No.368


 日本映画「ハナレイ・ベイ」を観ました。この作品の内容がグリーフケアに関連すると知り、「これは観なければ!」と思ったのです。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「作家・村上春樹の短編集『東京奇譚集』に収められた一編を映画化。ハワイのハナレイ・ベイで息子を亡くしたシングルマザーが、一筋の希望を見いだす。主人公に『ラブ×ドック』などの吉田羊がふんするほか、GENERATIONS from EXILE TRIBEの佐野玲於、『武曲 MUKOKU』などの村上虹郎、モデルとしても活動している栗原類らが共演。『トイレのピエタ』などの松永大司がメガホンを取った」

 ヤフー映画の「あらすじ」には、こう書かれています。 「シングルマザーのサチ(吉田羊)は、一人息子のタカシ(佐野玲於)がハワイ・カウアイ島のハナレイ・ベイでサーフィン中の事故でこの世を去ったことを知る。現地で息子と対面したサチは遺骨を手に日本に帰る前に、息子が亡くなった浜へ向かう。それから10年間、毎年息子の命日の時期にハナレイ・ベイに来るサチは、片脚の日本人サーファーのうわさを聞く」

 監督の松永大司には「トイレのピエタ」(2015年)という作品があります。手塚治虫の病床日記に着想を得たオリジナルストーリーに、RADWIMPSの野田洋次郎が余命3か月の若者役で主演を務めた恋愛ドラマです。忍び寄る死に恐怖を募らせる主人公が、杉﨑花が演じる純粋な女子高生と出会い、生きる喜びを見つけだす姿を描きました。「ハナレイ・ベイ」で主演の母親役を演じた吉田羊 は「もともと村上作品が好きだったので、二つ返事でオファーを受けました」とコメントしましたが、「私は松永監督の『トイレのピエタ』を拝見して『いつかこの監督に呼ばれたい』と思ったんですけど、こんなに早く願いが叶うとは」とも感慨深そうに語っています。サーファー役を演じた村上虹郎も「トイレのピエタ」が好きであることを明かし「原作を読む前に、松永さんが監督されると聞いただけで出演を決めました」と述懐しています。

「ハナレイ・ベイ」は『東京奇譚集』に収められた村上春樹氏の短編小説です。文庫本で40ページほどしかありません。わたしも10年以上前に読んだ記憶がありますが、自宅の書庫を探したのですが見当たりませんでした。村上作品をわりと読む次女が東京に持っていったのかもしれません。それで、映画館と同じ商業施設に入っている書店でもう1冊買いました。改めて読み直してみると、なんとも不思議な味わいの小説だと思いました。
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唯葬論』(サンガ文庫)


 大きな鮫に片脚を食いちぎられて死んだ息子と思しき日本人サーファーのくだりは、幽霊が登場する怪談の香りがします。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「怪談論」において、わたしは、怪談の本質とは「慰霊と鎮魂の文学」であると述べました。村上春樹氏といえば、ノーベル文学賞に一番近い日本人作家とされていますが、じつは彼の小説のほとんどは基本的に怪談であると言われています。

 思想家の内田樹氏は、一条真也の読書館『もういちど村上春樹にご用心』で紹介した著書において、一条真也の読書館『1Q84』で紹介した大ベストセラーをはじめとした村上作品が世界中の読者に読まれていることについて、村上作品が決して「前衛的」でも「反文学」でもなく、ほとんど古典的な「世界文学」の系統に位置づけられると指摘した上で、次のように述べている。
「村上作品は、あらゆる文化圏の人々の琴線に触れる『原型的な物語』を語っています。初期の『羊をめぐる冒険』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『アフターダーク』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』を経て『1Q84』まで、変わることなく、ひとつのプリミティヴな物語の構造が反復されていると僕は思っています」

 その「プリミティヴな物語」とは、どういう物語なのでしょうか。内田氏は続けて述べます。
「それは、ごく平凡な主人公の日常に不意に『邪悪なもの』が闖入してきて、愛するものを損なうが、非力で卑小な存在である主人公が全力を尽くして、その侵入を食い止め、『邪悪なもの』を押し戻し、世界に一時的な均衡を回復するという物語です」
 それは、ほとんど古典的な「ビルドゥングスロマン」と同じなのです。アメリカやヨーロッパはもちろん、ロシア、東欧、インドネシア、中国など世界中の読者に読まれている村上春樹氏の凄さが改めて思い知らされます。
 なぜ、村上春樹はここまでの「世界性」を獲得したのでしょうか。内田氏は、それは彼の小説に「激しく欠けていた」ものが単に80~90年代の日本というローカルな場に固有の欠如だったからではないからだといいます。それは、「はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているもの」だったからであるというのです。

 では、この世界に生きるわたしたちが「共に欠いているもの」とは何か。内田氏は、「それは『存在しないもの』であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深く強くかかわってくるもの、端的に言えば『死者たちの切迫』という欠性的なリアリティである」と述べています。
 内田氏いわく、生者が生者にかかわる仕方は世界中で違います。しかし、死者が「存在するのとは別の仕方で」生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じだというのです。

 さらに内田氏は、「『激しく欠けているもの』について」という村上文学の本質を衝くエッセイの最後に次のように書いています。
「村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している」
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ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)


 わたしも、明らかに村上文学とは「死者と生者との交流」が最大のテーマであると思ってきました。拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)の「生命の輪は廻る~あとがきに代えて」にも書きましたが、もともと村上春樹の文学には、つねに死の影が漂っています。彼の作品にはおびただしい「死」が、そして多くの「死者」が出てくるのです。内田氏も、「およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は『死者から受ける影響』を扱っている。文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである」と述べ、村上春樹のほぼ全作品が「幽霊」話であると指摘しています。
 もっとも村上作品には「幽霊が出る」場合と「人間が消える」場合と二種類ありますが、これは機能的には同じこと。このような「幽霊」文学を作り続けてゆく村上春樹の心には、おそらく「死者との共生」という意識が強くあるのではないでしょうか。その「死者との共生」のために存在する文化装置として、葬儀や墓といったものがあります。映画「ハナレイ・ベイ」には日本の仏式葬儀の場面が登場しましたが、今は亡き愛する人を忘れないように、世界中の人々は葬儀や墓を大切にしているのです。

 しかし、この「ハナレイ・ベイ」に限っては「幽霊」話とか怪談とかいうのとは少し違い気がします。それはグリーフケアの物語であり、「祈り」の文学ではないかと思うのです。僧侶で作家の玄侑宗久氏は、一条真也の読書館『やがて死ぬけしき』で紹介した著書で、東日本大震災後の石巻で娘さんが行方不明だという父親の方と会ったエピソードについて書いています。もう震災から2ヵ月ほど経っていたそうですが、その父親は23歳の娘の生存を、信じていました。

「祈りが膨らませる想像力」として、玄侑氏は述べます。 「私は思いきって訊いてみたのです。いったいどう考えたら、今も生きていると信じられるのですか、と。すると50代、つまり私と同世代と思えるその男性は、しばらく黙って虚空を睨んでいましたが、けっしてその場で考えたというふうではなく、きっぱりした口調で答えたのです。『津波に襲われた瞬間に記憶喪失になって、どこかしらねえ浜さ流れついでさ、しらねえ人の世話になって生きてるんでねえが』」

 この父親の言葉について、玄侑氏は以下のように述べています。
「きっと、毎日毎晩、彼は娘の無事を祈り、なんとか生きていてほしいと思い続けたことでしょう。それだけでなく、あらゆる可能性の中から、彼は可能性の高い低いは関係なく、とにかく望ましい可能性を選び、そのイメージを具体的に膨らませていたのではないでしょうか。そこには本当の意味での『祈り』があります」
 その「祈り」とは「物語」というものと深く関わっています。
 わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
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愛する人を亡くした人へ』(現代書林)


 拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、仏教やキリスト教などの宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する人もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。なかには、宗教を迷信として嫌う人もいます。でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことです。
 宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことか。それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることです。宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。幽霊話にすがりつくとは、そういうことだと思います。
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葬式は必要!』(双葉新書) 


 拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、葬儀のポイントは、死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。たとえば、日本の葬儀の9割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。
 わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。自分の愛する人が亡くなるということは、自分の住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。
 まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことにほかなりません。
 息子がハワイのハナレイ・ベイで亡くなって、母親は現地で息子を荼毘に付してから、日本で葬儀を行います。しかしながら、その葬儀のもつ物語では母親は癒されませんでした。それで息子が亡くなったハナレイ・ベイを毎年訪れることになるのですが、いくら愛する人が死んだ場所に足を運んでも、愛する人は帰ってきません。

 最終的に、母親の心に変化を与えたのは息子の形見である手形でした。現地の女性グリーフ・カウンセラーが「いつか必要になる時がくるから」と、断る母親を相手に粘り強く交渉して息子の手形を残したのです。そして、それは実際に母親を救いました。もう1つ、彼女を救ったものがありました。息子が止まったホテルのオーナーが持っていた息子の写真です。手形とか写真といった、人が生きた証の持つ力の大きさをこの映画が教えてくれました。

 最後に、この映画を観て、あることを思い出しました。
 もう10年も前のこと、わたしは家族で一度だけハワイに行ったことがあります。そのとき、オアフ島の湾(ベイ)でシュノーケリングをしました。そのとき長女は中学生だったのですが、湾で遊んでいる姿が突然消えて、慌てて探し回ったことがあります。なかなか見つからないので、監視員に相談し、「中学生くらいの日本人の女の子が見えなくなった」と伝えました。妻もまだ小さかった次女の手を引きながら、大声で海に向かって長女の名前を叫び続けました。

 すると、遠くの方の波間から長女が顔を出しました。彼女はずいぶん遠くまで流されていたのです。わたしが泳いで迎えに行き、事なきを得ました。でも、もし、あのハワイの海で長女がずっと姿を消したままだったらと思うと、ゾッとします。無事で良かったと思うとともに、人の生死というものは紙一重のような気もします。この世はパラレルワールドで、娘が海から姿を現した世界と、そのまま姿を現さなかった世界が同時に存在しているような気もします。「今は亡き愛する人が生きている世界も存在している」という考えるSF的発想は、グリーフケアにおいても重要ではないでしょうか。映画「ハナレイ・ベイ」に映し出される綺麗な海を見て、そんなことを考えました。