No.422
シネスイッチ銀座でレバノン映画「存在のない子供たち」を観ました。わたしは、こんなにも切なくて悲しい映画を観たことがありません。そのグリーフのあまりの巨大さに、打ちのめされました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『キャラメル』などのナディーン・ラバキー監督が、中東の社会問題に切り込んだドラマ。主人公の少年が、さまざまな困難に向き合う姿を描く。ラバキー監督も出演するほか、ゼイン・アル・ラフィーア、ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャー・バンコレらが出演。第71回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したほか、第91回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「12歳のゼインは、中東のスラムで両親とたくさんの兄弟姉妹と住んでいるが、親が彼の出生届を出さなかったため身分証明書を持っていなかった。彼は11歳の妹と仲が良かったが、知人の年上の男性と無理やり結婚させられてしまう。怒ったゼインは、家を飛び出して職を探そうとするが、身分証明書がないため仕事ができなかった」
主人公のゼインは「存在のない子供」です。両親が出生届を出さなかったからです。赤ん坊のヨナスも存在のない子供」です。母親のラヒルが不法移民だからです。どちらも法的に存在していないわけで、これほど人間の尊厳が損なわれている状況はありません。家出してラヒルに拾われたゼインがヨナスの子守りをしていたとき、ラヒルが警察に拘束され、帰れなくなります。お金もないのに、ゼインは必死でヨナスの世話をします。12歳の少年がより弱い存在である赤ん坊を守る姿を見て胸が痛みますが、わたしはジブリのアニメ「火垂るの墓」(1988年)に登場する、戦争によって両親を失った幼い兄妹を思い出しました。同作品は、高畑勲監督のリアルかつ繊細な演出により、兄妹の過酷な運命と孤独な心情が見事に活写されていました。
また、日本映画「誰も知らない」(2004年)も連想しました。主演の柳楽優弥が史上最年少の14歳という若さで、2004年度カンヌ国際映画祭主演男優賞に輝いた話題作です。是枝裕和監督の出世作で、実際に起きた、母親が父親の違う子供4人を置き去りにするという衝撃的な事件を元に構想から15年、満を持して映像となりました。YOU扮する奔放な母親の失踪後、1人で弟妹達の面倒をみる長男の姿は、家族や社会のあり方を問いかけました。
子供たちをそのような状況に追いやる大人たちには強い怒りを感じます。彼らは、子供を労働力としかみなさず、愛も教育も与えません。そして、欲望の向くままにセックスを繰り返し、きちんと育てられる見込みもないのに次から次に子供を産むのでした。ゼインは、自分を生んだ罪で「両親を告訴する」とテレビで発言して、大きな注目を集めまます。そして裁判所では、両親に向けて「世話できないなら産むな!」と言い放ちますが、これは世界中のネグレクト(育児放棄)の「毒親」に向けた魂の叫びでした。
この映画では、子供の人身売買、不法移民をはじめとした多くの社会問題が描かれていますが、わたしが最も心を痛めたのは少女の強制結婚です。ゼインの11歳の妹は、家族の生活のために大人の男と強制的に結婚させられ、妊娠したあげく、大量の出血をして命を落とすのでした。彼女は病院には担ぎこまれますが、診療も治療も受けることはできませんでした。身分証明書がないからです。この妹の死を知ったゼインは怒り狂って、妹を死なせた彼女の夫をナイフで刺すのでした。あまりにも悲しい事件でした。
わたしは、レバノンの事情は知りませんでしたが、数年前にインドに行ったとき、過酷な環境にある少女たちがいることを知りました。年端もいかない15歳以下の少女が年上の男と強制的に結婚させられているのです。世界保健機関が正式に発表した数字によれば、15歳以下で結婚を強要される少女たちは、なんと毎年1420万人だといいます。この低年齢結婚はインドを中心に、中東やアフリカにも多く見られます。これらの地域では、8歳から15歳の少女が年上の男性と強制的に結婚させられているのです。そして、多くの少女が結婚を理由に教育の機会を奪われています。
インドでは早過ぎる出産の強制や、それによる死亡例 も多く報告されています。日本のように、七五三や成人式や結婚式で女の子が綺麗な着物を着ることができるとは、なんと幸せなことでしょうか。わたしは、そのように思いましたが、過酷な運命を生きる少女は、インドやレバノンだけでなく、きっと世界中にいるのでしょうね。出生届も身分証明書もない人々も、中国をはじめ多くいることでしょう。これらの人々の「人間の尊厳」というものを考えたとき、暗澹たる気分になります。この映画のラストシーンは、ある登場人物の笑顔で終わるのですが、わたしは心から救われた思いがしました。
それにしても、ゼイン役のゼイン・アル=ハッジはハンサムな少年でした。レバノンに逃れて来たシリア難民だそうですが、赤ん坊のヨナスとともに、「存在のない子供たち」というタイトルに反するように、「存在感のある子供たち」を見事に演じていました。映画評論家の矢崎由紀子氏は「映画.com」で、ゼイン・アル=ハッジについて、「過酷な日常をたくましく生き抜きながらも、自身の非力さと限界に突き当たり、涙する場面が切なさをかきたてる。彼を筆頭に、ほとんどの出演者は役柄と似た背景を負っているという。これほどのリアルな存在感に圧倒されたのは、実在のストリート・チルドレンを起用した『サラーム・ボンベイ!』以来かもしれない』と述べています。
『葬式は必要!』(双葉新書)
さて、「人間の尊厳」を根底から問う映画「存在のない子供たち」を観ているうちに、わたしは葬儀のことを考えました。葬儀とは「人間尊重」の最たる営みだからです。孤独葬というものがあります。誰も参列者のいない葬儀のことです。わたしは、いろんな葬儀に立ち会いますが、中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀が存在するのです。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じです。わたしは、葬儀が「人間の尊厳」に直結していることを『葬式は必要!』(双葉新書)で訴え、大きな反響がありました。
『永遠葬』(現代書林)
また、『永遠葬』(現代書林)において、孤独葬が「人間の尊厳」はもちろん、「実存的不安」にまでつながっていることを述べました。孤独葬は、「実存的不安」の問題そのものです。つまり、その人の葬儀に誰も来ないということは、その人が最初から存在しなかったことになるという不安です。「無の恐怖」と言い換えてもいいでしょう。葬儀を行わないで遺体を火葬場で焼き、遺灰もすべて捨ててしまう「0葬」は、1人の人間がこの世に生きた証拠をすべて消し去ってしまう行為です。「0の恐怖」とは「無の恐怖」のことなのです。逆に、葬儀に多くの人々が参列してくれるということは、亡くなった人が「確かに、この世に存在しましたよ」と確認する場となるのです。出生届や身分証明書が「生きた証」なら、葬儀も「生きた証」です。葬儀を行わないということは、出生届を出さないことに相当する最も「人間の尊厳」を損なう行為なのです。
シネスイッチ銀座で見つけたポスター
そんなことを考えながら、シネスイッチ銀座の廊下を歩いていたら、壁に「私のちいさなお葬式」という映画のポスターを発見しました。2017年のロシア映画だそうですが、「映画.com」には以下の内容紹介があります。
「突然の余命宣告を受けた73歳の女性が自身のお葬式計画に奮闘する姿を描いたロシア映画。村にただひとつの学校で教職をまっとうし、定年後は気のおけない友人たちと大好きな本に囲まれ、慎ましくも充実した年金暮らしを送っている73歳のエレーナ。そんな彼女が病院で突然の余命宣告を受けてしまう。都会で仕事に忙しい毎日を過ごし、暮らし5年に一度しか顔を見せないひとり息子のオレクには迷惑はかけたくないと、自分で自分の葬式の準備をスタートさせる。惨めな死に方だけはしたくない彼女の願いは、お葬式に必要な棺や料理の手配を済ませ、夫が眠るお墓の隣に埋葬されること。親友やかつての教え子たちの協力もあり、彼女はお葬式の準備を順調に整えていく。しかし、完璧かに思えたエレーナのお葬式計画に想定外の事態が持ち上がってしまい......」
この「私のちいさなお葬式」は今年の11月公開だそうですが、これは必ず観なければ!