No.453


 日比谷にあるTOHOシネマズシャンテでフランス映画「男と女 人生最良の日々」を観ました。ずっと観たかった映画です。前作の「男と女」「男と女Ⅱ」も大好きな作品ですが、今回の完結編(?)も素晴らしかったです。ハリウッド映画では絶対にありえない老人同士の会話と回想のみで名作が完成したこと自体が奇跡的であり、大いに感動しました。また、わたし自身の人生の修め方についても想いを馳せることができました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した名作ロマンス『男と女』の53年後を描いたラブストーリー。かつて熱い恋に落ちた男女のその後の人生を描く。メガホンを取った『愛と哀しみのボレロ』などのクロード・ルルーシュ、主演を務めた『ローラ』などのアヌーク・エーメと『愛、アムール』などのジャン=ルイ・トランティニャンら前作の面々が集結した」

 ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「レーシングドライバーとして活躍し、現在は老人ホームで暮らしているジャン・ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、記憶があいまいになりつつある中で、妻に自殺されたころに出会って強く惹かれ合ったアンヌ(アヌーク・エーメ)という女性のことだけは忘れていなかった。アンヌを追い求めるジャンの姿を目の当たりにした息子は、離れてから数十年も経っている二人を再会させるため、彼女を捜そうと思い立つ」

 もともと、わたしは「男と女」(1966年)という映画が大好きでした。共にパートナーを亡くした男と女が子供を通して出会い、過去にとらわれながらも互いに惹かれ合う姿を描いていますが、有名な「ダ~バ~ダ~、ダバダバダ、ダバダバダ♪」というフランシス・レイ作曲のテーマ曲とともに、「こんなロマンティックな恋愛がこの世にあるのか!」と完全に魅了されました。主演女優のアヌーク・エーメの美しさは神々しいまででしたし、さまざまなシーンを映し取る巧みなカメラワークも忘れられません。

 その20年後、「男と女Ⅱ」(1986)が公開されました。運命の出会いから20年ぶりに再会した2人。今では映画のプロデューサーとして成功しているアヌーク・エーメ演じるアンヌは、自分の娘を主演に立てて、かつての2人の愛の姿を映画として製作しようとします。そして、いまだにレーサー稼業を続けるルイとの愛も再び燃えあがろうとするのでした。前作ほどではないですが、やはり名シーンに溢れた思い出の映画です。

 そして今回、「男と女 人生最良の日々」を観て、わたしは猛烈に感動しました。ルルーシュ監督は勿体ぶって、なかなか主題歌の「ダバダバダダバダバダ~♪」を流してくれませんでしたが、焦らされ続けた末についに主題歌が流れたのはルイとアンヌが53年ぶりに2人でドライブを楽しむシーン。もう感動のあまり涙が出てきました。映画に出てくるセリフも含蓄があり、冒頭には「最良の日々は、この先の人生に訪れる」というヴィクトル・ユゴーの金言が紹介され、老いたルイの「死は納めなければならない税金である」とか、アンヌの「1人のときは死ぬのが怖くなる。2人になると、相手が死ぬのが怖くなる」という「死」についての名言が登場しました。ちょうど今、わたしは『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)という本の校正を行っているところなので、ひときわ心に沁みました。それにしても、人生を終える直前に最愛の女性と再会できたルイがうらやましくて仕方がありません!

 あと、この映画を観て、わたしは「やはりアヌーク・エーメは美しい!」と思いました。この映画には、わたしの大好きなモニカ・ベルッチも出演しています。確かに彼女も美しく、魅力的なのですが、アヌーク・エーメの神々しさには敵いません。アヌーク・エーメは現在なんと87歳ですが、年齢を重ねても美しいものは美しい。彼女はすでに70年以上のキャリアを誇る、フランスというよりもヨーロッパを代表する女優の1人です。欧米各国で各賞を獲得するなど国際的にも高く支持され、「映画史上最もセクシーな女優の1人」とも評されました。晩年期に入った近年も、各地で名誉賞を受賞しています。

 Wikipedia「アヌーク・エーメ」の「来歴」には、「1932年4月27日、パリで生まれた。両親はともにユダヤ系の舞台俳優(コメディ俳優)。パリ9区のミルトン通り小学校に通っていたが、ユダヤ人迫害が激しくなってきたので、両親により送られたアキテーヌ地方のコニャック近郊バルブジュー=サン=ティレールで育った。ナチス・ドイツによるフランス占領期には、黄色の星を胸に身に付けるのを避ける為、母親の姓"デュラン"を名乗った。モルジヌの寄宿学校 (パンショナ, Pensionnat))に入り、この頃ロジェ・ヴァディムとも知り合った。1947 年、14歳の時にパリでその美貌からスカウトされ、アンリ・カレフ監督の『密会 (La Maison sous la mer) 』(1947年)に出演し、女優としてデビューした。その際、この作品の役名"アヌーク"を彼女が芸名に用いた。続いて、お蔵入りし未発表作品となったデビュー2作目 『La Fleur de l'âge 』(1947年)において、1作目から脚本で関わっていた詩人ジャック・プレヴェールが、芸名に"エーメ"を付け加えることを提案した。高校課程にあたるリセ課程はイギリスで学び、さらに演劇学校に通った」と書かれています。

 続けて、エーメの「来歴」には、こう書かれています。
「1958年の『モンパルナスの灯』ではアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)や『8 1/2』(1963年)やジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)などに出演した。1966年、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』でヒロインを演じ、ゴールデングローブ賞『主演女優賞』と英国アカデミー賞『外国女優賞』を受賞し、『アカデミー主演女優賞』にもノミネートされた。1980年には『Salto nel vuoto』でカンヌ国際映画祭『女優賞』を受賞した。 晩年期に入ると、2002年 セザール賞『名誉賞』、2003年 ベルリン国際映画祭『金熊名誉賞』などの各名誉賞を受賞している」

 クロード・ルルーシュ監督は、1937年パリ生まれ、当年82歳です。Wikipedia「クロード・ルルーシュ」の「来歴」には、こう書かれています。
「パリ9区のユダヤ系アルジェリア人の家庭に生まれる。1960年に初の長編『Le propre de l'homme』を撮るが、『クロード・ルルーシュという名を覚えておくといい。もう二度と聞くことはないだろうから』と『カイエ・デュ・シネマ』誌に書かれるなど評論家からは酷評され、その後フィルムを破棄した。 その後も映画監督として活動しながら、PVの前進でもあるジュークボックスでかけるスコピトンの監督としてジャンヌ・モロー、クロード・ヌガロ、ジョニー・アリディ、ダリダ、クロード・フランソワらのシングル盤の映像を量産する。 彼が無名でスポンサーが付かず自主製作した、1966年公開の『男と女』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールとアカデミー外国語映画賞を受賞、ようやく日の目を浴びた」
クロード・ルルーシュも、アヌーク・エーメも、ともに「パリのユダヤ人」だったのですね。これは知りませんでした。

 続けて、ルルーシュの「来歴」には、こう書かれています。
「1968年の『白い恋人たち』は、同年のカンヌ国際映画祭で上映される予定であったが、この年の五月革命で映画祭自体が中止となった。また、映画自体は成功したものの、評論家の多くが五月革命の支持者で、ド・ゴール政権下のオリンピックという権威主義的と看做される題材を監督したために、『体制派』というレッテルを長く貼られ、正当な評価を受けられない時期が続いた。40年後の2008年、第61回カンヌ国際映画祭クラシック部門のオープニング作品として上映され、会場にはルルーシュ本人も訪れた。一方で、自作以外の製作者としても活躍し、ジャン=ダニエル・ポレの異色作『SF惑星の男』(1968年)、アリアーヌ・ムヌーシュキンの大作『モリエール』(1978年)なども手掛けている」

 さて、「男と女 人生最良の日々」を観たわたしは、老人ホームで暮らす主人公ルイが過去の記憶が抜け落ちている場面が印象的でした。そして、 一条真也の映画館「アリスのままで」で紹介したハリウッド映画を連想しました。主演のジュリアン・ムーアが第87回アカデミー賞で主演女優賞を受賞した傑作です。若年性アルツハイマー病と診断された50歳の言語学者の苦悩と葛藤、そして彼女を支える家族との絆を描く人間ドラマです。この映画を観たとき、わたしは究極のエンディングノートを目指して作った『思い出ノート』(現代書林)について考えました。エンディングノートとは、自分がどのような最期を迎えたいか、どのように旅立ちを見送ってほしいか・・・それらの希望を自分の言葉で綴る記述式ノートです。各種のエンディングノートが刊行されて話題となっていますが、その多くは遺産のことなどを記すだけの無味乾燥なものであり、そういったものを開くたびに、もっと記入される方が、そして遺された方々が、心ゆたかになれるようなエンディングノートを作ってみたいと思い続けてきました。また、そういったノートを作ってほしいという要望もたくさん寄せられました。
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思い出ノート』(現代書林)



 そこで、わたしは『思い出ノート』を作り、「思い出」によって人生を修めるという生き方を提案したのです。その中には、「今までで一番楽しかったこと」ベスト5、「今までで一番、悲しかったこと、つらかったこと」ベスト5、「子どもの頃の夢・あこがれていた職業・してみたかったこと」、「今までで最も思い出に残っている旅」、「これからしたいこと」、そして「やり残したこと」ベスト10といった項目も特徴的です。そして、「生きてきた記録」では、大正10年(1921年)から現在に至るまでの自分史を一年毎に記入してゆきます。参考として、当時の主な出来事、内閣、ベストセラー、流行歌などが掲載されています。こういったアイテムをフックとして、当時のことを思い出していただくわけです。

 そして、そのフックの中には映画が入っています。わたしの場合、将来、認知症などになったとしたら、人の名前や顔は忘れてしまうのではないかと思います。でも、何かの映画を観たとき、その映画を一緒に観た人だけは思い出せるような気がします。それぐらい、映画というのは役者、ストーリー、映像、そして音楽などからなる総合芸術であり、人間の記憶の深い部分を刺激する力を持っていると思います。
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死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)



 拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)において、わたしは映画とは「時間を生け捕りにする芸術」であると述べました。流れ去る時間をそのまま「保存」するからですが、「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながります。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。しかし最近、映画そのものがタイムマシンであると思えてきました。思い出の映画を観たとき、人間の大脳はタイムマシンと化して、なつかしい「あの頃」に連れて行ってくれるのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。映画とは思い出そのものなのです!