじめ、インチキのニセ・フリークも含めて、世界中のあらゆるものを集めてきて大当たりを取ったのです。特に人気があったのが1842年にニューヨークに初登場した親指トムでした。映画でもそのシーンが出てきましたが、1844年には彼はバーナムと一緒にロンドンへ行き、ビクトリア王女に会いました。大変なアイドルだったのです。身長が3フィート4インチだったというから、ちょうど1メートルぐらいですね。


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   わが書斎のサーカス関連書コーナー


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   『魅せられし空間』海野弘著(PARCO出版)


 評論家の海野弘氏は、フリークスの見世物について、著書『魅せられし空間』(PARCO出版)の中で次のように述べています。「アクロバットという身体による芸は、決して芸だけを純粋に見せるのではなく、身体そのものを見せるものである。もし身体が驚異を含んでいるなら、それだけで観客を呼ぶスペクタクルになる。普通の人間よりずっと大きいこと、またはずっと小さいことは、スペクタクルだ」

 ここで、わたしがが思い出すのは反戦映画の名作「ジョニーは戦場へ行った」(1971年の)のワン・シーンです。戦争で両手両足を失くし、見ることも聞くことも喋ることもできなくなったジョニーは、サーカスの見世物になって各地を回りたいと乞います。しかし、医者たちはこれを無視します。わたしは小学生の頃、はじめてこの映画を観たとき、「自ら、見世物になりたいなんて、なんと哀しいことを言うんだろう」と思い、医者はヒューマニズムから、そんなことをやらせなかったのだろうと考えましたが、今では違います。

 見世物になるとは、すなわち栄光なのです。見世物になるということは、その瞬間、世界の中心となることです。日本を含めて、見世物や芸能の歴史は被差別の歴史でもありましたが、芸人や道化が主役となるもう1つの世界史が存在します。そして、自らの身体に驚異を持っているベリー・スペシャル・ピープルは、もう1つの歴史においての輝かしい王たちなのです。サーカスとは、その王たちが住む場所でした。今日では、サイド・ショーは姿を消しつつあります。不思議な身体を見せる商売は、人間を差別し、卑しめるものだとする意見が強くなってきたからです。しかし、見世物を禁止することは、決して人間の差別をなくすことにはなりません。それをただ目に触れないところに移すだけなのです。

 最近、能楽師の安田登氏が書かれた『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)を読んだのですが、「見られ、見られる」受動的な芸能を、観阿弥・世阿弥が能動的なものへと逆転させたというくだりが興味深かったです。安田氏は、引きこもりの人々とプレゼンテーションのワークショップをしたときに、この「逆転」を実感したといいます。引きこもりの人は、人前で話すのはもちろんのこと、人前に立つだけでも緊張してしまいます。人に「見られる」のがとても苦手なのです。中には、外を歩くと人に見られている気がする、といって、一歩も外に出ることができない人もいたそうです。

 人に「見られる」ことについて、安田氏は以下のように述べています。「プレゼンは当然、人前でしなければならない。むろん『見られ』ます。見られたときに、人は客体になってしまいます。実存心理学者のロロ・メイは、人は主体的な存在なので、客体になると『恥』を感じると言いました。では、この『見られる』という受け身を主体に変えるにはどうしたらいいか。舞台でも同じことです。答えはシンプルでした。自ら『見せる』というスタンスに立ってしまえば、主体に変われるのです」

 もちろん、引きこもりの人々に「見せる」というスタンスに立ってもらうには、いろいろな手順が必要です。しかし、安田氏は以下のように述べます。

「演者が『見せる』というスタンスに立った途端に、観客は『見せられている人』となり、今度は受け身になる。この『見られる』存在から『見せる』存在への変換――世阿弥はこれをさまざまな手法を講じて成していきます。身分制社会の中で、優美にこれを成し遂げた。これを私はフィッツジェラルドの言葉を借りて『優雅な復讐』と呼んでいます」

 この「優雅な復讐」という言葉ほど、自らの身体を「見せる」存在であったベリー・スペシャル・ピープルにふさわしい言葉はありません。 日本の能を大成した観阿弥・世阿弥と同じく、アメリカのP・T・バーナムもまた、「見られる」存在から「見せる」存在へと変換する天才でした。それは「賤」から「聖」への変換でもありました。彼はまさに、グレイテスト・ショーマンだったのです。闇の世界に生きていたベリー・スペシャル・ピープルたちに光を当てた彼の人生を描いた「グレイテスト・ショーマン」は観る者に生きる勇気を与える映画だと言えるでしょう。