No.474


 映画「グッバイ、リチャード!」をヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。渋谷はちょっと苦手なのですが、ここでしか上映されていないこの映画をぜひ観たかったのです。なぜなら、「死の不安」を乗り越えるためのグリーフケア映画だからです。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「余命宣告を受けた大学教授の生きざまをジョニー・デップ主演で描く人間ドラマ。『ハート・ロッカー』などのグレッグ・シャピロがプロデューサーを、『グッバイ、ケイティ』などのウェイン・ロバーツが監督を務め、人生の終わりをどう生きるかという普遍的なテーマをユーモラスにつづる。共演には『レイチェルの結婚』などのローズマリー・デウィット、『ビッグ・アイズ』などのダニー・ヒューストン、『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』などのゾーイ・ドゥイッチらがそろう」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「美しい妻、娘と共に幸せに暮らしていた大学教授のリチャード(ジョニー・デップ)は、ある日余命180日であることを告げられ、さらに妻の不倫まで発覚する。残りの人生を好きなように生きると決めた彼は遠慮なく物を言い、授業中でも酒やマリファナを楽しむように。ルールや立場にとらわれない生き方に喜びを見いだしたリチャードの型破りな言動は、周囲にも影響を与えていく」

 いやあ、この映画、本当に身につまされました。主人公のリチャードを演じているジョニー・デップはわたしと同じ57歳なのですが、冒頭からいきなり肺がんのステージ4であると医師から告げられ、しかも余命は半年だというのです。リチャードは、もちろんショックを受けます。生きる気力を失って自暴自棄になり、大量の酒を飲み、肺がんなのにタバコを吸い、マリファナにまで手を出します。大学教授なので知性はあるのでしょうが、「死」という絶対の現実を前にして混乱し、怯えてしまうのです。わたしが研究・実践しているグリーフケアには「死別の悲嘆を軽減すること」と「死の不安を乗り越えること」の2つの目的があります。リチャードの場合は後者ですが、この映画がグリーフケア映画であることがわかりました。

 ただでさえ余命半年の現実に押し潰されそうになっているリチャードに、妻がなんと不倫を告白します。相手は、リチャードが教鞭を取っている大学の学長でした。妻から告白されるまで、すでに夫婦の関係は冷え切っていたのですが、リチャードはさらに絶望の底に落とされます。この学長というのが、じつに嫌な男なのですが、彼から招待されたある晩餐会で、リチャードは強烈なしっぺ返しをします。そのシーンは観ていてスカッとするもので、大いにカタルシスを得ました。思うに、映画というのは、やられっぱなし、いじめられっぱなし、ハメられっぱなしでは、観客のストレスが溜まるばかりで健康に良くないです。フジテレビの「スカッとジャパン」ではありませんが、やはり最後にはカタルシスを得られるほうがいいですね!

 さて、余命宣告&妻の不倫告白のダブル・ショックを受けたリチャードは、大学の英文学の講義にも身が入りません。それでも、彼は学生に教えることしか、することがないのです。自分に残された時間の少ないことを悟ったリチャードはおざなりの講義をすることを良しとせず、「この講義に本当に興味があるヤツだけが受けろ。それ以外のヤツは最低限の単位はやるから教室から出ていけ」と言って、ほとんどの学生を追い出してしまいます。わたしも大学で教鞭を取っている身なので、これは一度は言ってみたいセリフですね。しかも、少数精鋭になったリチャードの英文学講義は密度の濃い内容になります。彼が示唆深い言葉を吐くたびに、学生たちの目が輝きます。この映画の講義シーンは名言の宝庫なのですが、特に「人生とは、一瞬ごとに物語を紡いでいるようなもの。どうせなら、読んで面白い物語にしたいものだ」というリチャードのセリフが印象的でした。

 また、リチャードは学生たちに「自分はこれまで何もわかっていなかった」と告白し、自身が「死すべき運命にあること」を知り、「死を抱きながら生きること」で生が充実するのだと語ります。要するに「メメント・モリ(死を想え)」ということでしょうが、さらに「ただ生きる」のではなく「善く生きる」ことの大切さを説くのですが、リチャードがまるでソクラテスに見えてきました。そんなリチャードは自暴自棄の不良性も相まって恐ろしく魅力的な中年となり、女子学生にも男子学生にもモテます。デヴォン・テレルが演じる男子学生は、リチャードにホモセクシャルな視線を向けます。「LGBT」の世界ですが、リチャードの娘もレスビアンで同性の恋人を愛するのでした。リチャードはそんな娘の生き方を認め、男子学生の自身への想いも受け止めます。「死」を前にすると、「愛」に区別はなくなるのかもしれません。

 それにしても、リチャードを演じるジョニー・デップの渋いこと! そして、カッコいいこと! なんて、色気があるのでしょうか! これまで彼は、「シザーハンズ」のエドワード・シザーハンズ、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウ、「チャーリーとチョコレート工場」のウィリー・ウォンカ、「アリス・イン・ワンダーランド」のマッドハッターといった、とにかく異形の者というか、普通の人間ではないアクの強いキャラクターを演じることが多かったですが、今回の「グッバイ、リチャード!」では等身大の役をナチュラルな感じで演じています。とはいっても、チョイ悪の大学教授なので渋くてカッコいいのですが、余命&妻の不倫というダブル・グリーフによって、その表情には常に影があります。その影がまた、そこはかとない色気を醸し出しています。しかし考えてみれば、人間とは、常に何かしらの悲しみを漂わせながら生きる存在なのかもしれませんね。
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わが同級生たち(日経電子版より)



 ジョニー・デップとわたしが同い年であることはすでに述べました。わたしは、同年齢の俳優が出演している映画はなるべく観るように努めています。日経電子版のコラム「誕生日には同級生のことを考える」にも書いたように、わたしは誕生日を迎えると、いつも同級生たちのことを考えます。わたしは1963年(昭和38年)生まれです。同じ生年でまず頭に浮かぶのは、俳優の唐沢寿明さん、加藤雅也さん、お笑いコンビ「ダウンタウン」の浜田雅功さん、松本人志さん、作家の京極夏彦さん、重松清さん、イラストレーター・作家・俳優としてマルチに活躍するリリー・フランキーさん、アナウンサーの宮根誠司さん、プロ野球・福岡ソフトバンクホークス監督の工藤公康さん、それからジョニー・デップ、ブラッド・ピットといった海外の大物俳優も同じ年の生まれなのです!
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死ぬまでにやっておきたい50のこと



 なぜ、この人たちを覚えているかというと、わたしは同級生たちの活躍を励みにしているからです。現在はインターネットを使えばこうした情報が手軽に手に入ります。紳士録などをひもとくなどという手間はかかりません。有名人ではありませんが、会社を経営していたり、大企業の重役になったりした大学の同級生がいます。彼らの活躍を会社のホームページなどでときどきチェックしながら、わたしは自分の励みにしています。世の中には、同級生の成功に強いジェラシーを抱く人もいるようです。同じ年齢であるがゆえに「自分は彼のように成功していない」と、コンプレックスを刺激されるからかもしれません。しかし、それはあまりにも寂しい話ではありませんか。同級生の活躍に刺激を受けて、「あいつも頑張っているな。オレも負けないぞ」と思う。これが同級生のいいところでしょう。そのことを拙著『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)にも書きました。



 さて、この「グッバイ、リチャード!」は、わが同級生であるジョニー・デップの主演デビュー30周年というメモリアルイヤーを飾る記念すべき作品です。メガホンを取った新鋭ウェイン・ロバーツ監督は、自身の体験からストーリーの着想を得たといいます。また、主人公リチャードのキャラクター造形には「15年後の⾃分を想像して、僕の悪い部分と良い部分を当てはめてみた」と明かしています。「なぜ彼が⼈⽣の終末にクレイジーな⾏動を始めたのかを考えるうちに、⾃分⾃⾝の⽣き⽅も改めようと思えた。⾃分で⽣み出したキャラクターに、⼈⽣は⼀度きりだと⾔うことを再認識させられました」と語っています。そう、人生は一度きりであり、わたしたちはその一度きりの人生を豊かなものにしたいものです。そもそも、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。
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 いま、死を「人生の卒業」と表現しましたが、これまで多くの聖人や哲人や賢人たちが、死をさまざまにとらえ直してきました。わたしは、グリーフケアの講義で「死をとらえなおす」という話をするのですが、そこでは死を「帰天」「別の世界(天国・極楽)への移行」「苦悩からの解放」「永遠の命の獲得」「見えない存在(神・仏・祖霊)への変容」などという考えを紹介します。どの考えを選択し信じるかは、その人の自由です。要するに、「死」=「消滅」と考えず、ある意味で「陽にとらえる」ことが大切なのではないでしょうか。もちろん、それは「自死」を肯定するといった問題とはまったく別次元にあります。
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人生の修め方』(日本経済新聞出版社)



 いずれにせよ、死生観というものを持つことが大事です。拙著『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)にも書きましたが、老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。わたしは、同書で「豊かに老いる」そして「美しく人生を修める」ヒントのようなものを書きました。最後に、わたしがもしリチャードのように余命宣告を受けたとしたら、少しでも若い人と話がしたいです。その意味で、学生たちと語り合えたリチャードは幸せでした。それから、友人やお世話になった方々に会いに行きたいです。それから、まだ訪れたことのない世界中の聖地や絶境にも行ってみたいです。もちろん、大好きなお酒を仲間と一緒に飲んで、カラオケも歌いたいです。でも、それらの行為はコロナ禍ですべて不可能に近くなっています。コロナ禍にあっては、人生を修める活動である「修活」も満足にできないことに気づいて、愕然としました。「いま、死ぬわけにはいかないな」というのが正直な気持ちですが、そんなことを言っても人生、何が起こるかわかりません。せめて、リチャードの言うように、「善く生きる」ことを心がけたいと思います。