No.481
映画「フェアウェル」を観ました。
第77回ゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞し、外国語映画賞にノミネートされた話題作です。これまで映画館で何度もこの映画の予告編を見て、人生を修める「修活」がテーマだと知っていましたので、鑑賞を心待ちにしていました。入魂のレビューを書こうと思っていましたが、残念ながら期待外れでした。中国人の現在の死生観を知るという意味では参考になりましたが、内容的にはつまらなかったです。
ヤフー映画の「解説」には、「中国系アメリカ人のルル・ワンが監督を務め、余命わずかな祖母と親戚が過ごす日々を描いた人間ドラマ。『ムーンライト』など数々の話題作を送り出してきたスタジオ『A24』が携っている。祖母思いの孫娘を『クレイジー・リッチ!』などのオークワフィナが演じるほか、ドラマシリーズ『24TWENTY FOUR』などのツィ・マーらが出演」と書かれています。
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「末期がんを患う祖母のため、祖国を離れて海外で暮らしていた親戚一同が、従兄弟の結婚式を理由に中国に戻ってくる。ニューヨークで育ったビリー(オークワフィナ)は、祖母が残りの人生を悔いなく過ごせるように病状を本人に明かした方がいいと主張するが、両親を含めたほかの親族たちは、中国では助からない病気は本人に告げない伝統があると反対する」
この映画の最大の欠点はラスト。意外な結末なのですが、腹が立つというか、死生観というのものがまったく描けていません。こんな下らない映画を世界一の超高齢国である日本で公開する必要があったのかと思うくらいです。中国で生まれアメリカで育ったルル・ワン監督が自身の体験に基づき描いた物語だそうですが、ストーリー展開もグダグダしていて、観ていてイライラしました。何より、助からない病は本人に告げないという中国の伝統というのが不愉快でした。中国には「がんの患者は、病気よりも恐怖によって殺される」という言葉があるそうです。
一方、アメリカでは患者に病名を知らせないことは違法です。中国生まれでアメリカ育ちの主人公ビリーは、大好きなおばあちゃんが残り少ない人生を後悔なく過ごせるよう、病状を本人に打ち明けるべきだと主張します。「余命を知らないと、残りの人生でやるべきことができなくなる」というわけですが、わたしもまったく同意見です。映画では、病院が発行する検査結果の書類まで改ざんして、末期がんであることを隠すのですが、強い違和感を抱きました。これは「優しい"嘘"」などという美談では済みません。人間の生き死にのことまで隠す姿勢は、中国という共産主義国家の秘密主義や隠蔽主義に通じていると思います。
実物のルル・ワン監督にそっくりなオークワフィナはニューヨークで暮らしながら、作家を目指しています。博物館の学芸員にもなりたいのですが、なかなか夢がかないません。おばあちゃんっ子である彼女は、祖母が末期がんで余命の少ないことを知り、中国へ飛びます。そこでは、彼女のいとこの男性が日本人女性と結婚する披露宴の準備で盛り上がっていました。この披露宴開催も、家族が祖母に最期の別れをするための口実だったのですが、中国の結婚披露宴のシーンはそれなりに興味深かったです。
「披露宴は小規模でもかまわない」といういとこに対して、祖母は「それはいけない。披露宴は親戚が一同に会するとても大切なもの。できるだけ盛大に祝わなければいけない」と言います。冠婚葬祭業を営むわたしには涙の出るようなセリフですが、実際、映画で描かれた披露宴では多くの親戚が御馳走を食べ、何度も乾杯し、歌い、踊り、舞台でスピーチします。もちろん飛沫は飛びまくりで、「3密」のオンパレードですが、ふだん離れている人々が「こころ」を1つにするには「3密」が必要であることを再認識しました。早く、パンデミックが終息して、世界中で盛大な披露宴が開催されることを願わずにはいられません。
周囲の想いとは異なり、余命わずかな当人の祖母自身はそれほど死を怖れていないようで、大家族を引き連れて亡夫の墓参りをします。そこで、夫の霊にいろいろと願い事をする姿が微笑ましかったです。ちょっと沖縄の墓参りを連想しました。それなのに息子たちのほうが母親(ビリーの祖母のこと)の死を想像するだけで、涙にくれてしまいます。だいたい、老人が先に亡くなるのは自然の摂理です。今回の新型コロナウイルスの感染にしてもそうですが、子どもや若者が重篤化しやすかったり、死にやすいというのなら大問題ですが、その逆ならそれほど騒ぐ必要もないように思うのですが・・・・・・。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
わたしは、拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書いた中国人の死生観について考えました。2500前の中国に、生命を不滅にするための方法を考えた人がいました。孔子です。彼は、なんと、人間が死なないための方法を考え出したのです。その考えは、「孝」という一文字に集約されます。「孝」とは何か。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。ですから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあるのです。
私淑する儒教学者の加地伸行先生の一連の著書で知ったことですが、孔子の開いた儒教は、そこで次の3つのことを人間の「つとめ」として打ち出しました。1つ目は、祖先祭祀をすること。仏教でいえば、先祖供養をすることですね。2つ目は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。3つ目は、子孫一族が続くこと。そして、この3つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのです。「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしています。それは間違いです。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体なのです。これによって、古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。
死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになる。だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということなのです。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。
この孔子にはじまる死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。とくに、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」という考え方によく似ています。生物の肉体は一つの乗り物にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方です。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移るわけです。子は親のコピーなのです。加地先生によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。
「フェアウェル」という映画から与えられた不快感は、結局のところ、「死は不幸であり、避けるべきもの」というルル・ワン監督の死生観に起因するように思います。わたしは、死を不幸だとは思いません。拙著『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫)では、人間の幸福について考え抜いたとき、その根底には「死」という問題が厳然として在ることを思い知ったと書きました。そこで、わたしがどうしても気になったのが、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言い合うことでした。もし死が不幸な出来事だとしたら、死ぬための存在である私たちの人生そのものも、不幸だということになります。わたしは、最初から「不幸」という結末の見えている負け戦に参加し続けているうちは日本人の幸福などありえず、日本人が真に幸福になるためにはまず「死」を肯定的にとらえ直す必要があることを痛感したのです。
『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫)
じつは、映画「フェアウェル」を鑑賞した日、アマゾンに『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』の素晴らしいレビューが公開されました。アルファさんというレビュアーの方が、「死を想え(メメント・モリ)」の現代版的幸福論」のタイトルで、「本書に一貫しているのは、『人はどうすれば幸福な人生を送れるのか』という真摯な問いである。著者自身の答えは、『死を詩に変えること』である。正に、『ロマンティック・デス(詩化された死)』。人は、必ず死ぬ。それでは、死は不幸なことなのか? もし死が不幸であれば、あらゆる人は必ず死ぬので全員不幸ということになる。それでは、あまりにも救いがない。死を不幸と捉えるのは、死後の世界が恐ろしいからだ。しかし、もし死後の世界が美しく楽しく素晴らしいものだったらどうだろうか? その観点から、著者は古今東西の臨死体験や神秘体験をめぐる知見を網羅的に渉猟する。結論から先に言うと、死後の世界はやはり『天国』のようなものらしい。だから、私達は死者のあの世への旅立ちをむしろ喜んで美しく見送るべきなのだ。そして、アポロ計画の宇宙旅行士における神秘体験が典型的なように、月はあの世のシンボルである。その観点から、著者は、月面に聖塔を建て(月面聖塔)、死者の魂を月に送る(月への送魂)、新しい詩的な葬儀のあり方を提唱している」と書きます。
『ロマンティック・デス』(国書刊行会)
文庫版だけでなく、 国書刊行会から出版された単行本のアマゾン・レビューも書いて下さったアルファさんは、「もちろん、著者は『死の詩化』を目指しているとはいえ、自死を勧めているのでは全くない。著者は、生の時間が限られているからこそ清く逞しく生きる意志を重視しており、自死した魂は『光の天国』ではなく『暗黒の地獄』を体験することになるので絶対に避けるように強調していることをここで確認しておこう。死が自然の一部であると認識することは、人間が大自然の一部であることを想起することにつながるつまり、死を詩化することは、生を詩化することでもある。また、天上の理想郷を思い描くことは、地上に楽園を実現する活力にもなる。何よりもまず、死を意識することこそ、真に充実した幸福な人生を送るための第一歩なのである本書は、「死を想え(メメント・モリ)」の現代版的幸福論である」とも書かれています。わたしの言いたいことを見事に要約して下ったアルファさんには心より感謝いたします。
海の上の満月
アルファさんの言われる「死の詩化」には月が深く関わっています。ブログ「太陽と月」にも書きましたが、古代人たちは「魂のエコロジー」とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えます。
月面聖塔の模型の前で
その月に建立する全人類共通の墓標が「月面聖塔」です。映画「フェアウエル」では、中国に祖母の墓をつくってもアメリカや日本に住む孫たちが墓参できないので、海に遺灰を撒く散骨が提案されます。でも、月にお墓があれば、アメリカでも中国でも日本でも、世界中で夜空さえ見上げれば故人を供養することができます。墓という「かたち」よりも重要なのは故人を思い出し、冥福を祈るという「こころ」です。コロナ禍で墓参もままならない今こそ、「月面聖塔」のアイデアが現実味を持つような気がしてなりません。