No.393
8日に公開されたばかりの映画「運び屋」を9日夜のレイトショーで観ました。わたしの大好きなクリント・イーストウッドの監督・主演作品ですが、監督としては「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」に続く、全米興収1億ドル突破の大ヒットを記録しました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『The New York Times Magazine』に掲載された実話をベースにしたヒューマンドラマ。麻薬を運ぶ90歳の男に待ち受ける運命を描く。監督と主演を務めるのは『ミリオンダラー・ベイビー』などのクリント・イーストウッド。イーストウッド監督作『アメリカン・スナイパー』などのブラッドリー・クーパー、『マトリックス』シリーズなどのローレンス・フィッシュバーンらが共演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「90歳のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、家族を二の次にして仕事一筋に生きてきたが、商売に失敗した果てに自宅を差し押さえられそうになる。そのとき彼は、車で荷物を運ぶだけの仕事を持ち掛けられる。それを引き受け、何の疑いも抱かずに積み荷を受け取っては運搬するアールだったが、荷物の中身は麻薬だった」
この映画、重いテーマなのですが、意外にも軽やかというか爽やかな印象でした。主人公がジョークを連発することや、ラストがそれほど悲劇的ではなかったからかもしれません。この映画は実話に基づいています。実際のストーリーは、第二次大戦に従軍した退役軍人が、デイリリー(ユリ科の植物)の栽培でいったん成功しますが、インターネットの普及などの時代の変化に取り残されて没落します。彼は80歳を過ぎてから、メキシコの麻薬カルテルから運び屋としてスカウトされるのでした。
物語のベースになったのは2014年6月に「ニューヨーク・タイムズ」別冊に掲載された「シナロア・カルテルの90歳の運び屋」という驚くべき記事でした。巨大麻薬組織から一目置かれ、全米の警察が必死で捜すも、1度に13億円のドラッグを運ぶ「伝説の運び屋」の正体が90歳の老人だったという衝撃ニュースです。これは、昔でいえば「ウィークエンダ―」(ちょっと古過ぎるか!)、今なら「アンビリーバボー」の再現ドラマで取り上げられそうな話ですね。
クリント・イーストウッドが監督と主演を兼ねたのは「グラン・トリノ」以来で、10年ぶりとなります。そのことは鑑賞後に知ったのですが、わたしは「運び屋」を観終わったとき、「グラン・トリノ」のことを連想しました。「グラン・トリノ」も「運び屋」も、ともにイーストウッドが演じた主人公が朝鮮戦争従軍経験を持つ老人だったこともありますが、両作品ともに脚本を手掛けたのがニック・シェンクだったことも大きいでしょう。彼はフォードの工場で働いた経験もある苦労人ですが、「グラン・トリノ」で脚本家としてデビューしました。イーストウッドはシェンクの脚本を非常に高く評価しているそうです。今回、10年ぶりに監督兼主演というハードワークを引き受けたのも、シェンクが脚本を書いたからだと推測されます。
「グラン・トリノ」は、気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤する姿を描くヒューマンドラマです。映画評論家の高森郁哉氏は、「『運び屋』強い米国の体現者イーストウッドの回顧と贖罪を忍ばせた、技あり脚本」というタイトルの映画評で、以下のように書いています。
「家族関係の失敗を償うかのように、運び屋稼業に関わるメキシコ人の若者に対し父親のように接して、真っ当に生きるよう諭すくだりは、『グラン・トリノ』におけるモン族の少年との関係性を反復する。モン族がベトナム戦争の影響で故郷を逃れてきたように、米国に暮らす少数民族の多くは、アメリカという大国が内外で正義と力を振りかざしてきた"副産物"として、かの地でマイノリティーとして生きざるを得なくなった。かつて無頼のガンマンとして、また「ダーティハリー」シリーズの暴力刑事として、世界の警察国家たるアメリカを体現したイーストウッドが、老いてそうした少数民族に手を差し伸べるとき、成熟した大国の反省と贖罪の意識もそこに重なってくる」
「グラン・トリノ」という作品は、アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめています。主人公と彼らが交流する「隣人祭り」の場面も登場します。すなわち、「グラン・トリノ」のテーマは「隣人」なのですが、「運び屋」のテーマは「家族」でした。アールは長年、家族よりも仕事を優先しており、妻とも離婚。ずっと家族とは疎遠です。彼の一人娘はそんな父親を毛嫌いし、口もきいてくれません。
それは、かつてアールが1人娘であるアイリスの結婚式を欠席するという途方もない掟破りを犯したからでした。わたしは、老後のアールの孤独は「当然の報いである」と思います。娘の結婚式に出席しなかった罰が当たったのです。どんな理由があろうとも、人間たる者、家族の結婚式や葬儀には必ず参加しなければなりません。これは、宗教や民族や時代を超えた人類普遍の「人の道」だからです。
そんな「人の道」から外れてしまったアールも、孫娘の結婚式、元妻の葬儀には参列しました。失われた大切なものを取り戻すかのように......。
そうです、この「運び屋」は結婚式も葬儀も登場する冠婚葬祭映画なのです。一条真也の映画館「洗骨」でも紹介しましたが、黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった小津安二郎の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。そして、クリント・イーストウッドもそのことを知っていました。
アールの人生には、イーストウッドの人生が反映しているようです。高森氏は「30近くで人気スターになったイーストウッドは派手な私生活を送り、結婚歴は2回だが6人の女性との間に8人の子がいるとされる。最初の妻との間に生まれた実子アリソン・イーストウッドが本作でアールの娘アイリスを演じていて、父親に対する彼女の冷ややかで激しい態度には映画と現実の境界を歪ませるようなすごみがあるし、イーストウッドも作品を通じて家族への謝意を示しているように見える」と書いています。それはイーストウッドが主演した「人生の特等席」(2012年)にも通じるメッセージかもしれません。妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父娘が、旅の最後にそれぞれが「人生の特等席」を見つける物語です。稀代の名優の見納めと思われた「グラン・トリノ」以来、イーストウッドが4年ぶりに主演した家族映画です。
それにしても、「運び屋」で「なんでも金で買えると思っていたが、時間は金では買えなかった」というアールのセリフは心に沁みました。時間とは、家族と過ごす時間のことです。わたし自身も、これまで家族よりも仕事(執筆活動を含む)を優先してきた生き方だったので、過去を悔むアールの姿には心が痛みましたし、最後に愛娘と和解したシーンでは胸が熱くなりました。
アールは、家族の記念日を忘れたブラッドリー・クーパー演じる刑事に「記念日を忘れはいけない」とアドバイスしますが、誕生日や結婚記念日などをしっかり憶えていて、きちんと祝うことが「家族」という厄介なものを続けていく魔法なのかもしれません。祝うということは、それを肯定することだからです。
『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)
魔法といえば、わたしは『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本を書きました。いま、多くの人々が人間関係に悩んでいますね。わたしたちが生きる社会において最大のキーワードは「人間関係」ではないでしょうか。社会とは、つまるところ人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。そもそも「人間」という字が、人は1人では生きていけない存在であることを示しています。人と人の間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまといます。
夏目漱石の『草枕』には、「智に働けば角がたつ。情に棹されば流される。意地を通せば窮屈だ。とにかく人の世は住みにくい」という言葉が冒頭に出てきますが、これは人間関係の難しさを見事に表現しています。いくら人間関係というものが難しくても、わたしたちは1人では生きていけません。誰かと一緒に暮らさなければなりません。
では、誰とともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人ですね。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれません。
「幸福」とは宙に漂う凧のようなもの
現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、凧が安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。
この縦横の2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、「幸福」の正体ではないでしょうか。アメリカ史上に残る前代未聞の犯罪を描いた映画「運び屋」を観て、わたしはそのように考えました。
改元まで、あと52日です。