No.406
日本映画「轢き逃げ 最高の最悪な日」を観ました。
水谷豊が監督を務めたヒューマンドラマですが、ミステリーの要素もありました。また、グリーフケア映画としての側面もあり、非常に興味深い内容でした。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『TAP THE LAST SHOW』では監督を務めた『相棒』シリーズなどの水谷豊がメガホンを取ったヒューマンドラマ。轢き逃げ事件に翻弄される人々を映し出す。水谷自身も出演するほかドラマ『牙狼 ~魔戒ノ花~』などの中山麻聖、『竜宮、暁のきみ』などの石田法嗣、ドラマ『魔王』などの小林涼子をはじめ、毎熊克哉、檀ふみ、岸部一徳らが出演する」
「とある地方都市。大手ゼネコン勤務の宗方秀一(中山麻聖)は、副社長の娘・白河早苗(小林涼子)との結婚も控え、公私共に順風満帆だった。ある日、親友の森田輝(石田法嗣)を助手席に乗せて結婚式の打ち合わせに向かおうと車を走らせていたところ1人の女性を轢き、そのまま現場から走り去ってしまう。刑事の柳公三郎(岸部一徳)と前田俊(毎熊克哉)は捜査を開始する」
この映画、まず、物語が「とある地方都市。」で始まるのですが、その景観は東京と見違えるばかりの大都会でした。高層建築はたくさん林立しているし、大手ゼネコンの本社がある設定にはなっているし、わたしが住む北九州市よりもずっと都会です。「ここって、どこなの?」と思いましたが、後で調べたら、ロケ地は神戸市でした。なるほど。神戸も北九州もフィルムコミッションが熱心なことで知られ、多くの映画の撮影場所となっています。海も山も繁華街もあるところが良いのでしょうね。
「轢き逃げ 最高の最悪な日」では神戸の美しい夜景も映し出されましたが、じつは夜景に関しては北九州は神戸に勝っています。昨年10月に開催された「夜景サミット2018」(一般社団法人 夜景景観コンベンション・ビューロー主催)において、札幌市、長崎市とともに、北九州市は新たな「日本新三大夜景都市」に認定されました。神戸市は4位でした。それはさておき、神戸の街で、この映画の主人公は結婚式という「最高の日」の直前に、轢き逃げをしてしまう「最悪の日」を迎えるのでした。
轢き逃げという犯罪をフィルターにして、人間の深層心理を描き出すところは、ちょっと黒澤明の名作「天国と地獄」(1963年)を連想させました。「天国と地獄」はエド・マクベインの原作を映画化した傑作サスペンスで、優秀な知能犯に刑事たちが挑む様子が描かれます。三船敏郎演じる大企業の専務が、自分の息子と間違えられて運転手の息子が誘拐され、身代金3000万円を要求されるという物語です。登場人物たちの心理描写が優れており、ヒューマンドラマとしての完成度も非常に高い作品です。「天国と地獄」の重さとスケールの大きさに比べれば、「轢き逃げ 最高の最悪な日」のほうがライトであり、スケールも比較にならないほど小さいですが、優れた心理描写とヒューマンドラマとしての完成度の高さが共通していると思いました。「最高の最悪な日」というサブタイトルも「天国と地獄」に似ています。
轢き逃げ事件を起こしてしまう秀一が逮捕されるまでの恐怖とストレス、逮捕されてからの後悔と苦悩はすさまじく、観客が少々の悩みを抱えていても、「これに比べれば、自分の悩みなどは大したことないな」と思えてしまいます。実際、わたしもこの映画を観た日、不愉快な出来事があり、ストレスもかなり抱えていたのですが、映画を観た後は心が軽くなっていました。映画鑑賞には、そういったストレス解消の機能、あるいはカタルシス効果もあるということを再確認しました。
しかしながら、轢き逃げで最愛の娘を失ってしまった水谷豊演じる被害者の父親の悲しみは胸を打ちました。わが子を亡くした悲しみは「未来」を失うことにも通じ、その悲しみは少なくとも10年は癒えないなどと言われます。わたしにも娘がいますので、もし自分の娘が突然この世からいなくなってしまったらと思うと、思わず涙腺が緩みます。映画の主題歌である手嶌葵の「こころをこめて」は、深い悲しみが溶けていくような優しいグリーフケア・ソングでした。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、わたしは毎日のように、多くの「愛する人を亡くした人」たちにお会いしています。その中には、涙が止まらない方や、気の毒なほど気落ちしている方、健康を害するくらいに悲しみにひたっている方もたくさんいます。亡くなった人の後を追って自死しかねないと心配してしまう方もいます。しかし、「轢き逃げ 最高の最悪な日」の水谷豊演じる男は、娘が死んだ真相を明らかにすることに執念を燃やすのでした。もちろん、そんなことをしても亡き娘が生き返ることはありませんが、彼にとってはセルフ・グリーフケアの行為であったと思います。
わたしの仕事は冠婚葬祭業です。つまり、ブライダルビジネスもわたしの仕事であり、各地で結婚式場を運営しています。そんなわたしとしては、結婚式という最高の晴れの舞台が台無しになる物語というのは辛かったですね。主人公の秀一を演じた中山麻聖は存在感がありました。俳優の三田村邦彦さんと女優の中山麻理さんの息子さんだそうですが、目の輝きなどはお父さんゆずりですね。182センチの高身長ですし、この甘いマスクでこれだけの演技力があれば、今後が楽しみな役者さんです。
被害者の母親役は壇ふみが演じました。壇ふみをスクリーンで見るのはずいぶん久々で、失礼ながら「しばらく見ない間にトシを取ったなあ」などと思ってしまいましたが、これがまた素晴らしい名演技でした。娘を亡くしても穏やかな笑みを絶やさないで夫に接していた彼女がラストで号泣する場面には思わず、わたしも貰い泣きしました。本当の悲しみというのは、あのように遅れてやってくるものなのかもしれません。
この映画、轢き逃げ事件を起こした犯人が逮捕されて終わりではなく、そこから予想外の人間ドラマが展開されるのですが、物語の後半では「嫉妬」というものがテーマになります。秀一は副社長の令嬢と婚約したために、会社中の独身男性たちから嫉妬され、孤立します。企業に限らず、組織という人間の集まる場において嫉妬は裂けられない問題です。嫉妬は女のさがであり、男は嫉妬しないという人もいます。たしかに『字訓』を著した漢字学の大家・白川静氏によれば、「嫉」とは疾に通じ、疾病や疾悪という意味につながります。もともとが、その情は「女人において特に甚だしい」ことから、嫉の字を用いたといいます。「ねたむ」「そねむ」の意味を持つ「妬」も、女偏を持つのは同じなのです。
『龍馬とカエサル』(三五館)
しかしながら、『龍馬とカエサル』(三五館)で詳しく書いたように、男も嫉妬します。古代ギリシャの政治家テミストクレスは「まだ自分はねたまれたこともないところから見て、何一つ輝かしいことはしていない」と語りました。しかし、彼はその後、紀元前480年のサラミスの海戦でアケメネス朝ペルシャの海軍を撃破しながら、市民の強烈な嫉妬と反感にあって陶片追放で死刑を宣告され、皮肉なことにペルシャに亡命したのです。
中国では、病的なやきもちを「妬癡」と呼びます。唐の時代に李益という男がいました。この人物は自分の妻を疑い、明けても暮れても苛酷なまでに妬癡したために、男の妬疾の甚だしいことを「李益の疾」というくらいでした。また、男の妬を指すための漢字があったほどです。この点でいえば、むしろ男の嫉妬の方が始末におえないのかもしれません。たしかに、自分が他人より劣る、不幸だという競争的な意識があって心に恨み嘆くことを嫉妬だと考えるなら、古くから仕事の上で競争にさらされてきた男の場合こそ、嫉妬心を無視するわけにはいきません。
嫉妬のように一見愚かに見える感情もまた、人間の備えている自然の性質の一部であり、それゆえ無理やり抑えつけてはならないとの人間観を示した人物こそ、松下幸之助でした。彼は「嫉妬は狐色に焼くのがよろしい」と言っていました。ちょうどせんべいを焼くように、焼きすぎてもいけないし、焼き足らないのもいけない。適度に焼けば、香りが立って、人間性に具合よく味付けできるものである。そういう嫉妬なら反面活力につながるから、むしろ好ましい。それが松下が言いたい要点でした。ベストセラー『人間通』を書いた国文学者の谷沢永一は、この「嫉妬は狐色に焼く」を松下幸之助一代の名言であると絶賛しています。
最後に、この映画を観て最も痛感したことがあります。それは車を運転するときは、くれぐれも注意しなければならないことです。最近、高齢者による交通事故で幼い命が奪われる悲劇が相次いでいますが、わたしを含めて自動車のハンドルを握る者は、いつ何時、交通事故の加害者になるかもしれません。そのことを決して忘れてはならないと思います。また、たとえ人身事故を起こしてしまったとしても、絶対にその場から逃げたりせず、警察に通報しなければなりません。いくら逃げたとしても、今は日本中に監視カメラが設置されているので、この映画のようにスピード逮捕されるのがオチです。とにかく、「最高の日」はなかなか来なくても、「最悪の日」はいつでも来るかもしれないことを肝に銘じましょう。そう、それは明日かもしれないのです。