No.369
一条真也です。ハッピー・ハロウィン!
この日にふさわしいファンタジー映画を観ました。
「ルイスと不思議の時計」です。なにしろ、この映画にはカボチャのお化けがたくさん登場するのです。あまり怖くありませんけど......。この映画は、スティーヴン・スピルバーグのアンブリン・エンターテインメントが製作を務め、"ハリー・ポッターの原点"ともいわれる、ジョン・ベレアーズ著書の映画化です。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ジョン・ベレアーズの児童文学を原作にしたファンタジー。少年と2人の魔法使いが、世界を救うために時計の謎に挑む。監督は『グリーン・インフェルノ』などのイーライ・ロス。『グースバンプス モンスターと秘密の書』などのジャック・ブラック、『ブルージャスミン』などのケイト・ブランシェット、ドラマ「デスパレートな妻たち」シリーズなどのカイル・マクラクランらがそろう」
ヤフー映画の「あらすじ」には、こう書かれています。
「両親を亡くし、叔父のジョナサン(ジャック・ブラック)の世話になることになった少年ルイス(オーウェン・ヴァカーロ)は、ジョナサンが魔法使い、隣家に暮らす美女ツィマーマン(ケイト・ブランシェット)が魔女だと知る。ある日、ジョナサンの屋敷に世界を破滅させる力を持った時計が隠されていることがわかる」
この映画、ちょっと不思議の時計をめぐる説明が不足していて、ストーリーがわかりにくいという難があります。そのタイトルから、わたしは「モモ」のような時間ファンタジーを想像していたのですが、実際は違いました。時計という存在がまったく生かされていない印象でしたが、それでも基本的に楽しい魔法映画でした。ジョナサン(ジャック・ブラック)とツィマーマン(ケイト・ブランシェット)のコンビが良い味を出しています。「ハリー・ポッター」シリーズと違って、登場人物が少ないので、キャラクターの把握にも苦労しません。
あと、「ツイン・ピークス」でやたらとコーヒーを飲みながらチェリーパイを食べていたカイル・マクラクランが黒魔術師の役で出演していました。なかなか似合っていましたが、出番が少なかったです。もっと、マクラクランの悪役が見たかったですね。
彼の黒魔術は、死者を蘇生させます。彼自身も黒魔術によって蘇生するのですが、わたしはこの場面を観ながら、「死体蘇生が黒魔術なら、葬儀とは白魔術である」ということに気づきました。愛する人を亡くしたという現実を断固として拒絶するか、受け容れるかによって「黒」と「白」に分かれるわけです。
少年ルイスには両親がいません。特に彼は母親の不在を寂しがり、「魔法でお母さんを生き返らせたい」と考えるのですが、そのために黒魔術師の罠にはまっていくのでした。両親がいない孤児という設定は、ハリー・ポッターと同じです。魔法使いには、孤独な少年が向いているかもしれません。彼にとって、現実の世界はけっして好ましいものではなく、それを少しでも良い世界に変えていけることができるとしたら、魔法を習得したいと願うのは当然でしょう。ルイスにとっての魔法修業は、グリーフケアそのものでした。
『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)
さて、魔法使いというものは、はたしてこの世に実在するのでしょうか。わたしは、実在すると思っています。それどころか、わたしは、なんと魔法使いになるための本も書いています。『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本です。さまざまな人間関係を良くする魔法を紹介しているのですが、その基本を小笠原流礼法に置いています。「思いやりの心」「うやまいの心」「つつしみの心」という三つの心を大切にする小笠原流は、日本の礼法の基本です。特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいています。
そもそも礼法とは何でしょうか。原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合ったりしたのです。このような行為が礼儀作法、すなわち礼法の起源でした。身ぶり、手ぶりから始まった礼儀作法は社会や国家が構築されてゆくにつれて変化し、発展して、今日の礼法として確立されてきたのです。ですから、礼法とはある意味で護身術なのです。剣道、柔道、空手、合気道などなど、護身術にはさまざまなものがあります。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼法の方がずっと上ではないでしょうか。まさしく、礼法こそは最強の護身術なのです。
さらに、礼法というものの正体とは魔法にほかなりません。フランスの作家サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は人類の「こころの世界遺産」ともいえる名作ですが、その中には「本当に大切なものは、目には見えない」という有名な言葉が出てきます。本当に大切なものとは、人間の「こころ」に他なりません。その目には見えない「こころ」を目に見える「かたち」にしてくれるものこそが、立ち居振る舞いであり、挨拶であり、お辞儀であり、笑いであり、愛語などではないでしょうか。それらを総称する礼法とは、つまるところ「人間関係を良くする魔法」なのです。
「魔法」とは、正確にいうと「魔術」のことです。西洋の神秘学などによれば、魔術は人間の意識、つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすものとされています。ならば、相手のことを思いやる「こころ」のエネルギーを「かたち」にして、現実の人間関係に変化を及ぼす礼法とは魔法そのものなのです。
わが社では、社員教育に小笠原流礼法を取り入れています。わたしは、かつて「見えぬもの見えるかたちにする人は まこと不思議な魔法使いよ」という短歌を詠み、わが社の社員に披露しました。冠婚葬祭やホテルといったホスピタリティ・サービスの現場において、目には見えない「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といった、この世で本当に大切なものを目に見える形にしてほしいという願いを込めました。"むすびびと"や"おくりびと"たちが、サン=テグジュぺリが「見えない」といった大切なものを「見える」形にできるとしたら、それは魔法使いそのものだと思いませんか?
この映画で、特に印象に残ったシーンがあります。叔父のジョナサンは、黒魔術の罠にはまってしまったルイスを手放そうとします。魔法の家で子どもを育てることは不安だというのです。それを聞いたツィマーマンは、ジョナサンに対して、「何が不安よ。子どもを育てるってことは24時間、不安と闘うことなのよ。いくら不安でも逃げるわけにはいかないの!」と言い放つのですが、この言葉には感動しました。最近、わたしは離婚や夫との死別を繰り返しながら3人の子どもを独力で育てている女性と知り合ったのですが、彼女のことを思い出しました。
それにしても、ツィマーマンを演じたケイト・ブランシェットの美しいこと。アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた「キャロル」を観てから、彼女の美しさに魅了されたわたしですが、「ルイスと不思議の時計」でも彼女はとても魅力的でした。現在49歳だそうですが、世界一美しいアラフィフではないでしょうか。ニコール・キッドマンと同じくオーストラリア出身のクール・ビューティーですが、アルフレッド・ヒッチコックが生きていたらきっと気に入ったのではないかと思います。