No.398
TOHOシネマズ日比谷で映画「ショーン・オブ・ザ・デッド」を観ました。ずいぶん久々の映画鑑賞です。ゾンビが登場する英国製ホラーコメディーなのですが、予想以上に面白かったです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ゾンビの襲撃から生き残ろうと奮闘する主人公たちを描いたホラーコメディー。『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』『ベイビー・ドライバー』などのエドガー・ライトが監督を務め、主演のサイモン・ペッグと共同で脚本を執筆した。『ホットファズ 俺たちスーパーポリスメン!』などのニック・フロスト、『サリー 死霊と戯れる少女』などのケイト・アシュフィールドらが出演」
また、ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「ロンドンの家電量販店で働くショーン(サイモン・ペッグ)は、その無気力さに嫌気が差した恋人のリズ(ケイト・アシュフィールド)から別れを告げられてしまう。次の日、落ち込んだショーンが目覚めると、街は大量のゾンビであふれかえっていた。ショーンは、愛するリズを救うため、エド(ニック・フロスト)と一緒に立ち上がる」
この映画、2004年の作品だとか。なんと15年前の作品が、ようやく日本初公開されたのです。これは珍しいケースですね。おそらくは、一条真也の映画館「カメラを止めるな!」で紹介した日本映画の大ヒットが影響しているのではないでしょうか。両作品ともに本来はゾンビ映画なのでホラーのはずなのですが、実質はコメディ映画になっています。欧米人はゾンビが大好きみたいですが、この「ショーン・オブ・ザ・デッド」は「これぞ、B級ゾンビ映画だ!」といった感じです。B級感がハンパなく、チープでくだらない映画なのですが、とにかく笑えます。
特にゾンビの集団から逃れるために、主人公たちがパブに立てこもるシーンでは、ゾンビたちに気づかれないために音を立ててはいけないのですが、おバカなエドがジュークボックスを大音量で鳴らしてしまいます。その曲がクイーンの「ドント・ストップ・ミー・ナウ」なので、一条真也の映画館「ボヘミアン・ラプソディ」で紹介した大ヒット映画を観た者としては大笑いする他はありません。クイーンの名曲とゾンビの動きが意外にマッチしているので、さらに笑えます。
この映画に登場するショーンと親友のエドは、毎日ぐうたらな生活を送っており、観ていてイライラしました。ある日、なぜかゾンビが大量発生して、彼らは襲われます。ショーンは別れた彼女と母親を救うために敢然とゾンビ退治に挑むのでした。エドガー・ライト監督のゾンビ愛(?)を感じることのできるシーンが多かったですが、最後にゾンビと人間が仲良く共生する社会が描かれているが興味深かったです。
ところで、ゾンビの存在そのものは哲学的なテーマとなりえます。「人間とは何か」や「死とは何か」などの問いを内包しているからです。 一条真也の読書館『ゾンビ論』で紹介した、ゾンビ映画の歴史を辿りながら、その魅力を多角的に論じた本があります。この本には数々のゾンビ映画の名作が紹介されていますが、「カメラを止めるな!」がゾンビ映画の歴史を変えたと思っていましたが、そのはるか前に「ショーン・オブ・ザ・デッド」が変えていたのですね。この映画には、それぐらいのインパクトがあります。
ゾンビ映画の歴史に燦然と輝くジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」がクランク・インしたのは1967年6月でした。同作品について、ゾンビ映画に詳しい特殊書店タコシェ店長の伊東美和氏は『ゾンビ論』でこう述べています。
「本作を好意的に取り上げた『ニューズウィーク』は、モダン・ゾンビの恐さが一種のパラノイアを生み出すことにあると分析している。ゾンビは巨大モンスターなどではなく、害悪をもたらす存在となった平均的な市民である。劇中のテレビ・ニュースがもっともらしく伝えるのは、この敵がどこにでもおり、我々を常に狙っているということ。もはや安全な場所など存在せず、自分以外の誰もが突然襲いかかってくる可能性があるのだ」
続けて、伊東氏は以下のように述べています。
「ロメロも同じような見方をしている。自分の発明で誇れるものがあるとすれば、それは隣人がモンスターになるというアイデアだという。モダン・ゾンビは外宇宙から飛来するのでもなく、ハイチからはるばる海を越えて上陸するわけでもない。自分たちの隣人、あるいは友人や家族がそうなるのだ。ロメロがフェイバリットに挙げる『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56年)にも通じる恐怖だが、ゾンビには密かに人間と入れ替わるような知恵も能力もない。彼らはゆらゆらと獲物に近づき、いきなり噛みつくのだ」
ゾンビ映画には、もう1つの金字塔的作品があります。同じくジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」(78年)です。この映画について、伊東氏は「人が人を貪り食う!」として以下のように述べます。
「ある日突然、死者が蘇りはじめ、生者に襲いかかってその生肉を貪り食う......。今でこそゾンビ映画のカニバリズムは当たり前のものになったが、この頃は違う。いくら蘇った死体だとはいえ、人が人を食うという描写は、サメやライオンが同じことをするよりもずっと衝撃的だった。一般的な感覚からすれば、間違いなくゲテモノの部類である。配給を手掛けた日本ヘラルド映画は、『グレートハンティング』を大ヒットさせた経験もあり、当然のことながら『ゾンビ』を『残酷映画』として売り出した」
この「ゾンビ」という映画の原題は「ドーン・オブ・ザ・デッド」といいます。「ショーン・オブ・ザ・デッド」は、明らかにロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」や「ドーン・オブ・ザ・デッド」へのオマージュとなっています。ゾンビ映画そのものへのオマージュ作品としては、アメリカの「ゾンビランド」(2010年)がありますが、変化球だらけ「ゾンビランド」に比べて、「ショーン・オブ・ザ・デッド」のほうが直球勝負というか、ゾンビへの愛情が感じられます。その愛情ゆえに、エドガー・ライト監督は最後にゾンビと人間が共生する社会を描きます。
「ホスピタリティ」と「ミッション」が大切!
その共生社会では、ゾンビ化した人間たちが本能を利用して労働、それもサービス業に従事します。この場面は、つねづねサービス業の地位向上を目指しているわたしとしては正直言って不愉快でした。よくサービス業のことを「労働集約産業」などと表現する人がいます。わたしは、この言葉が大嫌いです。労働集約産業というのは「頭数さえいれば、頭はいらない」という意味だからです。
その成れの果てにゾンビの労働者が登場したわけですが、冠婚葬祭業を労働集約型産業から知識集約型産業、さらには精神集約型産業に進化させたいと願っているわたしには到底許せるものではありません。そして、サービス業を精神集約型産業の高みに押し上げるものこそ「ホスピタリティ」であり、「ミッション」だと思います。
「令和」への改元まで、あと19日です。