No.490


 コロナ禍にもかかわらず、記録的な大ヒットを続けている映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観ました。アニメ版の第26話に続くエピソードなのですが、映画鑑賞の直前にアニメ全話を観終わったタイミングだったので、そのまま物語の世界にスムーズに入ることができました。そして、わたしは泣きました。これほど泣けたアニメ映画は一条真也の映画館「この世界の片隅に」で紹介した作品以来です。

 ヤフー映画の「解説」には、「吾峠呼世晴の人気コミックを原作にアニメ化した『竈門炭治郎 立志編』の最終話の続編となる劇場版。鬼に家族を殺された少年と仲間たちが、鬼との新たな戦いに立ち上がる。アニメーション制作をufotableが手掛け、ボイスキャストを竈門炭治郎役の花江夏樹をはじめ鬼頭明里、下野紘、平川大輔らが担当するなど、アニメ版のスタッフやキャストが集結した」と書かれています。

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「蝶屋敷での修業を終えた"鬼殺隊"の竈門炭治郎は、短期間で40人以上が行方不明になった"無限列車"を捜索する任務に就く。妹の竈門禰豆子を連れた炭治郎と我妻善逸、嘴平伊之助は、鬼殺隊最強の剣士"柱"のひとりである炎柱の煉獄杏寿郎と合流し、闇を進む無限列車の中で鬼を相手に戦い始める」

 わたしが訪れたシネコンのシアターでは、上映前に「ドラえもん」や「ポケットモンスター」のシリーズ最新作、あるいは「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の予告編が流れました。まさに、日本を代表するアニメ映画のオンパレードです。他にも、日本にはスタジオ・ジブリの宮崎駿監督、アニメ界の最前線を走る新海誠監督らの一連の名作群があります。今や、日本のアニメは世界中から熱い視線を浴びています。しかし、現時点で最も注目されているアニメ映画は間違いなく、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」です。

 感想ですが、とにかく素晴らしいアニメ映画でした。
 まず、絵が丁寧に描かれており、非常に美しいです。
「映画.com」で、アニメに詳しい五所光太郎氏は、「ufotableがこれまで積み上げてきたアニメーションの細部へのこだわりが、さり気なく施されているところも大きな見どころ。テレビシリーズで目を引いたフレッシュな映像表現『水の呼吸』に続いて、劇場版では煉獄の『炎の呼吸』が登場する。錦絵を参考に作画と3DCGのハイブリッドで絢爛豪華に描かれた大アクションには、とがった映像によくある見辛さはまったくない。エンターテインメントに徹した裾野の広い映像化でありつつも、線を均一にするのが標準のアニメに強弱のある漫画タッチの描線をとりいれ、炭治郎の隊服の市松模様も省略せず手描きで描かれている」と書いています。

 とても面白く、感動もしたのですが、この作品を観終わったとき、「なぜ、この作品が大ヒットしたのか?」と不思議に思いました。というのも、この映画はアニメ全26話を観ていないと内容が理解できないからです。コミックでは時系列が違うのでダメです。あくまでもアニメを観ていないとわからないようになっています。「現代ビジネス」が配信した「劇場版『鬼滅の刃』の"異常ヒット"に、どうしても『不気味さ』を感じてしまうワケ」という記事で、コラムニストの堀井憲一郎氏は、「『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』のヒットがすごいとおもうのは、これが完結した作品ではないという点である。テレビアニメの続編である。しかも完結編ではない」と書いています。映画でひとつのエピソードのけりはつくものの、全体の物語でみれば、まったくの途中で終わるわけです。本当に、そんな作品が記録的な数の観客を動員したのが不思議でなりません。

「鬼滅の刃」の時代設定は大正時代です。大正時代の夜汽車といえば、誰でも宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を連想するでしょう。わたしも最初は「無限列車編」というのは「銀河鉄道の夜」のような幻想的な物語なのだろうと想像していたのですが(原作コミック第7~8巻のエピソードを映像化していますが、それを読むのは映画鑑賞の翌日でした)、かなり違いました。最強戦士の柱の1人である煉獄杏寿郎がとにかく魅力的に描かれています。わたしは最初、彼を「デビルマン」の主人公である不動明に似ている(「鬼滅の刃」に出てくる鬼たちも「鬼」というより、「デーモン」みたい)と思っていたのですが、煉獄は底抜けに明るかったです。よく食べ、よく笑い、その上、後輩たちには優しい。こういう人物を嫌いな人はいないでしょう。わたしも一発で煉獄ファンになりました。

 さて、「無限列車編」では列車に乗った人々が次々に行方不明となります。これを鬼の仕業と考えた煉獄や炭治郎らがその列車に乗り込み、列車を支配している「下弦の壱」眠り鬼・魘夢(えんむ)と闘います。魘夢は、鬼舞辻無惨配下である"十二鬼月"の1人ですが、他人の不幸や苦しみを見ることを好む、歪んだ嗜好を持っています。下弦の鬼の粛清時、鬼舞辻無惨に気に入られたため、唯一生き残りました。この魘夢が炭治郎たちの夢を操るシーンが非常に興味深かったです。各人の無意識にも入っていくのですが、オーストリアの精神科医ジークムンド・フロイトの『夢判断』を思い起こさせました。

 フロイトは神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行いました。精神分析学の創始者として知られます。彼の『夢判断』は父の死後、W・フリースとの間で行われた自己分析が生み出したものです。 フロイトは夢内容(顕在内容)が夢思想(潜在内容)という原本を翻訳したものとして、その解釈に神経症理論を援用し、夢の内容の自由連想から、「夢は願望充足である」としました。もちろん、「夢は無意識の表現」という有名な考えを示したのはフロイトが最初です。

 フロイトの思想は、わたしが研究するグリーフケアのルーツにもなっています。一条真也の読書館『人はなぜ戦争をするのか』で紹介したフロイトの文明論集には、「喪とメランコリー」という論考が収録されています。この論考は第一次世界大戦で大量の死者が生み出された直後に書かれ、「喪の仕事」(モーニングワーク)についての世界初の論考です。愛する者の死が与える衝撃をいかにして「喪の仕事」によって解きほぐしていくかを考察するとともに、誰もが直面するこの打撃が、「うつ」という病へと移行する機構を分析しています。しかしながら、「死者を忘れるべきである」というフロイトの考えには、わたしは大反対です。生者は死者から支えられて生きているのであり、死者を忘れて幸福になることはありません。逆に、死者との絆を強めるべきなのです。

 魘夢の術によって夢を見せられた炭治郎は、その夢の中で鬼から惨殺された家族と再会します。彼らとの生活は、夢とは思えないほどリアルなものであり、炭治郎はその世界が夢とは知りつつ、辛い現実の世界へと戻ることをためらうほどの幸福感を味わいます。しかし、夢とは、もともと死者と会うためのものなのです。そのことを、わたしは一条真也の読書館『原始文化』 で紹介した文化人類学者エドワード・タイラーの名著で知りました。タイラーによれば、古代人は夢、とりわけ夢の中で死んだ親族と会うことに深い意味づけをしたと述べています。古代人の心と現代人の心は、いろんな意味で違うと思いますが、夢をみることは共通していると思います。実際、祖先すなわち死者と会う方法を考えた場合、「夢で会う」というのが、一番わかりやすいのではないでしょうか。

「無限列車編」に登場する鬼は魘夢だけではありません。鬼の中でもトップクラスの「上弦」の鬼である猗窩座(あかざ)が出現します。長年の間、その顔ぶれが変わっていないという上弦の中でも「参」に数えられる鬼ですが、圧倒的な強さを発揮します。鬼狩りのトップクラスの「柱」である煉獄杏寿郎との死闘は、この映画でも最大の見せ場です。猗窩座は練り上げられた武と共に、強者に対しての敬意を持ちます。

 精神も肉体も強靭な煉獄にリスペクトの念を抱いた猗窩座は「お前も鬼にならないか?」「俺はつらい 耐えられない 死んでくれ杏寿郎 若く強いまま」などと言います。彼にとって、人間とは老いて死すべき不完全な存在であり、不老不死である鬼こそが完全な存在なのです。しかし、煉獄は「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」と言います。このセリフには100%共感し、感動しました。

 最後に、ネタバレにならないように書くと、この物語ではある戦士が激闘の末に命を落とします。そのときに、後進の者たちは彼から志を受け継ぎます。このシーンは、先人の業績をつなぐという意味で儒教の「孝」や神道の「生成発展」も表現のように思えました。炭治郎が鬼を供養する「怨親平等」の精神は仏教ですし、「鬼滅の刃」という物語には、日本人の心の三本柱である神道・仏教・儒教のエッセンスが込められています。また、絶命する戦士は家族へのメッセージを言い残すのですが、このシーンには神風特攻隊で若い命を落とした少年や青年たちの遺言状を思い出して、涙が止まりませんでした。

 思えば、神風特攻隊に限らず、あらゆる戦や戦争で、武士や兵士は絶命する前に近くにいる仲間に家族への遺言を託したことでしょう。その想いの深さに感動をおぼえない者はいないと思います。「鬼滅の刃」という物語も基本的には戦の話です。一方に、鬼舞辻無惨をリーダーとして、「上弦」たちがトップを占める「鬼」のグループ。他方に、「お館様」こと産屋敷耀哉をリーダーとして、「柱」たちがトップを占める「鬼殺隊」のグループ。この両グループが死闘を繰り広げる組織vs組織の戦争物語なのです。これを「好戦イデオロギー」とか言って批判するような馬鹿は無視するしかありません。

 組織同士の戦いなので、マネジメントやリーダーシップの観点からも興味深い点が多々あります。恐怖心で鬼たちを支配する鬼舞辻無惨はハートレス・リーダーであり、鬼殺隊の剣士たちを心から信頼し、かつリスペクトする産屋敷耀哉はハートフル・リーダーです。両陣営の闘いは「ブラック企業vsホワイト企業」と言ってもいいでしょう。ホワイト企業には志や使命感があることも確認できました。遅ればせながら、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て、いろいろ考える機会を与えられましたし、何よりも質の高い物語を堪能することができて、幸せでした。これもコロナ禍のおかげかもしれませんね。
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シネコンで配られた観客へのプレゼント