No.492


 コロナ禍で映画館はアニメがほとんど、日本映画も少しは新作が公開されていますが、洋画に至ってはほとんど公開されていません。そんな中、少し前に、ヒューマントラストシネマ有楽町で「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」を観ました。ちょっと三谷幸喜のドタバタ喜劇みたいで、非常に面白かったです。2018年の製作ですが、映画の魅力を再認識させてくれる素晴らしい作品でした。現在コロナで訪れることができないパリの魅力も満載でした。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「エドモン・ロスタンによる戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』誕生秘話に迫るコメディー。19世紀末のパリを舞台に、新作が白紙の状態で舞台上演を決めた劇作家が、3週間の期限の中で仲間たちと舞台を作り上げていく。アレクシス・ミシャリクが監督と原案と脚本を担当し、トマ・ソリヴェレが主人公を演じ、『息子のまなざし』などのオリヴィエ・グルメらが共演。『戦場のブラックボード』などのマティルド・セニエや、『プロヴァンスの休日』などのトム・レーブらが脇を固める」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1897年、パリで暮らす詩人で劇作家のエドモン・ロスタン(トマ・ソリヴェレ)は、ここ数年スランプに陥っていた。2人の子供を抱え、生活に不安を感じた彼は俳優のコンスタン・コクラン(オリヴィエ・グルメ)に、年末に上演する舞台の話を持ちかける。だが、実はエドモンは英雄喜劇となるはずの新作をまだ一行も書いていなかった」

 不朽の名作を書き上げたロスタンは、1968年、マルセイユの豪商の家に生まれました。1970年の普仏戦争から翌年のパリ・コミューンに至る騒擾を、家族ぐるみ、ピレネーの山ふところのルションに避けました。1884年、パリに上京し6区の私立スタニスラス高等学校、ついでパリ大学法学部に学び、弁護士・外交官など将来に迷いながら、ルコント・ド・リール、ジュール・ルナールらの文人と交わりました。1888年に最初の戯曲『赤い手袋』を「クリュニー座」で上演して、不評。1890年に、詩集『手すさび』を私費出版。その年、2歳年長の女流詩人ロズモンド・ジェラールと結婚。1891年長男モーリス、1894年に次男ジャンが生まれます。後に、モーリスは作家、ジャン生物学者になりました。

 1894年、ロスタンは、恋の幻滅と再生を描いた三募の韻文喜劇『ロマネスク』を「コメディ・フランセーズ」に持ちこんで上演し、その叙情性が好評を呼びました。ついで、中世吟遊詩人の悲恋物語『遠い国の姫君』をサラ・ベルナールのために書き、これは成功しませんでしたが、1897年さらに彼女のために書いた三幕の聖書劇『サマリアの女』は、「ルネサンス座」で上演して成功しました。サラ・ベルナールは、フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られます。普仏戦争前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。

 サラ・ベルナールは、文豪ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ちましたが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の1人とされています。詩人で映画監督だったジャン・コクトーは彼女を「聖なる怪物」と呼びました。キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。社会史の観点からは、1つの文化圏あるいは消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及されています。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物でした。この映画では、彼女は非常に情熱的で魅力的な女性として描かれています。

 さて、ロスタンですが、サラ・ベルナールを介して知った俳優、コンスタン・コクランの依頼で『シラノ・ド・ベルジュラック』を書きます。五幕の韻文戯曲ですが、題名通り、17世紀フランスに実在した剣豪作家で、鼻が大きすぎて愛されないと信じている才人貴族のシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にしています。初演は、シラノ没後242年目となる1897年。「ポルト・サン=マルタン座」の12月28日の初日から500日間、400回を打ちつづけ、パリ中を興奮させたといわれます。映画でも紹介されていましたが、初日のカーテンコールは50回以上も繰り返されたとか。以降、今日に至るまで、フランスばかりでなく世界各国で繰り返し上演されています。

 その後、ロスタンは、1900年にナポレオン2世の悲運を描いた『鷲の子』をサラ・ベルナールにより、1910年に鳥ばかりが登場する寓意的な『東天紅』を「コメディ・フランセーズ」で上演しますが、世評はシラノに遠く及びませんでした。時代を先取りしすぎたと言われています。1901年、ロスタンは「アカデミー・フランセーズ」の会員に選出されました。1915年、女優マリー・マルケとの関係が原因で、妻ロズモンドと離婚。マリー・マルケは「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」にも登場しますが、2人の金持ちの愛人として描かれていました。まさか、彼女とロスタンが恋仲になったとは驚きです。そして、1918年12月2日、スペイン風邪でロスタンはパリにて死去します。享年50歳。故郷マルセイユの「サン・ピエール墓地」に眠っています。100年前のパンデミックで命を落としたのですね。

 この映画で重要な役割を果たすのは、恋文です。ロスタンは最初の妻のハートも恋文で射止め、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を書き上げるために若い女性に恋文を送り続け、彼女を夢中にさせました。メールやLINEが全盛の現代では、恋文など時代錯誤もいいところでしょうが、かつては直筆のラブレターが絶大な力を発揮していたのです。一条真也の読書館『LOVE LETTERS』で紹介したウルスラ・ドイルの著書があります。女性に人気の高かった映画「SEX&THE CITY」というドラマに出てくる本です。「偉人たちのラブレター」というサブタイトルの通り、同書には、15世紀の終わりから20世紀の初めまで、さまざまな欧米の有名人が書いた40通余りのラブレターが紹介されています。

 作家や詩人の綴ったラブレターは、やはり情熱が読む者にまで伝わってきます。たとえば、ロスタンと同じフランスの文豪バルザックがエヴェリナ・ハンスカ伯爵夫人に宛てた手紙の一部です。
「ああ!あなたの足下にひざまづき頭を膝の上に休ませ、美しい夢を見て、気怠さのうちに私の考えを話し聞かせ、喜びを感じ、時にはひとことも口にせず、しかしこの唇をあなたのガウンに押し当てながら過ごす半日が、どれほど愛おしいことでしょう!・・・・・愛するエヴァ、最愛の1日、最愛の夜、私の希望、敬愛するあなた、永遠に愛するあなた、唯一の恋人、いったいいつ会えるでしょうか?すべては幻なのでしょうか?私はあなたに本当に会ったことがあるのでしょうか?」(田内志文訳)

 また、同じくフランスの文豪であるユーゴーが幼なじみのアデーレと恋に落ち、彼女に宛てたラブレターも情熱的です。一部を紹介します。
「愛するアデール、君からすこし言葉をかけてもらっただけで、僕の心模様は変わってしまう。そう、君は僕となんだってできる。明日の朝、もし君のその優しい声と、優しく押しつけられる愛らしい唇の感触が僕の肉体に命を呼び起こしてくれなければ、僕は死んでしまうにちがいない。昨日とは違うこの気持ちのまま、今日は眠りに就くとしよう!アデール、昨日の僕は君の愛をもう信じられないような気持ちになっていた。もういつでも死んでしまっていいような、そんな気分だったんだ」(田内志文訳)

 現在はメールやLINEでのやり取りがコミュニケーションの主流になりました。職場でも私生活でも大活躍しています。時間や場所を選ばず、思い立ったときに仕事の内容や自分の気持ちを伝えることができて、とても便利ですね。しかし、注意しなければならないことがあります。それは、人をほめるとき、叱るときなど、相手の心を直撃する言葉はメールやLINEに向かないということです。そんな場合は実際に会って口頭で言うことが1番、どうしても会えないときは電話が2番。特に、怒っているときにメールで怒りを伝えるのは絶対にやめたほうがいいですね。なぜなら、メールやLINEとは記録が残るものだからです。「怒り」というマイナスの感情がいつまでも残されるのは避けたいものです。ほめるときも同じ。メールでは細やかな感情がどうしても表現できません。たとえ、顔文字や絵文字やスタンプを使ったとしても、です。相手が喜んでくれるような言葉は、自分の肉声で伝えたいものです。もちろん、愛の告白も!