No.417
日比谷のTOHOシネマズシャンテで映画「マーウェン」を観ました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「心身に傷を負いながらもカメラマンとして認められた男性の実話を、ロバート・ゼメキス監督が映画化したヒューマンドラマ。リンチを受けて後遺症に苦しむ主人公が、フィギュアの撮影を通して再生していく姿を描き出す。主演を『フォックスキャッチャー』などのスティーヴ・カレルが務め、レスリー・マン、ダイアン・クルーガー、メリット・ウェヴァーらが共演を果たした」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「マーク・ホーガンキャンプ(スティーヴ・カレル)は、5人の男に暴行され、9日間の昏睡状態から目覚めたときには自分の名前がわからず、満足に歩くこともできなくなっていた。脳の障害とPTSDを負ってセラピーを受けられないマークは、リハビリのためにフィギュアの撮影を始める。自宅の庭に第2次世界大戦時の村という設定のミニチュアを作って撮ったフィギュアの写真が評価されるようになり、やがてマークは暴行事件の裁判で証言することを決める」
この映画は、ヘイトクライム被害者の実話に基づいています。一条真也の映画館「ある少年の告白」で紹介した映画と同じく、観客にLGBTQについての理解を求める内容だと思いました。もっとも、「ある少年の告白」の場合は性同一性障害がテーマでしたが、「マーウェン」の場合は男性がハイヒールを履くという女装趣味が重要な主題になっています。ハイヒールといえば、ブログ「Lemon」で紹介した名曲のMVを思い出します。このMVには、無表情で踊る謎めいた女性ダンサーが登場します。彼女の存在に周囲の人々が気づいていない様子であることから、彼女はすでにこの世の者ではない存在、すなわち霊であることがわかります。教会の椅子に腰かけ歌を捧げる米津玄師も、目の前まで女性ダンサーが近づいているのに無反応です。そして、彼はなんとハイヒールを履いているのです。
男性がハイヒールを履くというのは異様な光景のように思えますが、音楽ライターの蜂須賀ちなみ氏は、以下のように述べています。
「切り分けた果実を分け合うように、米津は、その女性と同じハイヒールを履いていた。諸説あるが、ハイヒールは中世のヨーロッパで汚物を踏まずに歩くために生み出された靴であり、そうではなくとも、現代では、毅然とした姿勢で歩いていく女性を表すモチーフとして様々な作品内で用いられている。ゆえに米津の履くあのハイヒールは、『あなた』のことを忘れられない気持ちと悲しみに塗れた道の上でも『歩いていかなければ』というまっすぐな意思、両者の間における葛藤の象徴なのではないだろうか」
ハイヒールを履く理由は?(「Lemon」MVより)
「マーウェン」に話を戻しますが、イラストレーターのマーク・ホーガンキャンプは、地元のバーで女装趣味があることを5人の若者に明かします。そのため、店の外で彼らから襲撃され、瀕死の重傷を負ってしまいます。そのダメージは大きく、脳の障害により成人後の記憶をほぼ失うのでした。また、手の震えとPTSDで仕事ができず、公的補助も打ち切られます。生きるために、マークは自己流のセラピーを編み出すのですが、それは自分や友人たちに似たアクションフィギュアとバービー人形を買い集め、第二次大戦下のベルギーの架空の村「マーウェン」を舞台に、マーク自身を投映したホーギー大尉と女性闘士たちがナチス親衛隊と戦う姿をカメラで撮影するというものでした。
このマークの自己流セラピーについて、映画評論家の高森郁哉氏は「映画.com」で、「本作の白眉はやはり、俳優たちをモーキャプしてからフィギュアのルックにCG描画されたキャラクターたちが、戦闘やロマンスを繰り広げるマーウェンでのシークエンスだろう。マークによるマーウェンの創造は、箱庭療法にも似てミニチュアの空間に自らの心象を投映した物語を構築する行為であり、再び大人になり自己を回復するための通過儀礼でもある。それが実写で映像化された世界は、観る者を童心に返らせ、ノスタルジーを喚起する」と述べています。
たしかに、わたしも幼少の頃は人形遊びに興じたものですが、今から思えば濃密で魅力的な時間でした。ウルトラマンや仮面ライダーやタイガーマスクのソフビ人形、マジンガーZの超合金フィギュア、さらには変幻自在のサイボーグ1号やキングワルダー1世の半透明で体内が透けた人形を使って、自分なりの物語を紡いでいったものです。
フィギュアや人形を使って傷ついた心を慰めるマークの姿を見て、わたしは一条真也の読書館『対象喪失』で紹介した本の内容を思い出しました。1979年に刊行された本ですが、今でも増刷され続け、多くの人々に読み継がれている名著です。故人である著者は日本のフロイト研究の第一人者であり、精神医学の臨床医でもありました。同書の「付記」の最後には、「移行対象」について以下のように書かれています。
「移行対象――対象喪失の際に、人間の心が頼りにする重要な対象は、移行対象である。たとえばそれは人形であり、ぬいぐるみであり、ペットであり、ひいては芸術作品である。これらは本来は物体であり、その意味では失う恐れのない不死の存在である。この物的な対象について、人間的な対象に対するのと同様の愛着や欲望を向け、それを頼りにする心理は、一種の錯覚現象である。しかし人間は、この錯覚によってつくりだした移行対象とのかかわりによって、人間的対象によってはえられない全能感をみたし、永遠の占有感を味わう。しばしばそれは遊びの世界を形成する手段となる。この移行対象の世界をもつことによって、人びとは対象喪失の悲哀を、和らげ推敲し、コントロール可能なものに仕上げていく」
この「ぬいぐるみ」や「ペット」や「芸術作品」でいったん満たされぬ愛着や欲望を緊急避難させておいて、ゆっくりと「喪の仕事」を行うという方法は、きわめて実践的です。著者は「この点について本書は、部分的に取りあげる機会はあったが、もっと組織的な考察を行なうことによって、対象喪失に関する新たな世界が提示されるであろう」と書いていますが、40年近くが経過した今では、何らかの新しい学問的成果も得られているはずです。上智大学グリーフケア研究所の特任教授で宗教哲学者の鎌田東二先生にそのことをお尋ねしたら、心理学者のウィニコットなどがまさに研究した問題だそうです。
「マーウェン」という架空の村で繰り広げられる日々を撮影したマークの写真は不思議な魅力を放ちます。彼の写真はニューヨークで個展が開かれるほど評判を呼ぶのですが、そうした経緯を収めたドキュメンタリー「Marwencol」がテレビ放映されます。それを偶然目にしたのが、ロバート・ゼメキス監督でした。
ゼメキス監督の代表作といえば「フォレスト・ガンプ 一期一会」(1994年)です。人より知能指数は劣るけれど、純真な心と周囲の人々の協力を受けて数々の成功を収めていく「うすのろフォレスト」の半生を、アメリカの1950~80年代の歴史を交えながら描いたヒューマンドラマで、トム・ハンクスが主演し、第67回アカデミー賞「作品賞」ならびに第52回ゴールデングローブ賞「ドラマ部門作品賞」を受賞しました。「フォレスト・ガンプ 一期一会」も、「マーウェン」も、知的障害のあるイノセントな主人公と周囲の人々との交流が描かれており、そこには人間への限りない愛情が溢れています。なんとも独特の味わいを持つ映画で、好き嫌いは分かれるでしょうが、切実な悩みを抱えている人にぜひ観てほしいですね。