No.511
ホワイトデーの日曜日、シネプレックス小倉でアニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観ました。映画館に足を運んだのは、じつに1ヵ月ぶりです。この間、忙しかったことと、観たい映画がありませんでした。満を期して鑑賞した本作は、アニメ映画史に残る金字塔と呼べる名作でしたね。一条真也の映画館「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」で紹介したアニメ映画と同じく、メインテーマが「グリーフケア」だったので驚きました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「1990年代に社会現象を巻き起こしたアニメシリーズで、2007年からは『新劇場版』シリーズとして再始動した4部作の最終作となるアニメーション。汎用型ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオンに搭乗した碇シンジや綾波レイ、式波・アスカ・ラングレー、真希波・マリ・イラストリアスたちが謎の敵『使徒』と戦う姿が描かれる。総監督は、本シリーズのほか『シン・ゴジラ』なども手掛けてきた庵野秀明」
じつは、この「シン・エヴァンゲリオン劇場版」、公開早々に観たいと思っていたのですが、「新劇場版」シリーズ4部作の最終作と知って、鑑賞を躊躇しました。なぜなら、ブログ「新世紀エヴァンゲリオン」で紹介したように、TVアニメ版は全話観ていたのですが、新劇場版は1作も観ていなかったのです。シリーズ最終作だけを観るなどという行為は、わたしの映画鑑賞ポリシーに反すると思いました。
しかし、公開後の高い評価もあって、どうじても観たくなり、第1作「序」、第2作「破」、第3作「Q」のDVDを購入して一気に13日の土曜日に鑑賞、翌日の14日の日曜日に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た次第です。謎に満ちていた物語のすべての伏線が回収され、謎も解明され、「ああ、本当にエヴァは終わったんだな」と思いました。
劇場版のDVD
エヴァンゲリオンの新劇場版とは何か。Wikipedia「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の「概要」には、「大災害『セカンドインパクト』後の世界を舞台に、人型兵器『エヴァンゲリオン』のパイロットとなった少年少女たちと、第3新東京市に襲来する謎の敵『使徒』との戦いを描いたTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年―1996年放送)をリメイクしたものである。2006年に発表された仮称にあった『REBUILD』という語句は後にタイトルから消えたが、2007年の前編『序』までは新劇場版について(リメイクではなく)『リビルド(再構築)』という表現が作品紹介などの広報で多用された」と書かれています。
総監督の庵野秀明をはじめ監督の摩砂雪、鶴巻和哉、キャラクターデザインの貞本義行、音楽の鷺巣詩郎など、中心的なスタッフはTVシリーズと同じであり、声優も新キャラクター以外は同じです。全4作が予定され、当初は「前編、中編、後編、完結編」との仮称していましたが、能の「序破急」にちなむ「序、破、急、?」と発表され、さらに「急」が「Q」に、最終作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が「シン・エヴァンゲリオン劇場版」に改められました。「序」はTVシリーズの第壱話から第六話までのストーリーを踏襲していましたが、「破」は既存のストーリーを元にしつつ新たな機体やキャラクターが登場し、「Q」では序・破から14年後の世界を舞台としたまったく新たな物語が展開されます。
よく言われることですが、TVアニメ版「新世紀エヴァンゲリオン」は、「わかりにくい」アニメでした。予算の関係からか静止画面も多く、クオリティが高い作品とはけっして言えません。25年前に作られたといっても、古さを感じさせません。もっとも、時代設定は2015年〜16年なのに、ケータイはすべてガラケー、ウォークマンにカセット・テープ、フィルムカメラが大活躍しているのは御愛嬌ですね。改めて、この四半世紀でさまざまな生活関連のテクノロジーが進化したことを痛感します。
しかし、それでも「エヴァ」は奇妙な魅力に溢れた作品です。「マジンガーZ」や「機動戦士ガンダム」の流れを受けて、戦闘シーンが多いです。巨大ロボット型兵器であるエヴァンゲリオンが人類にとっての守護神だとしたら、破壊神としてのモンスターは「使徒」と呼ばれます。全部で18体にわたる「使徒」にはユダヤ・キリスト・イスラムの三大「一神教」に関連する名前が冠され、作品世界そのものには「カバラ」や「グノーシス」といった神秘主義思想の香りが強く漂います。さすがに、上智大学グリーフケア研究所の島薗進所長(東京大学名誉教授)、鎌田東二特任教授(京都大学名誉教授)という日本宗教学界のツー・トップが魅了されている作品だけのことはあります。
エヴァンゲリオンのパイロットたち、碇シンジ、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、真希波・マリ・イラストリアスは、いずれも14歳です。「鬼滅の刃」の主人公・竈門炭治郎も14歳でした。なぜ、彼らは14歳なのでしょうか。14歳といえば、中学2年生です。つまり、思春期真っただ中です。「中二病」という言葉がありますが、これは思春期の子どもたちに見られる特有の背伸びしがちな言動、態度が過剰に発現している状態のことを指します。14歳とは、子どもと大人の間にある「あわい」の時間を生きることだと、わたしは思います。「あわい」を生きる者は日常を超えて非日常の世界に参入します。だから、碇シンジも竈門炭治郎も非日常的な戦いがふさわしいのかもしれません。ちなみに、神戸連続児童殺傷事件の「少年A」こと酒鬼薔薇聖斗も犯行当時は14歳でした。
14歳といえば、性への関心が強くなる年頃です。EVAのパイロットは少年であるシンジ以外は全員が少女です。しかも、みんな可愛い。これはTV版アニメの時からそうですが、「エヴァ」には、やたらとエロティックなシーンが登場します。露出度の高い服を着た葛城ミサトは29歳とのことですが、14歳の少女たちがやたらとセクシーです。いずれもピッタリと身体にフィットしたボディスーツを着ていますし、レイやアスカに至っては全裸をシンジに見られています。彼女たちを写すカメラワークもエロティックです。まあ、もともとはTVアニメ視聴者のためのサービスのようなものだったのかもしれませんが、この童貞が喜びそうなサービスが、ある意味で「エヴァ」の人気を高めたことは否定できないと思います。というか、「エヴァ」って男性ファンしかいないような気がします。しかし、童貞向けのエロ・アニメと違って、「エヴァ」は芸術的にも高い評価を得ていますので、「セクハラ」「女性蔑視」などと批判されるのではないかと心配してしまいますね。
美少女たちに囲まれた思春期の少年シンジは、さまざまな場面で悶々としますが、彼の人生そのものが思い悩む人生でした。実の父である碇ゲンドウとの関係をうまく築けないシンジは、つねに消えない不安を抱えています。時に、それは「自分のせいで、みんなが不幸になった」と思い込み、「うつ」の状態となります。その究極の姿が「シン・エヴァンゲリオン劇場版」では描かれていました。TVアニメ版の最終話には、ネガティブなシンジが突如、ポジティブに変わる驚愕のラストが用意されていました。このシーンに「自己啓発セミナー」のイメージを感じた人は多かったようです。たしかに、ロボット・アニメがいつの間にか心理セラピー・アニメに変貌してしまったような強い違和感をおぼえました。そして、わたしは数年前に読んだ心理学のミリオンセラーを思い出しました。
読んだ本というのは、一条真也の読書館『嫌われる勇気』、『幸せになる勇気』で紹介したアドラー心理学の入門書です。わが国で心理学というとフロイトとユングが有名ですが、世界的にはアドラーを加えて三大巨頭とされています。世界的ベストセラーとして知られるデール・カーネギーの『人を動かす』や『道は開ける』、あるいは一条真也の読書館『7つの習慣』で紹介したスティーブン・コヴィーの名著にはアドラーの思想が色濃く反映されています。フロイトはトラウマ(心に負った傷)を重要視しましたが、アドラーは、トラウマを明確に否定します。過去の出来事が現在の不幸を引き起こしていると考えるのではなく、人は経験の中から目的にかなうものを見つけ出すといいます。「原因」ではなく「目的」に注目するのがアドラー心理学です。
「すべての悩みは人間関係の悩みである」「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」「愛される人生ではなく、愛する人生を選べ」「ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気だ」といった数々のアドラーの言葉が読者に勇気を与えてくれます。そして、「エヴァ」はアドラー心理学のアニメ化といってもいい内容だということに気づきます。アドラーがよく取り上げる「承認欲求を満たしたいがために自己中心的な人間」とは、エヴァンゲリオンの初号機パイロットである碇シンジその人にほかなりません。幼い頃に目の前で母親を失い、父親と確執し続けているシンジは、他人との親密な関係を怖れます。ゆえに誰とも距離を保ち、心を開こうとしません。その一方で、彼は父親から認められ、愛されることを望みます。つねに「逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせながら、自分の居場所を求めるシンジの苦悩の物語、それが「エヴァ」全体を通底しています。
「エヴァ」のキーワードの1つに「A.T.フィールド(Absolute Terror FIELD)」があります。A.T.フィールドの正体は人間が持っている心の壁です。そして人類補完計画とは、全人類の持つA.T.フィールドを消失させて一体化させることだとされています。『嫌われる理由』の第四夜「世界の中心はどこにあるか」の「対人関係のゴールは『共同体感覚』」では、青年が哲人に対して「対人関係の「ゴール」はどこにあるのです?」と問い、哲人は「結論だけを答えよというのなら、『共同体感覚』です」と答えます。共同体感覚とは何か。哲人は「他者を仲間だと見なし、そこに『自分の居場所がある』と感じられることを、共同体感覚といいます」と説明します。これはまさに「エヴァ」のめざす世界ではないですか!
シンジが父である碇ゲンドウや葛城ミサトからの承認を求めようとせず、自分を取り巻く環境を受け入れ、他人を信じ、自分自身が価値を見出すもののためにEVA初号機に乗ることができたら、そこは「世界の中心」となり、A.T.フィールドは消滅し、人類補完計画は実現するかもしれないのです。ミサトの「傷つくことから逃げているね」とか、赤木リツコの「人が怖いのね」とか、シンジ自身の「逃げちゃ駄目だ! 逃げちゃ駄目だ!」といったセリフは現代日本の「うつ」や「ニート」や「引きこもり」や「対人恐怖症」の人々に対するメッセージであるという説があるようですが、たしかにそれは否定できないと思います。
それにしても、父ゲンドウから見捨てられたと思い、深い悲しみを抱くシンジの姿は悲哀に満ちています。シンジの「父さん、ぼくは要らない子どもなの?」というシンジの言葉はあまりにも悲し過ぎる。父と息子というのは神話や宗教における最大のテーマの1つです。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」では、ミサとの口を借りて、「息子が父にしてやれることは、肩を叩くか、殺してやるかしかない」という加持リョウジの言葉を紹介します。フロイトによると、男児は最初の異性である母を手に入れたいと望みます。しかし母親をいくら愛したとしてもそれは父親の女ですから、母親との恋はあきらめなければなりません。もし、それをあきらめきれずに母親との恋を貫徹するのであれば、邪魔者になる父を排除したいと考えるようになる......これがいわゆる「父殺し」で、フロイトはその心的構造を「オイディプス(エディプス)・コンプレックス」と名付けました。
フロイトといえば、彼の思想は、わたしが研究するグリーフケアのルーツにもなっています。一条真也の読書館『人はなぜ戦争をするのか』で紹介したフロイトの文明論集には、「喪とメランコリー」という論考が収録されています。この論考は第一次世界大戦で大量の死者が生み出された直後に書かれ、「喪の仕事」(モーニングワーク)についての世界初の論考です。愛する者の死が与える衝撃をいかにして「喪の仕事」によって解きほぐしていくかを考察するとともに、誰もが直面するこの打撃が、「うつ」という病へと移行する機構を分析しています。しかしながら、「死者を忘れるべきである」というフロイトの考えには、わたしは大反対です。生者は死者から支えられて生きているのであり、死者を忘れて幸福になることはありません。逆に、死者との絆を強めるべきです。
『唯葬論』(サンガ文庫)
そして、「エヴァ」とはまさにモーニングワークの物語であり、グリーフケアの物語でありました。碇ゲンドウは最愛の妻であるユイを失います。ユイとの再会を願う彼は、とんでもない方法でその実現を企み、その企みは息子であるシンジを巻き込みます。これ以上書くとネタバレになるので控えますが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」において、シンジはある愛すべき存在を失います。ゲンドウは、最愛の人を失うという自分が味わったこの世で最大の苦しみを息子にも味わわせようとしたのでした。最後に、ゲンドウとシンジが対峙したとき、ゲンドウはシンジに「おまえも、死者の想いを受け止められるようになったとは大人になったな」という言葉を口にします。生者は死者の想いによって生かされているというのは、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)のメッセージでもあります。同書には、「なぜ人間は死者を想うのか」というサブタイトルがつけられています。
『儀式論』(弘文堂)
また、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」には、何度も「儀式」という言葉が登場しました。ミサトも口にしましたが、なんといってもゲンドウの口から何度も「儀式」という単語が語られました。そう、「エヴァ」とは儀式の物語なのです。何の儀式かというと、死者の葬送儀礼、すなわち葬儀です。拙著『儀式論』(弘文堂)にも書きましたが、最期のセレモニーである葬儀は人類の存続に関わってきました。故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えます。もし葬儀を行わなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴があき、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。わたしは、問われるべきは「死」ではなく「葬」なのだと考えます。そして、ゲンドウにとっての「人類補完計画」とは、最愛の妻ユイがいなくなった世界を補完することでした。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、誰かの愛する人が亡くなるということは、その人の住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、必ず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。だから、わたしはわが社の葬祭スタッフにいつも、「あなたたちは、心の大工さんですよ」と言っているのです。
『隣人の時代』(三五館)
また、葬儀は接着剤の役目も果たします。愛する人を亡くした直後、残された人々の悲しみに満ちた心は、ばらばらになりかけます。それをひとつにつなぎとめ、結び合わせる力が葬儀にはあるのです。現在では冠婚葬祭互助会などが葬儀サービスを提供していますが、かつては村などの共同体が葬儀を行う主体でした。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の冒頭には、なつかしい昭和を思い出させる「村」という共同体が登場します。身心ともに傷ついたシンジは、そこで休息の時間を過ごすのですが、農業や医療といったエッセンシャル・ワークが中心の共同体でした。そこでは、家族や隣人たちがお互いに助け合う姿も見られ、拙著『隣人の時代』(三五館)でビジョンを描いた有縁社会そのものでした。同書でも述べましたが、葬儀をするのも人類の本能なら、相互扶助も本能であると、わたしは考えています。それを絵に描いたような村が登場したので、非常に感動しました。その村で、アヤナミレイ(仮称、綾波レイのそっくりさん)が、「おいしい」とか「かわいい」とか「恥ずかしい」とか「好き」とかいった感情を学習していく姿を見て、「人間とは、どうあるべきか」ということを考えずにはいられませんでした。そこで彼女は「仲良くなる魔法」を学ぶのですが、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、現在はその魔法が使えません。わたしには、それが無性に悲しかったです。
「エヴァ」の登場人物の名前は大日本帝国海軍の軍艦名からとられたものが多く、海に関する用語からもとられています。渚カオルが代表的ですが、「シン」エヴァンゲリオン劇場版」の中には、「渚は、海と陸の中間」という言葉が登場します。つまり、渚とは海と陸の「あわい」の場所なのですが、映画のポスターにはその渚に登場人物たちが立っている絵が使われています。わたしは、1959年のSF映画「渚にて」を連想しました。核戦争(当時は原子力戦争)後、放射能に汚染された地球で人類が滅亡するまでの数か月を描いた英国人作家ネビル・シュートの小説の映画化作品で、監督は西部劇の名作「真昼の決闘」のスタンリー・クレイマー。出演者はグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス、ドナ・アンダーソンと超豪華です。第三次世界大戦が勃発し、世界全土は核攻撃によって放射能汚染が広がり北半球はすでに全滅。僅かに残った南半球の一部地域に人々が暮らすだけになっていた。人類滅亡のときに渚に佇む人々の姿が哀しくも美しく、印象深い作品でした。
映画「渚にて」について、「暗闇の中に世界があるーこの映画を観ずして死ねるか!ー」というブログの中には、「数か月後に迫った人類滅亡という変えようのない事実を前にして、人々はまるで悟りを開いた僧侶であるかのような諦念の境地を見せているかのようにおだやかな生活を送っている。人類滅亡が嘘であるかのように、海辺で海水浴に興じる人々。ただ、すべての人が諦念の境地にあるわけではなく、死への不安を抱えている人もいる。それは、自分の死への不安ではなく、生まれてきたばかりの子どもへの死への不安である。(滅亡の日まで)『まだ、時間はある」と書かれた横断幕のもとに人々は集い、歌を歌い、なごやかに過ごすシーンがあった。ラストでは、すでに人々は死に絶えたのか、同じ場所に人の姿はみえない。ただ『まだ、時間はある』という横断幕だけが掲げられている。それは、観ているものたちへの警告であろう」と書かれています。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の渚のシーンには、「渚にて」とは正反対に人類の未来への希望を感じました。「渚にて」では、人類は滅亡しましたが、「エヴァ」では人類は生き延びた。庵野監督は、おそらく「渚にて」を意識されたのではないかと推測します。
エヴァンゲリオン・サーガというべき新劇場版4部作は、愛する人を亡くすことによって欠けた世界を元に戻す、葬儀としての「人類補完計画」の物語でした。それにしても、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」において、すべての伏線が回収され、謎が解明されたのは見事でした。大いなるカタルシスを感じました。やはり、エヴァは日本が誇る素晴らしい物語だと思いました。コロナ禍という未曾有の国難の中で、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」とともに、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」というグリーフケアの物語を観たことを、わたしはけっして忘れません。宇多田ヒカルの主題歌「One Last Kiss」が胸に沁みました。