No.380


 21日の夜、この日公開されたばかりの映画「アリー/スター誕生」を観ました。平成最後の師走も押し迫ってきたので、今年最後の映画鑑賞となるかもしれません。これで今年観たい映画はすべて観ましたし、いま上映中の作品で特に観たいものも他にありません。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『アメリカン・スナイパー』などのブラッドリー・クーパーが監督と製作を担当し、数々のヒット曲で知られるアーティストのレディー・ガガが主演を務めたドラマ。スター歌手に才能を見いだされた女性が、スターダムへと上り詰める姿が描かれる。ブラッドリーはスター歌手役で出演もこなしており、劇中でガガと共に歌声を聞かせる」

 ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「昼はウエイトレスとして働き、夜はバーで歌っているアリー(レディー・ガガ)は、歌手になる夢を抱きながらも自分に自信が持てなかった。ある日、ひょんなことから出会った世界的シンガーのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)から歌を高く評価される。アリーは彼に導かれてスター歌手への階段を上り始め、やがて二人は愛し合うようになるが、ピークを過ぎたジャクソンは、徐々に歌う力を失っていく」

 この映画は、1937年の「スタア誕生」の4度目のリメイクです。アメリカにとって特別な意味を持った作品だと言えますが、当初はクリント・イーストウッドが監督を務める予定だったそうです。ビヨンセを主演とする「スタア誕生」として、クリント・イーストウッドが監督する予定でした。それがビヨンセの妊娠によりプロジェクトが延期となり、レオナルド・ディカプリオ、ウィル・スミス、クリスチャン・ベールとの出演交渉が失敗に終わり、さらにトム・クルーズへも持ち掛けられたそうです。ビヨンセがプロジェクトを正式に降板し、さらにジョニー・デップにも拒否されると、ワーナー・ブラザースはブラッドリー・クーパーとの交渉に入りました。

 クーパーはイーストウッドから監督の座も譲られますが、本作で映画監督デビューを果たしています。イーストウッドは主人公のアリー役にエスペランサ・スポルディングを構想していたそうですが、ビヨンセがプロジェクトに復帰する可能性があったようで、キャスティングは迷走しました。その後、最終的にレディー・ガガの出演が決定しました。これまでジュディ・ガーランドやバーブラ・ストライサンドといったハリウッド・レジェンドたちが「スター誕生」で主演してきました。今回の主演女優であるガガのプレッシャーはさぞ大きかったと思いますが、「アメリカン・ホラー・ストーリー/ホテル」でも見せた卓越した演技力で、観客を魅了してくれました。

 そして、演技力以上に素晴らしいのが、ガガの歌唱力です。ガガといえば、真っ先に奇抜なルックスを連想しますが、この映画では見事な歌声を披露します。映画の中のアリーは、音楽の方向性をルーツロックからダンスポップへと変えますが、これはそのままガガ自身とキャリアと重なっています。本物の歌姫が熱唱したこともあり、これまでで最もリアリティのある「スター誕生」となりました。この映画のサウンドトラックはインタースコープ・レコードより発売されており、全米・全英ともに1位を獲得しています。

 栄光のロック・スターから転落してゆくブラッドリー・クーパーの演技は素晴らしかったです。元貴乃花親方にしろ、カルロス・ゴーンにしろ、時代の寵児として栄華をきわめたスーパースターの転落劇を観るにつれ、「最後まで輝き続けて、有終の美を飾る」ことの難しさを痛感します。クーパー演じるジャクソンの心の闇は、一条真也の映画館「アメリカン・スナイパー」で紹介したクーパー主演の名作を連想しました。同作も暗い内容でしたが、本作「アリー/スター誕生」の結末も暗いです。ネットのレビューに「こんな暗い結末の映画、年末にみたくないわ」というものがありましたが、そう感じた人は多かったと思います。
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上智大学でのグリーフケアのようす


 しかしながら、わたしはこの暗い結末がずんと心に響きました。ネタバレ覚悟で書いてしまうと、この映画には、ある登場人物の「自死」が描かれています。
 わたしは「死」や「グリーフケア」を専門テーマとしているので、この映画の中の自死について考えさせられました。ブログ「上智大グリーフケア講義」で紹介したように、2016年7月20日、わたしは初めて上智大学の教壇に立ってグリーフケアの講義を行いましたが、そこでは「自死」の問題についても話しました。ちょうどブログ『自死』で紹介した本を読んだ翌日でした。

 同書には「宗教と自死」という章があり、そこには自死者に対するカトリックの態度が書かれていました。
「693年のトレドの宗教会議で、『自死者はカトリック教会から破門する』という宣言がなされ、『自死』が公式に否定されたのだ。さらに名教皇といわれた聖トマス・アクィナスが『自死は生と死を司る神の権限を侵す罪である』と規定したことで、『自死=悪』という解釈が定まったといわれている。その結果、自死者は教会の墓地に埋葬してもらえないという時代が長く続いた」
「三大世界宗教」といえば、キリスト教・イスラム教・仏教ですが、イスラム教においても、仏教においても自死を否定的にとらえています。しかし、自死はけっして「自ら選んだ」わけではなく、魔や薬のせいという要素も強いと言えます。ただでさえ、自ら命を絶つという過酷な運命をたどった人間に対して「地獄に堕ちる」と蔑んだり、差別戒名をつけたりするのは、わたしには理解できません。それでは遺族はさらに絶望するというセカンド・レイプのような目に遭いますし、なによりも宗教とは人間を救済するものではないでしょうか。
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「自死」について語りました


 しかし、最近では流れが変わってきました。
 同書には以下のように書かれています。
「『自死』が社会問題化し、また自死遺族たちが声をあげたことで、長い間、『自死』を差別してきた伝統宗教の世界にも変化の兆しが見えている。例えば、キリスト教の世界ではローマ法王であった聖ヨハネ・パウロ2世が1995年の『回勅』の中で、『自殺者を断罪するのではなく、自死を選ばざるを得なかった人生を神に委ねる姿勢が大切だ』と、自死者に対する過去の過ちを認めて謝罪した。もちろん、キリスト教が『自死』を正しい行為だと認めたわけではない。自死にいたった苦しみや遺された遺族の悲しみに、キリスト教があまりに無頓着だったことを詫びたのだ」

 この「自死者に対して、キリスト教はどう対処すべきか」という問題は、上智大学グリーフケア研究所が取り組むべき最大の課題ではないかと思います。わたしは今年4月に同研究所の客員教授に就任しましたが、その課題に自ら取り組んでみたいと考えています。
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愛する人を亡くした人へ』(現代書林)


 いま、宗教関係者以外で、自死を果たした人を責める人はあまりいないでしょう。昔は「自殺するのは弱いからだ」「死ぬ気があれば何でもできる」といった考えが主流でしたが、現在では「うつ病患者は自死しても仕方ない」「病気だから気の毒だ」という考えに流れが変わっているように思います。わたしも基本的には、自死をされた方を責める気はまったくないのですが、残された遺族の方々の深い悲しみに接するにつれ、「もう少し何とかならなかったか」と複雑な気分になります。
 最近、拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)を読んで下った女性の方とお話しさせていただいたのですが、あまりにも壮絶な体験談に絶句しました。

 その女性が妊娠中にご主人が自死をされたそうです。しかも、彼女はご主人の実家と絶縁状態にあり、夫の通夜にも葬儀にも参列できませんでした。それを聞いて、わたしは彼女の深い悲しみに共感するとともに、自死をされたご主人に対して「愛する奥さんや生まれてくる子どものために、どうしてもっと生きてくれなかったのか」と思いました。本作「アリー/スター誕生」の中の自死も、残された者に深い悲しみを与えました。自死を肯定するのは思想の自由かもしれませんが、残された者の悲しみをけっして忘れてはなりません。


「アリー/スター誕生」は、一条真也の映画館「ボヘミアン・ラプソディ」で紹介した大ヒット感動作と同じ音楽映画です。同作を比較対象としたPRも目にしましたが、正直言って、わたしはそれほどの感動は得られませんでした。結末が悲劇的なのは別にして、ストーリーの豊かさというものを感じません。「ボヘミアン・ラプソディ」のほうがシナリオが圧倒的に良かったですし、映画の中の音楽の力も「アリー/スター誕生」のはるかに上を行っていました。

 最後に、わたしが観たい音楽映画が来年1月4日から公開されます。「悲劇の歌姫」として知られるホイットニー・ヒューストンの知られざる素顔に迫るドキュメンタリー映画「ホイットニー~オールウェイズ・ラヴ・ユー~」です。かつて、その歌声で世界中を魅了し、アメリカ・ポップシーンの頂点に立ち、48歳で人生の幕を閉じた伝説のスターの物語です。リアルな「スター」の実話と彼女の歌声を心から楽しみにしています。