No.493


 11月25日、東京に来ました。出版社との打ち合わせの結果、『鬼滅の刃』についての本を書くことになりました。打ち合わせの後、日本映画「泣く子はいねぇが」をレイトショーで鑑賞。「鬼」に関連した伝統行事の物語だったので、次回作のヒントになるかと思ったのですが、残念ながら期待に反してつまらない作品でした。脚本も最悪で、とにかく物語の進行が遅く、ダラダラ感がハンパありませんでした。「生き方に迷う、すべての大人たちに贈る、青春グラフィティ!」というキャッチフレーズもダサすぎるぞ!

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ガンバレとかうるせぇ』などの佐藤快磨が、オリジナル脚本でメガホンを取ったドラマ。秋田・男鹿半島の伝統行事なまはげを題材に、いつまでも大人になりきれない若者たちが迷いながら成長していく過程を描く。『静かな雨』などの仲野太賀が主演を務め、『見えない目撃者』などの吉岡里帆、『下忍 赤い影』などの寛 一 郎、山中崇、余貴美子、柳葉敏郎ら多彩な顔ぶれが集結」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「秋田・男鹿半島のさびれた港町、娘が生まれたのにいつまでも父親の自覚を持てないたすく(仲野太賀)に、妻ことね(吉岡里帆)は愛想をつかしていた。大みそかの夜、『悪い子はいないか』となまはげたちが練り歩く街の様子を生中継していた全国放送のニュース番組に、全裸のなまはげが全力疾走する姿が映る。そのなまはげの正体は、妻との約束を守れず泥酔したたすくだった」

 

 正直言って、しょーもない映画でした。主人公は絵に描いたようなダメ男です。クズ男と言ってもいいでしょう。わたしにとって、最大のクズ男は子どもを育てる甲斐性もないくせに女に子どもを産ませる男ですが、この映画の主人公・たすくはまさにそんな存在です。しかも、彼は「なまはげ」の神事の夜に「なまはげ」の面を被ったまま泥酔して全裸になり、しかもぞれがテレビで放映されて、不特定多数の多くの人々にチ〇ポを見られるという、馬鹿馬鹿しい、でも本人にとっては深刻なトラウマを抱えます。さらに彼の愚行は、伝統行事である「なまはげ」の存続をも危ういものとするのでした。

 

「なまはげ」とは何か。それは、「まれびと」です。一条真也の読書館『鬼と日本人』で紹介した本で、民俗学者の小松和彦氏は「蓑着て笠着て来る者は......もう1つの『まれびと』論に向けて」では、「『まれびと』としての鬼」として、著者は「鬼とはなにか」と読者に問いかけます。そして、「これにひと言で答えることは難しい」としながらも、「鬼とは人間の分身である、ということになる。鬼は、人間がいだく人間の否定形、つまり反社会的・反道徳的人間として造形されたものなのだ」と述べています。また、「鬼を打つ」として、著者は「鬼は正月に来訪する『まれびと』であった。だが、この『まれびと』は、『まれびと』という概念を創り出した折口信夫が考えていた『まれびと』とはあまりにもかけ離れている。これは折口の『まれびと』を逆立ちさせた『まれびと』、裏返しにされた『まれびと』である」と述べます。

 

 さらに、小松氏は「折口にとって、『まれびと』とは異界から来訪する善なる神霊である。『まれびと』はこれを迎える人間の側の『あるじ』の饗応を受け、人間を苦しめる『土地の精霊』(悪霊)を鎮撫、制圧する。こうした『まれびと』観念をもっともよく表現しているのが、古代のスサノオ神話である。天から出雲に下ったスサノオは国津神(大山住命)に迎えられ、ヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを妻とする。すなわち、この神話ではスサノオが『まれびと』、国津神が『あるじ』、ヤマタノオロチが『土地の精霊』、そしてクシナダヒメが饗応の品の代表ということになる」と述べるのでした。

 

 また、「『ナマハゲ』の鬼――その二面性」として、著名な寺院や地方寺院の修正会の鬼は、小正月の頃の晩に出現したと指摘し、小松氏は「これとほぼ同じ小正月の晩に、民俗社会でもさまざまな『まれびと』に混じって鬼が登場する儀礼を行なうところがあった。民俗社会は江戸や京、大坂などの都市社会と農山村の村落社会に大別できる。このいずれにも鬼が登場する儀礼があるのだが、都市の鬼、それを排除される邪悪なイメージを強調した鬼(これは疫病神に代表される)の儀礼については、高岡弘幸の論文などで紹介されているが、『なまはげ』秋田・男鹿半島の伝承行事【みちしる】ここでは農村部の、それもやはり小正月の晩の頃に登場する鬼の儀礼に目を向けてみよう。その代表が有名な秋田県男鹿半島の『ナマハゲ』である」と述べています。

 

 続けて、小松氏は以下のように述べます。
「もっとも、ナマハゲは、修正会や節分の鬼のように、牛玉杖で打たれたり、つぶてや豆をぶつけられて退散するのではなく、家の主人の歓待を受け、餅や金銭を貰って立ち去っていく。饗応された方も、この年の豊作や家人の無病息災などの祝福の言葉を述べる。この点に注目すれば、ナマハゲも異界から人々を祝福するためにやってくる『まれびと』ということになる。ナマハゲはこうした二面性をもっている。この二面性を相手に応じて発揮させるのだ」

 

 さらに、ナマハゲの攻撃の標的になるのは、子どもであり、まだ子どもが生まれていない若妻や、他所から来た養子あるいは奉公人たちであったとして、小松氏は「ナマハゲを演じる青年たちは村落共同体における権威をやがて手にする人々であり、ナマハゲという神秘的存在の力をかりて、充分にそうした権威になじんでいない、いうならば共同体の周縁にとどまっている子どもたちや新参者たち、ときには警官などの外部の者を攻撃し、村落共同体の権威の存在を明示しそれへの服従を強制するのである。それゆえに、そうした共同体の権威を身につけている家の主人は、その来訪を歓迎=歓待するというわけである」と述べています。

 

 ナマハゲは、村落の一員として好ましい〈人間〉をつくり出すために呼び招かれた恐ろしい鬼なのだとして、小松氏は「子どもや新参者たちに対しては恐ろしくも乱暴な鬼として臨み、社会の中心部を占める人々には善良なる神格として臨むナマハゲは、言いかえれば、村落共同体が飼いならした鬼、コントロール可能になった鬼といえよう。鬼の儀礼に限らず、儀礼とは元来そういうものなのである」と述べます。

 

 この「泣く子はいねぇが」という映画、日本の民俗的風景を舞台にダメ青年が再生する物語という点では、宮崎県の椎葉村を舞台とした一条真也の映画館「しゃぼん玉」で紹介した日本映画に似ています。「しゃぼん玉」は、直木賞作家である乃南アサの小説を基にしたヒューマンドラマです。強盗や傷害を重ねて逃亡中の青年が、ある老人と彼女が暮らす村の人々と触れ合ううちに再起を決意するさまが描かれます。監督はテレビドラマ「相棒」シリーズなどの東伸児で、主演は林遣都でした。

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「毎日新聞」デジタルより

「泣く子はいねぇが」で重要な役割を果たす「なまはげ」ですが、「毎日新聞」11月24日夕刊の「新型コロナ なまはげも社会的距離 秋田・男鹿市長が要請 大声出す時は離れて/訪問は短く」には、「新型コロナウイルスの影響が、秋田県・男鹿半島に伝わる大みそかの伝統行事『なまはげ』にも及んでいる。実施方法について菅原広二・男鹿市長は記者会見で、市内87町内会に感染症対策を依頼する文書を郵送したと発表。家々への訪問を短くしたり、『ウオー』と大声を出す時には間隔を空けたりするなど、今年の男鹿は異例の大みそかになりそうだ」とあります。

 

 それでも、東北を代表する祭りである「ねぶた祭」をはじめ、今年の夏は多くの祭りが中止になりました。いろいろと規制があるにしても「なまはげ」が中止にならなかったことは良かったと思います。冠婚葬祭、年中行事、そして祭り......コロナ禍で中止になった文化はどれも「かたち」です。つねに不安定に「ころころ」と動くことから「こころ」という語が生まれたという説も「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、この「こころ」に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の内部にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。

 

 人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。
人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどがあります。それらの不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。

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日本人の「こころ」の「かたち」を知る

 

 冠婚葬祭のみならず、さまざまな年中行事、日本全国の祭りはいずれも「こころ」を安定させる「かたち」であり、コロナ禍によってそれらが中止になっていけば、ボディブローのように日本人の「こころ」がダメージを受けているのではないかと本気で心配しています。最後に、この映画、吉岡里帆だけは良かったです。ラストで、突然訪れた「なまはげ」を迎え入れる彼女の表情には鬼気迫るものがありました。彼女がいつものように「あざと可愛い」女ではない一面を見せてくれて、つまらない映画の中の救いとなりました。