No.408
日本映画「武蔵-むさし-」を観ました。これまでの宮本武蔵のイメージが一変するような斬新な作品でした。史実に基づくリアルな武蔵を中心とした群像劇ですが、とにかく殺陣が素晴らしかったです。凄い映像でした。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「剣豪として名をはせた新免武蔵を題材にした時代劇。剣の達人として成長し宿敵との対決に挑むまでを、周辺の人々の動向も見つめた群像劇スタイルで活写する。メガホンを取るのは『蠢動-しゅんどう-』などの三上康雄。『ウルトラマンX』シリーズなどの細田善彦、ドラマ「暴れん坊将軍」シリーズなどの松平健、『将軍 SHOGUN』などの目黒祐樹をはじめ、水野真紀、若林豪、中原丈雄、清水紘治、原田龍二、遠藤久美子、武智健二、半田健人、木之元亮らが出演している」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「慶長9年。新免武蔵(細田善彦)は、剣術の名門である吉岡家の吉岡清十郎(原田龍二)に挑むため、京都を訪れる。父の無二斎を超えるため、かつて彼と対戦した清十郎に勝たねばならぬと意気込む武蔵は、その弟・伝七郎(武智健二)と吉岡一門数十名と激闘を繰り広げる。一方、豊前細川家の重臣・沢村大学(目黒祐樹)は所司代を訪ねる道中で佐々木小次郎(松平健)という修験者と出会う」
一条真也の映画館「貞子」で紹介した日本映画があまりにも期待外れだったため、口直しにとにかく何か違う映画を観ようと思って見つけたのが、この「武蔵-むさし-」でした。
いやあ、これまでの武蔵像を塗り替える斬新な内容で、映像も素晴らしかったです。ほとんど「カルト・ムービー」と言える異色作でした。久々に映画パンフレットを購入したのですが、その冒頭で作家の高橋克彦氏が「映画史に残る大傑作。」として、「圧倒的映像美。怒涛の剣戟戦。驚愕の人物造形。真実の武蔵が息づいている。剣とはなにか、生とはなにかを問い放つ。心底凄い作品。すべてに打ちのめされた」と大絶賛しています。わたしも高橋氏に同感です。
パンフレットの「かいせつ」には、こう書かれています。
「過去、何度も小説や映像化され、日本だけではなく、海外でも有名な剣豪、武蔵。剣によって己の人格を高めていく武芸者。果たして、そうだったのか?
『なぜ、武蔵は戦い続けたのか?』
『なぜ、吉岡一門は武蔵と戦ったのか?』
『なぜ、豊前細川家は佐々木小次郎を剣術指南として迎えたのか?』
『なぜ、佐々木小次郎は武蔵と戦ったのか?』
『なぜ、武蔵は勝てたのか?』
そして、『剣とはいかなるものなのか?』
『武蔵-むさし-』は、史実に基づくオリジナルストーリーで『本物の武蔵』と武蔵に関わる人物たちを描く本格正統時代劇映画。武蔵と、吉岡清十郎、吉岡伝七郎、吉岡一門との一乗寺下がり松、鎖鎌の宍戸、十字槍の道栄、佐々木小次郎との巌流島の決闘。
歴史のうねりのなか、武蔵、小次郎、吉岡家、豊前細川家、京の所司代、そして、女たち、それぞれの生きざまと正義が複層する緊迫感あふれる重厚なストーリー、ダイナミックな展開オールロケによる徹底したリアルな映像と殺陣、アクション。円熟の達人・佐々木小次郎に松平健ら主要12名の豪華キャスト。脚本、監督は、時代劇映画ファンに圧倒的な支持を受け、海外12カ国でも絶賛された『蠢動―しゅんどうー』の三上康雄。(海外タイトル : MUSASHI)」
人を斬って泣き叫ぶ武蔵、すでに老境に入った佐々木小次郎......すべてが、これまでの先入観を打ち砕く人物設定でしたが、「史実に基づく」と堂々と宣言しているだけに説得力がありました。小次郎を演じたのが松平健というのも驚きましたが、その小次郎を暗殺するために豊前細川家が武蔵を呼んできたという大胆な仮説を前面に出しています。わたしも小倉生まれで、今も小倉に住んでいますので、豊前小倉藩の歴史には少しは詳しいですが、この映画の仮説はおそらく史実であると思います。
後に「巌流島」と呼ばれた小倉の「舟島」で武蔵と小次郎は決闘しました。当時の年齢は武蔵は29歳でしたが、小次郎は出生年が不明のため定かではありません。しかしながら、武蔵よりも40歳程年上だったといわれています。小次郎は、キリシタンであったという説も根強いですね。映画では修験道の修行者でとしての山伏として描かれていましたが......いずれにせよ、小次郎という人物には謎が多いと言えます。
「武蔵-むさし-」では、なんといっても決闘シーンが素晴らしかったです。けっして武蔵を剣のスーパーマンとして描いているわけではなく、相手から斬られることの恐怖と闘いながら、必死で相手を斬っていく姿が描かれていました。相手を斬った後は尻餅をついたり、大声で泣き叫んだり、とにかくカッコ悪い武蔵のオンパレードです。
しかしながら、BGMもほとんどない戦闘シーンは非常にリアルです。鎖鎌の宍戸との闘いなど、最後は両者とも武器を手放して素手で取っ組み合い、馬乗りになって相手を殴ったりと、まるでUFCの試合を観ているようでした。
この映画では宮本武蔵がまるで殺人マシンのように描かれていますが、たしかにそういった一面があったことは否定できないにせよ、彼が書き残した『五輪書』の内容などを読むと、やはり崇高な哲学を持った超一流の武芸者であったと思います。武蔵の生まれについては諸説ありますが、現在の兵庫県西部にあたる播磨国の生まれという説が有力です。戦国時代後期から江戸時代初期に生きた剣豪ですが、武蔵はその時代に生きる様々な剣豪と戦って勝利を収め、「生涯無敗」と言われました。特に有名なのが、巌流島の決闘で知られる佐々木小次郎との対決です。武蔵の名声は、昭和の作家・吉川英治の『宮本武蔵』によって不動のものとなりました。
わたしは2013年のサンレーグループの新年祝賀式典の社長訓示で、武蔵の「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」という紹介しました。吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵が吉岡一門との決闘にたった1人で出かける際、ある神社の前を通りかかって武運を祈ろうとしますが、「神仏は崇拝するものであって、利益を願うものではない」と思って、そのまま通過するという場面があったと記憶しています。わたしは、このエピソードから「人事を尽くして天命を知る」という言葉を連想しました。
「武蔵-むさし-」の第二部は「二天」と名付けられ、武蔵が二刀流に開眼したくだりが描かれていました。それを見て、2014年1月28日に「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生と一緒に小倉の手向山に登って、二人で「二天一流」について大いに語り合ったことを思い出しました。
手向山公園の入口で
わたしたちが手向山に登った少し前に鎌田先生は、宮本武蔵が『五輪書』を書いた熊本・玉名の金峰山霊巌洞を訪れ、いたく感じ入られたそうです。そして、それ以来、武蔵に強い関心を抱かれていました。そのことを知ったサンレーグループの佐久間進会長から「このすぐ近くの手向山には、武蔵と小次郎の碑がありますよ」と聞かれたそうで、鎌田先生は「手向山に行きたいです」と言われました。わたしたちは28日の朝、松柏園ホテルで朝食をともにした後、車に乗り込み、手向山へと向かいました。
階段を上がる鎌田先生
山頂で関門海峡を望む
手向山は、わたしの自宅からもすぐで、歩いて15分くらいの距離です。わたしの自宅は小倉北区の赤坂2丁目ですが、手向山は赤坂4丁目です。高さ76メートルの山で、小倉北区と門司区の境界に位置します。ここは宮本武蔵を顕彰する小倉碑文があることで有名です。また、佐々木小次郎を顕彰する碑文もあります。毎年4月13日前後の日曜日には、手向山山頂の公園で、「武蔵・小次郎まつり」が開催されます。少年剣道大会を中心とした祭ですが、武蔵と小次郎の決闘(巌流島の決闘)が行われたとされる1612年(慶長17年)4月13日にちなんでいます。
宮本武蔵碑文
武蔵碑文の大意
武蔵碑文の説明板
佐々木小次郎碑文
小次郎碑文の説明板
Wikipedia「手向山」には、次のように手向山の概略が説明されています。
「宮本武蔵の死から9年後の1654年(承応3年)、小倉藩で筆頭家老をつとめていた武蔵の養子、宮本伊織が山頂から巌流島(船島)が見渡せる手向山山頂に養父の顕彰碑を建立した。この頃、伊織は小倉藩主小笠原忠真より手向山を拝領しており、宮本家代々の墓は武蔵顕彰碑のとなりに設置されていた。しかし明治時代、手向山が軍事要塞化されたさい、小倉碑文はとなりの延命寺山(赤坂山)に、宮本家代々の墓は手向山の麓に移設された。宮本伊織らの墓は今も手向山の麓にある」
巌流島を背景に
巌流島をデジカメで撮影する鎌田先生
わたしたちは手向山の山頂から関門海峡を眺め、武蔵と小次郎が決闘した巌流島(船島)を望みました。鎌田先生はそこで関門海峡に向かって法螺貝を吹かれました。ちょうど、その方角には巌流島があり、その先には源氏が平家を滅亡させた壇ノ浦があります。さらに巌流島の近くには世界平和パゴダがあります。巌流島および壇ノ浦という「戦」のシンボルとパゴダという「平和」のシンボルが同じ視界に入っている......わたしはこのことに非常に感動し、思わず合掌して心からの平和の祈りを捧げました。関門海峡に響け、平和の法螺貝! 映画「武蔵―むさしー」では、佐々木小次郎は山伏として描かれていました。鎌田先生の法螺貝の音は小次郎の霊に届いたかもしれません。
巌流島(中央の突端の島)のようす
関門海峡に響け、平和の法螺貝!
鎌田先生が主宰する「モノ学・感覚価値研究会 研究問答」に連載されているエッセイ「東山修験道」の第237回には次のように書かれています。
「吾は、これから、『宮本武蔵祭り』をやりたい、と思っているのだ。なぜかと言うと、わたしが棲んでいる左京区一乗寺には『一乗寺下がり松』というところがあり、ここで宮本武蔵は吉岡道場の吉岡清十郎たちと決闘し、撃ち殺したと言われている。もっとも、これは、吉川英治『宮本武蔵』の創作で、史実は不明である。が、わが砦の近くの瓜生山下の狸谷山不動院には宮本武蔵が修行したという滝があり、ここで武蔵は決闘前に滝に打たれ、『神は尊ぶが、神に恃まない』という心境を得たとされる。まあ、どうか、わからんけどね。そして、29歳との時、巌流島で佐々木小次郎と闘ったというわけだ。そこで、京都の一乗寺と小倉や下関の巌流島と熊本・玉名の金峰山霊巌洞の3点を切り結んで、『宮本武蔵』の武芸と思想を検証〜顕彰する『宮本武蔵祭り』を行ないたいと思っているのだ」
さて、武蔵は二刀流で有名ですが、鎌田先生はわたしに向かって、「社長業と作家業を両立させているあなたの生き方そのものが見事な二刀流ですよ」と言って下さいました。鎌田先生によれば、「仕事をする人」や「物事を深く考える人」は世の中に多くいますが、「物事を深く考えながら仕事をする人」は少ないそうです。それを両立できる人こそが「世直し」を実現できる人なのだとか。
そして、鎌田先生はわたしに「天地二刀流の開祖になりなさい」と言われたのです。「天地二刀流」とは天と地、太陽と月、そして生と死を結ぶワザだそうです。それはそのまま「産霊(むすび)」そのものであると言えますが、鎌田先生からのミッションをわたしは慎んで拝命しました。リアルな宮本武蔵を描いた異色の映画「武蔵―むさしー」を、ぜひ鎌田先生に鑑賞していただきたいですね!