No.495
東京に来ています。12月15日は午前中から午後にかけて編集者と鬼滅本の打ち合わせをみっちりやりました。タイトルは『「鬼滅の刃」に学ぶ』に決定しました。14時からは亀戸の結婚式場「アンフェリシオン」で全互連の理事会に参加。夜はTOHOシネマズ日比谷で日本映画「ミセス・ノイズィ」を観ました。「隣人関係」がテーマだと知って、興味を抱きました。ネットで高評価でしたが、とても面白かったです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「嫌がらせをする隣人と反撃する小説家の対決を描いたドラマ。監督は『ハッピーランディング』などの天野千尋。『共喰い』などの篠原ゆき子、『どうしようもない恋の唄』などの大高洋子、『私は渦の底から』などの長尾卓磨、『駅までの道をおしえて』などの新津ちせらが出演するほか、田中要次、風祭ゆきらが脇を固める」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「母親として日々家事をこなし、小説家としても活動する吉岡真紀は、スランプに陥っていた。あるとき彼女は、隣人の若田美和子から嫌がらせを受けるようになる。真紀は美和子がわざと立てる騒音などでストレスがたまり、執筆が進まず家族ともぶつかってしまう。真紀は状況を変えようと、美和子と彼女からの嫌がらせを題材にした小説を書き始める」
わたしは最近、新幹線や飛行機で変わった人と臨席になることが多いです。具体的に言うと、新型コロナウイルスの感染拡大を受けてマスクの着用が義務づけられているのに、マスクをしない人の隣になることがけっこう多いのです。彼らは最初からマスクを所持していない者もおり、飛行機のCAや新幹線の車掌からマスクを手渡されると、一応は着用するのですが、CAや車掌が視界から消えるとすぐ外してしまうのです。これは横に座っていて、かなりのストレスになります。何より迷惑を受けるのは臨席のわたしだからです。よほど直接注意しようかとも思いましたが、頭のおかしい人から逆ギレされても嫌なので、相手から顔を背けて乗っています。現在、マスク着用はドレスコードも同様なので、主義主張にかかわらず、マスクをしない人というのは社会性のない人なのでしょう。
でも、この映画を観て、考えさせられました。「考えさせられる映画は、良い映画だ」というのが、わが持論です。隣人トラブルを単に面白おかしく描いた作品かと思っていましたが、そうではありませんでした。
「映画com.」で評論家の和田隆氏は、「この映画を見ると、我々は自分のことしか見えておらず、しかも世の中の断片・表層だけを見て物事や人を判断しているのではないかと気づかされるだろう。SNSや各メディアで垂れ流される情報と映像にのみ込まれ、何が真実かをもはや判断できなくなって、自分を見失ってしまっているのではないか。無意識の内に他人を傷つけているのかもしれない。自分の常識が他人には非常識かもしれず、現代社会を生きていく上で、失ってはならないもの、常識とは何かを見終わった後に問われることになる」と述べていますが、同感です。
ネタバレになるのを承知で書きますが、映画に登場する「騒音おばさん」には事情がありました。彼女は幼い息子を亡くしており、夫が精神を病んでいて、「布団に虫がいる」という強迫観念にとらわれており、彼が錯乱して自死に至らないために早朝から布団叩きをしていたのでした。騒音おばさんも、心を病んだ夫も、ともに愛児の死から立ち直れずに悲嘆を共有しながら支えあって生きているのでした。なんと、この映画は「グリーフケア」が裏テーマだったのです! このように一般的に非常識な人、迷惑な人というのも、よく話を聞いてみれば、さまざまな複雑な事情があるのかもしれません。ということは、飛行機や新幹線でマスクをしない「困ったさん」にも事情があったのかも? いずれにせよ、自分の価値観だけで判断せず、他人の事情に想像力を働かせるのは良いことですね。
一条真也の読書館『7つの習慣』で紹介したスティーヴン・コヴィーの不朽の名著でも、他人の事情に想像力を働かせる有名なエピソードが以下のように登場します。
「ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイム転換を、私は忘れることができない。乗客は皆、静かに座っていた。ある人は新聞を読み、ある人は思索にふけり、またある人は目を閉じて休んでいた。すべては落ち着いて平和な雰囲気であった。そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。しかし、その男性は私の隣に座って、目を閉じたまま、周りの状況に全く気がつかない様子だった。子供たちとはといえば、大声を出したり、物を投げたり、人の新聞まで奪い取ったりするありさまで、なんとも騒々しく気に障るものだった。ところが、隣に座っている男性はそれに対して何もしようとはしなかった(ジェームス・スキナー&川西茂訳)」
続けて、『7つの習慣』には、こう書かれています。
「私は、いらだちを覚えずにはいられなかった。子供たちにそういう行動をさせておきながら注意もせず、何の責任もとろうとはしない彼の態度が信じられなかった。周りの人たちもいらいらしているように見えた。私は耐えられなくなり、彼に向かって非常に控えめに、『あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのでしょうか』と言ってみた。彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついたかのような表情になり、柔らかい、もの静かな声でこう返事をした。『ああ、ああ、本当にそうですね。どうにかしないと・・・・・・。たった今、病院から出て来たところなんです。一時間ほど前に妻が・・・・・・。あの子たちの母親が亡くなったものですから、いったいどうすればいいのか・・・・・・。子供たちも混乱しているみたいで・・・・・・』(同訳)」
続けて、『7つの習慣』には、「その瞬間の私の気持ちが、想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にして転換してしまった。突然、その状況を全く違う目で見ることができた。違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。今までのいらいらした気持ちは一瞬にして消え去った。自分のとっていた行動や態度を無理に抑える必要はなくなった。私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出たのである。『奥さんが亡くなったのですが。それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか』一瞬にして、すべてが変わった。(同訳)」と書かれています。
このエピソードとよく似た事情が、「ミセス・ノイズィ」こと「騒音おばさん」にもあったわけです。
『隣人の時代』(三五館)
この映画のテーマは「隣人」ですが、わたしには『隣人の時代』(三五館)という著書があります。同書では「隣人愛」の本質と系譜について詳しく書きました。「隣人愛」は「相互扶助」に通じます。「助け合い」ということです。わが社は冠婚葬祭互助会ですが、互助会の「互助」とは「相互扶助」の略です。よく、「人」という字は互いが支えあってできているなどと言われます。互いが支え合い、助け合うことは、じつは人類の本能なのです。チャールズ・ダーウインは1859年に『種の起源』を発表して有名な自然選択理論を唱えましたが、そこでは人類の問題はほとんど扱っていませんでした。
進化論が広く知れわたった12年後の1871年、人間の進化を真正面から論じた『人間の由来』を発表します。この本でダーウインは、道徳感情の萌芽が動物にも見られること、しかもそのような利他性が社会性の高い生物でよく発達していることから、人間の道徳感情も祖先が高度に発達した社会を形成して暮らしていたことに由来するとしたのです。そのような環境下では、お互いに助け合うほうが適応的であり、相互の利他性を好むような感情、すなわち道徳感情が進化してきたのだというわけです。このダーウインの道徳起源論をさらに進めて人間社会を考察したのが、ピョートル・クロポトキンです。
クロポトキンといえば、一般にはアナキストの革命家として知られています。しかし、ロシアでの革命家としての活動は1880年半ばで終わっています。その後、イギリスに亡命して当地で執筆し、1902年に発表したのが『相互扶助論』です。ダーウインの進化論の影響を強く受けながらも、それの「適者生存の原則」や「不断の闘争と生存競争」をクロポトキンが批判し、生命が「進化」する条件は「相互扶助」にあることを論証した本です。クロポトキンは、プラトンやルソーらの思想の流れに沿う主張を展開しました。つまり、人間は高潔で博愛の精神を持ってこの世に生まれ落ちるが、社会によって堕落させられるという考え方です。平たく言えば、クロポトキンは「性善説」ということになります。
「ミセス・ノイズィ」に登場する騒音おばさんも、じつはお節介やきの人情家であり、困った人を助けてあげたいという精神の持ち主です。本当は、吉岡真紀は隣家の若田美和子と良好な関係を築き、自分の仕事が忙しいときに娘を預かってもらうなどのサポートを受けることもできました。その代わりに、美和子の悩みを聞いてあげるなどの行為もできたはずで、両者は本来は相互扶助が可能な関係だったのです。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と言いました。近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。結局、人間はどこまでも社会を必要とするのです。人間にとっての「相互扶助」とは生物的本能であるとともに、社会的本能でもあるのです。人間がお互いに助け合うこと。困っている人がいたら救ってあげること。これは、人間にとって、ごく当たり前の本能なのです。
『孔子とドラッカー新装版』(三五館)
最後に、この映画で最も不愉快だったのは、小説家である真紀の物書きとしての浅ましさでした。昔、文学賞を取った経験があるそうですが、「夢よ、もう一度」ということで、売れない小説を書き続けています。もちろん、小説を書いたり、本を書くこと自体は悪いことではありませんが、大切なのはその執筆動機です。『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも書きましたが、わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値するのであると強調しました。吉田松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。
『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)
『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)にも書きましたが、真の志は、あくまでも世のため人のために立てるものなのです。そして、「志」に通じている「夢」ほど多くの人々が応援してくれるために叶いやすいのではないでしょうか。わたしにも、日本人の自死者の数や孤独死の数を減らしたい、あるいは無縁社会を乗り越えて有縁社会を再生したい、さらには「死」を「不幸」と呼ばない社会を呼び込みたいという志があります。わたしが書く本は小説ではありませんが、けっして本業の冠婚葬祭業業に直結した本しか書かないわけではありません。本業を通じて、気づいたこと、世の人々に伝えたいことを書きたいと思っております。もともと、本を書いて出版するという行為は志がなくてはできない行為ではないでしょうか。なぜなら、本ほど、すごいものはありません。自分でも本を書くたびに思い知るのは、本というメディアが人間の「こころ」に与える影響力の大きさです。
『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)
『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)にも書きましたが、子ども時代に読んだ偉人伝の影響で、冒険家や発明家になる人がいます。1冊の本から勇気を与えられ、新しい人生にチャレンジする人がいます。1冊の本を読んで、自殺を思いとどまる人もいます。不治の病に苦しみながら、1冊の本で心安らかになる人もいます。そして、愛する人を亡くした悲しみを1冊の本が癒してくれることもあるでしょう。本ほど、「こころ」に影響を与え、人間を幸福にしてきたメディアは存在しません。そして、わたしは読んで読者が幸福になれる本こそ、本当の意味での「ためになる本」であると思います。
「ミッドタウン日比谷」の前
その意味で、ひたすらベストセラーを目指す「売らんがため」の利己的な本を書くのをやめて、隣人トラブルの闇を描くのではなく、いかにして隣人と良好な関係を築くか、隣人との良好な関係こそが世界平和への第一歩であるというメッセージが込められた利他的な本が最後に登場して救われた思いがしました。わたしも、多くの読者の方々を幸せにする『「鬼滅の刃」に学ぶ』を書く決意をした次第です。
今年最後の東京での映画鑑賞を終え、シネコンの入った「ミッドタウン日比谷」を出ると、街頭のイルミネーションがキラキラ輝いて、とても綺麗でした。
日比谷の街頭イルミネーション