No.387
チャチャタウン小倉内のシネプレックス小倉で「マン」のつく映画を2本続けて観ました。「ファースト・マン」と「アクアマン」です。先に観た「ファースト・マン」は、1969年、アポロ11号で人類初の月面踏査をなしたアストロノーツの1人であるニール・アームストロングの偉業に迫る伝記ドラマです。
ヤフー映画の「解説」には、書かれています。
「『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督とライアン・ゴズリングが再び組んだ伝記ドラマ。人類初の月面着陸に成功したアポロ11号の船長ニール・アームストロングの人生を描く。ジェイムズ・R・ハンセンの著書を『スポットライト 世紀のスクープ』などのジョシュ・シンガーが脚色した。共演は『蜘蛛の巣を払う女』などのクレア・フォイ、『ゼロ・ダーク・サーティ』のジェイソン・クラークとカイル・チャンドラーら」
ヤフー映画の「あらすじ」は、こうです。
「幼い娘を亡くした空軍のテストパイロット、ニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、NASAの宇宙飛行士に応募し、選抜される。彼は家族と一緒にヒューストンに移り住み、有人宇宙センターで訓練を受ける。指揮官のディーク・スレイトン(カイル・チャンドラー)は、当時の宇宙計画において圧倒的優位にあったソ連も成し得ていない月への着陸を目指すと宣言する」
この映画の主人公であるニール・オールデン・アームストロング(Neil Aiden Armstrong,1930年8月5日―2012年8月25日)は、人類で初めて月面に降り立った宇宙飛行士として知られています。最初の宇宙飛行は1966年のジェミニ8号で、ニールは機長を務め、デヴィッド・スコット操縦士とともにアジェナ標的機とアメリカ初の有人宇宙船でのドッキングを行ないました。ランデブーとドッキングは打ち上げから6時間半後に予定どおり行なわれましたが、その当時は宇宙船の軌道のすべてを網羅するような無線中継基地はまだ作られていなかったために、途中で通信が途絶えてしまいました。
その中絶している時間中に宇宙船はとつぜん予期せぬ回転運動をし始め、ニールは軌道姿勢制御システム(OAMS)を使って何とか機体回転を停止させようと試み、地上の管制官のアドバイスに従ってアジェナを切り離しました。しかし不規則な運動はますます激しくなるばかりで、ついに1秒間に1回転するまでになってしまったのです。原因はジェミニ自体の姿勢制御システムにありました。ニールは残された最後の手段として大気圏再突入システム(RCS)を作動させ、OAMSのスイッチを切って、なんとか一命を取りとめたのでした。
アームストロングの二回目の宇宙飛行は、1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号で、この時も機長を務め、バズ・オルドリン飛行士とともに2時間30分にわたって月面を探索しました。スクリーンに何度も映し出された月面は、一言でいうと、まさに砂漠でした。加藤まさを作詞の「月の砂漠」は、わたしの大好きな童謡です。でも、実際の月は砂漠そのものだったわけです。映画で月面の様子をながめながら、「童謡に月の砂漠の歌あれど 飛行士いはく月は砂漠よ」という短歌が浮かびました。
それにしても、生身の人間が月に行くことのリスクとストレスは想像を絶するものだと思います。「一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」という有名なアームストロングの台詞のように、人類が月に降り立ったことは一大イベントでした。すべては、1961年5月25日にケネディ大統領が「わが国は、60年代が終わる前に、人類を月へ送り、地球に無事帰還させる」と宣言したことが始まりでした。そして、1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号がついにその大いなる夢を果たしました。映画からも、その当時の熱狂ぶりがひしひしと伝わってきますが、ヨーロッパの人々もアジアの人々も世界中の誰もが、アポロの月面着陸を「アメリカの偉業」とは呼ばずに「わたしたち(人類)の偉業」と呼んだことが印象的でした。
『孔子とドラッカー新装版』(三五館)
わたしも、アポロの月面着陸は人類の偉業であると心から思っています。そして、「夢とは、かなうものだ」というメッセージをこれほど明確に示した事件はなかったように思います。拙著『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも書きましたが、人間が生きていくうえで、夢はとても大事なものです。そして、夢というのは必ず実現できるものであると思います。偉大な夢の前に、これまで数多くの「不可能」が姿を消してきました。
最初の飛行機が飛ぶ以前に生まれた人で、現在でも生きている人がいます。彼らの何人かは空気より重い物体の飛行は科学的に不可能であると聞かされ、この不可能を証明する多くの技術的説明書が書かれたものを読んだことでしょう。これらの説明を行った科学者の名前はすっかり忘れてしまいました。しかし、あの勇気あるライト兄弟の名前はみな覚えています。ライト兄弟の夢が人類に空を飛ばせたのです。
宇宙旅行もこれと同じです。地球の重力圏から脱出することなど絶対に不可能だとされていました。すなわち、学識のある教授たちが、1959年にスプートニク1号が軌道に乗る1年ほど前までは、こんなことは問題外だと断言し続けてきました。その4年後の61年には、ソ連がガガーリンの乗った人間衛星船ヴォストーク1号を打ち上げ、人類最初の宇宙旅行に成功しました。
さらに69年にはアポロ11号のアームストロングとオルドリンが初めて月面に着陸。ここに古来あらゆる民族が夢に見続け、シラノ・ド・ヴェルジュラック、ヴェルヌ、ウェルズといったSF作家たちがその実現方法を提案してきた月世界旅行は、ドラマティックに実現したのです。気の遠くなるほど長いあいだ夢に見た結果、人類はついに月に立ちました。そして、そのとき、多くの人々は悟ったはずです。月に立つことは、単なるアメリカの「夢」などではなく、人間の精神の可能性、こころの未来を拓くという人類の「志」であったのだという事実を。
さて、この「ファースト・マン」という映画を観て、わたしが最も興味深かったのは、アームストロングが愛娘を亡くし、その深い悲嘆を癒す過程の中でアポロ11号計画に参加したという事実でした。娘を亡くした後の彼が、夜の自宅の庭で双眼鏡で月を眺めるシーンがありました。それは、あまりにも哀愁に満ちた切ないシーンでしたが、わたしは、「もしかすると、アームストロングは亡き愛娘との再会のために月に向かったのかもしれない」と思いました。
『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎)
拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)にも書きましたが、世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。そして、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えるでしょう。
人類において普遍的な信仰といえば、何といっても、太陽信仰と月信仰のふたつです。太陽は、いつも丸い。永遠に同じ丸いものです。それに対して月も丸いけれども、満ちて欠けます。この満ち欠け、時間の経過とともに変わる月というものは、人間の魂のシンボルとされました。つまり、絶対に変わらない神の世界の生命が太陽をシンボルとすれば、人間の生命は月をシンボルとします。人の心は刻々と変化変転します。人の生死もサイクル状に繰り返します。死んで、またよみがえってという、死と再生を繰り返す人間の生命のイメージに月はぴったりなのです。地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星です。また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているとされています。さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告しています。月こそ神のすみかであり、天国や極楽そのもののイメージとも重なります。
「葬式仏教」という言葉があるくらい、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係も非常に深いのです。お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放に他ならず、それは宇宙飛行士たちが「コズミック・センス」や「スピリチュアル・ワンネス」を感じた宇宙体験にも通じます。
『唯葬論~なぜ人間は死者を想うのか』(サンガ文庫)
映画「ファースト・マン」では、アームストロングの幼い娘だけでなく、多くの人々が死んでいきます。アームストロングの宇宙飛行士仲間たちも多くが事故で命を落とし、そのたびに彼は妻とともに葬儀に参列するさまが描かれていました。アポロ11号が人類最初の月面着陸に成功するまでに、いかに多くの人命が犠牲になったのかを考えると辛いですが、わたしはアームストロングが月に向かったのは死者たちの供養のためでもあったと思います。先程、月が死者たちの魂がおもむくところという説を紹介しましたが、拙著『唯葬論~なぜ人間は死者を想うのか』(サンガ文庫)でも述べたように、わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行ってきました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。わたしは同書で「唯葬論」という考え方を提唱しました。アポロ11号の偉業そのものが大いなる「葬」であったと思います。
最後に、「ファースト・マン」という映画は宇宙映画であるとともに夫婦映画でもありました。愛する娘を亡くしたアームストロング夫妻のグリーフケアの物語でした。ジェミニ計画のトラブルでアームストロングの安否が不明のとき、NASAの管理スタッフを叱責するアームストロングの妻ジャネット(クレア・フォイ)の迫力には圧倒されましたし、アポロ11号計画に参加する直前、巨大な不安から意味のない荷造りを繰り返す夫に対して、「『息子たちに、生きて帰れないかもしれない』とはっきり自分の口から言ってほしい」「そのときの心構えを父親として伝えてほしい」とジェネットが懇願する場面には胸を打たれました。そして最後に、無事に宇宙から地球に帰還した夫妻の静かな対面シーンには深く感動しました。
『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)
拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)にも書きましたが、結婚ほど驚くべきものはありません。「浜の真砂」という言葉があるように、無数ともいえる結婚可能な異性の中からたった1人と結ばれるとは、何たる縁か!
無限なる「時間」の縦糸と、無限なる「空間」の横糸が織りなす「縁」という摩訶不思議なタペストリーの上で、2人は出会って結婚した。この世に奇跡があるなら、これ以上の奇跡があるでしょうか。アポロ11号の月面着陸も偉業ですが、すべての結婚も偉業であると思います。現在の地球上に限定してみても、60億人のなかの1人と、別のもう1人が、はじめから2人しかいなかったかのように結ばれること。この奇跡をそのまま驚き、素直に喜び、心から感謝することが大事ではないか......今年の5月20日で、結婚30周年を迎えるわたしは、「ファースト・マン」のラストシーンを観ながら、そんなことを考えていました。