No.483


 「スポーツの日」の前日、一条真也の映画館「星の子」で紹介した映画に続いて、日本映画「望み」を小倉のシネコンで鑑賞しました。1日に2本観るのは久しぶりです。ともに「家族を信じる」がテーマで、子が親を信じることを描いた作品が「星の子」なら、「望み」は親が子を信じる姿を描いていました。ちなみに、父親役の堤真一と刑事役の加藤雅也はわたしと同い年です。2人の同級生へのエールも込めて観ましたが、内容はとても重く、いろいろと考えさせられました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『クローズド・ノート』『検察側の罪人』などで知られる雫井脩介の小説を原作にしたサスペンスドラマ。幸せな生活を送っていたはずの夫婦が、息子が同級生の殺人事件への関与が疑われたことで窮地に立たされていく。メガホンを取るのは『十二人の死にたい子どもたち』などの堤幸彦。『孤高のメス』などの堤真一と『マチネの終わりに』などの石田ゆり子が主演を務める。脚本を手掛けるのは、『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』などの奥寺佐渡子」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「一級建築士として活躍する石川一登(堤真一)は、誰もがうらやむような裕福な生活を送っていたが、高校生の息子が無断外泊したまま帰ってこなくなってしまう。その行方を捜すうちに、彼が同級生の殺人事件に関わっていたのではないかという疑いが浮上してくる。たとえ被害者であろうとも息子の無実を信じたい一登、犯人であっても生きていてほしいと願う妻の貴代美(石田ゆり子)。二人の思いが交錯する中、事態は思わぬ方向へと突き進んでいく」

 この映画、ネタバレ厳禁なのでストーリーについては書きにくいのですが、テーマは「信じる」ことです。特に、親がわが子を信じられるかというところに焦点が当てられています。わが子が殺人事件の「加害者」か「被害者」か、2つに1つの可能性があるとき、父親は「被害者」であることを望みますが、母親は「加害者であろうと生きていてほしい」と望みます。このたあたりは、わたしには理解できません。わたしなら、映画の父親と同じように「わが子が加害者であるより被害者の方がいい」と思うでしょう。それが、ただひたすら「とにかく生きてさえいてくれればいい」と言い続ける母親の姿には違和感をおぼえました。

 映画の最後で、「とにかく生きてさえいてくれればいい」というのは一時の感情で、その後、時間が経過するにつれて考え方が変化していくさまが描かれていました。このシーンを観て、わたしは「やはり強いショックを与えられると、人間は思考停止する。その状態で物事を決定してはいけない。急いで結論を出さず、時間をかけて考える必要がある」ということを痛感しました。自身や家族の余命宣告、配偶者の不貞行為、わが子の犯罪行為・・・・・・人間が「思考停止」するケースは、いくらでもあります。

 それとネタバレにならないように注意深く書くと、被害者家族はもちろんですが、加害者家族のグリーフは巨大であると思いました。映画の中で清原果耶演じる妹が「殺人事件の加害者家族は就職も結婚もできない。最後は自殺する人もいる。お兄ちゃんが加害者だと困る。被害者の方がいい」と言い放つ場面は、薄情などというより切実そのもので、共感しました。マスコミの過剰報道も加害者家族をいっそう追い詰めます。この映画を観て、過去のさまざまな事件の当事者の自宅や実家に押し寄せたマスコミの過剰報道を思い出しました。

 さて、この映画には2つの葬儀のシーンが登場します。互助会業界の仲間であるアルファクラブ武蔵野さんのセレモニーホールで撮影されていましたが、殺された高校生の葬儀のシーンを観て、考えさせられました。というのも、殺人や自死といった事情のある死因の場合、「密葬」で行われることが多いのですが、この映画ではきちんと普通の葬儀が行われていたからです。殺人の被害者になったり、自ら命を絶つのは悲しいことではありますが、亡くなった故人は確かにこの世に生きたのであり、臭いものに蓋をするように、「密葬」という秘密葬儀で弔われるのは悲しみが増すだけだと思います。「死は最大の平等」であり、死因によって、死者を差別してはならないと思うのです。

 しかしながら、ブログ「家族葬の罪と罰」でも書いたように、葬儀の世界で「家族葬」や「直葬」といった言葉が一般的になってきました。「家族葬」の本質は、もともと「密葬」と呼ばれていたものです。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。そんな葬儀が次第に「家族葬」と呼ばれるようになりました。しかしながら、本来、1人の人間は家族や親族だけの所有物ではありません。どんな人でも、多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在であることを忘れてはなりません。殺人事件の被害者でもなく、自ら命を絶ったわけでもないのに、近親者のみで葬儀を済ませ、荼毘に付すことには違和感をおぼえます。森山直太朗が歌う映画主題歌の「落日」は、家族葬が横行する日本における「家族の落日」のテーマソングのように思えてなりません。
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儀式論』(弘文堂)



 葬儀だけではなく、あらゆる儀式は家族の絆を深めます。映画「望み」のオープニングおよびエンディングには石川家の子どもたちの七五三、卒業式、入学式の家族写真がスクリーンに映りました。古代中国の思想家である孔子は「社会の中で人間がどう幸せに生きるか」ということを追求した人ですが、その答えとして儀式の重視がありました。人間は儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるように思います。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーなのです。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。 f:id:shins2m:20180621203014j:image
人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版)



 人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子供が成長するとき、子供が大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどです。その不安な「こころ」を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。さらに、わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅です。セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれませんね。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。
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人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)



 最後に、この映画のラストシーンでは、「お帰りなさい」「行ってきます」という家族の挨拶のやり取りがありました。この挨拶も、さまざまな儀式と同じように家族の関係を良くする魔法であると思います。『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)にも書いたのですが、「行ってきます」は、当人にとっては「今日も元気にがんばろう」という決意と「今日も無事でありますように」と祈る気持ちで我が家を出発する言葉です。「行ってらっしゃい」という送り出す側の言葉は「今日も元気で」で応援する気持ちと、「車や事故に気をつけて」と安全を祈る心の表現です。

 送り出した人が元気で帰宅することが家で待つ者にとっては一番気がかりなのです。交通事故の他にも、災害、犯罪、学校でのトラブルなど、日常的に心身の危険にさらされている今日では、元気な「ただいま」の一言で、家族は安心するのです。そして、「お帰りなさい」の一言で、帰ってきた者もまたホッとし、外での苦しいこと、辛いことも癒されるのです。「望み」というヘビーな犯罪映画を観て、わたしは「儀式と挨拶が家族の絆を強める」ということを再確認しました。ネタバレ覚悟で書くと、最後の「お帰りなさい」は清原果耶ちゃん演じる女子高校生の声でした。わたしも、こんな可愛い声で「お帰りなさい」と言われてみたいものです!