No.516
日本映画「騙し絵の牙」を観ました。前日に観たブログ「ホムンクルス」で紹介した映画と違い、テンポが良くてとても面白かったです。ドラッカーの唱えた「継続」と「変化」というマネジメントの最重要テーマについても考えさせる傑作でした。これは、一条賞の候補作です!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『盤上のアルファ』『罪の声』などの作家・塩田武士が、俳優・大泉洋を主人公に当て書きした小説を映画化。廃刊の危機に瀕した雑誌の編集長が、存続を懸けて奔走する。大泉が編集長にふんするほか、『勝手にふるえてろ』などの松岡茉優、『64ーロクヨンー』シリーズなどの佐藤浩市らが共演。『桐島、部活やめるってよ』などの吉田大八が監督を務め、『天空の蜂』などの楠野一郎と共同で脚本も手掛けた」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「大手出版社の薫風社で創業一族の社長が急死し、次期社長の座を巡って権力争いが勃発する。専務の東松(佐藤浩市)が断行する改革で雑誌が次々と廃刊の危機に陥り、変わり者の速水(大泉洋)が編集長を務めるお荷物雑誌『トリニティ』も例外ではなかった。くせ者ぞろいの上層部、作家、同僚たちの思惑が交錯する中、速水は新人編集者の高野(松岡茉優)を巻き込んで雑誌を存続させるための策を仕掛ける」
出版業界の現状と苦境を知るには最適の映画でした。原作は、KADOKAWA から刊行されていますが、斜陽の一途を辿る出版界で牙を剥いた男が、業界全体にメスを入れるさまが描かれています。単行本も文庫本も、いずれも大泉洋の写真が使われています。それにしても、これだけの小説の主人公として当て書きされるとは大泉洋もすごいですね。その大泉が絡む相手は、松岡茉優、佐藤浩市、佐野史郎、木村佳乃、國村隼、小林聡美、そして、リリー・フランキーという芸達者なクセモノ揃いの役者陣です。
この映画に登場する出版人たちは、みんな悪戦苦闘しています。100年以上の歴史と伝統を誇る文芸雑誌もライトなカルチャー誌も、いずれも存亡の危機にあります。大手出版社を支えるのは雑誌で、雑誌を支えるのが広告というのは常識ですが、今や雑誌広告もネットの津波の前で流されそうになっています。当然、雑誌は売れず、多くの出版社は経営が苦しくなる一方だと言えます。でも、本当に読みたい記事、インタビュー、小説などが掲載されていれば、人々は雑誌を買うはずですが、残念ながら雑誌が面白くなくなってきているのでしょう。
この映画には、何人かの作家も登場します。作家も生きにくい時代だと思います。読者の嗜好が細分化し、ベストセラーが生まれにくくなりました。わたしは小説は書きませんが、これまで100冊以上の本を書いてきました。その中には売れた本も売れなかった本もありますが、「売れる本を書いてやろう!」とか「印税で収入を増やしたい」などと思って書いたことは一度もありません。いつも、「この本を読んだ人が幸せになれるように」とか「少しでも世の中が良くなるように!」と思って書いてきました。
この映画では「面白さ」がキーワードになっています。小説も雑誌も「面白さ」がすべてであり、正義なのだというわけです。これは、わたしも同感です。「一条さんは、面白い本よりも、世の中を良くする本を書こうとしているのではないですか?」と言われそうですが、じつは、わたしは、世の中を良くすることほど面白いことはないと思っています。そして、人々を幸福にするコンテンツほど面白いものはないとも思っています。最近、つくづく痛感するのですが、儀式もグリーフケアも修活も死生観も『論語』も面白くて仕方がありません。
もちろん、儀式やグリーフケアを面白いと思う人は特殊かもしれません。一見、「堅苦しい」とか「暗い」などと思って避ける人もいるでしょう。そこで、わたしは方便を使います。読書や映画や名言などの方便を使って書いた『死を乗り越える読書ガイド』、『死を乗り越える映画ガイド』、『死を乗り越える名言ガイド』(いずれも現代書林)などがまさにそうですし、最近では、社会現象にまでなった「鬼滅の刃」という最強の方便を使って、『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)を書きました。幸い、それらの本は多くの読者を得ましたが、手に取って下さった方々は、自然と儀式とグリーフケアの重要性に気づく仕組みになっています。やはり、本を手に取ってもらい、読んでもらうためには「面白さ」は必要不可欠だと言えます。
「騙し絵の牙」の主演女優といえる松岡茉優が演じる新人編集者の高野は、町の書店の娘です。町の書店の存在は、アマゾンという巨大な存在によって風前の灯です。書店で売られるはずの書籍そのものも、ネット化の嵐の中でオワコンと見られがちです。映画評論家の大塚史貴氏は、この映画について、映画.comで「出版人たちは悪戦苦闘している。書店に行かなくても簡単に自宅に欲しい本が届く時代にはなったが、それでも書籍、雑誌、それらを扱う書店の存在は人々に心のゆとりをもたらし、必要不可欠なものだと言い切ることができる」「すべては効率化を優先させていくなかで、人の温もりが残ったものが如何にして生き残っていくのかという普遍的なテーマも内包されている」と書いています。効率化を優先させるなら、冠婚葬祭なども存亡の危機にあると考えられがちですが、わたしはぞうは思いません。冠婚葬祭は不滅であると考えています。
瀕死の業界を生存させるのためは「孝」の思想が必要です。陽明学者の安岡正篤が、儒教の重要コンセプトである「孝」の意味も明快に解説しています。世界的ベストセラーになった"The age of discontinuity"というドラッカーの著書が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、安岡は言いました。「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代である、と。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。「老」すなわち先輩・長者と、「子」すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して1つに結びます。そこから「孝」という字ができ上がったというのです。「老」+「子」=「孝」というわけです。
『孔子とドラッカー新装版』(三五館)
一般に「孝」というと親孝行を連想します。先輩・長者の一番代表的なものは親ですから、親子の連続・統一を表わすに主として用いられるようになったのです。拙著『孔子とドラッカー新装版』(三五館)でも紹介しましたが、安岡は「人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人の繁栄はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまう」と述べています。この「孝」こそは、ドラッカーの「継続」と「変化」という企業発展のための2大要素を一語で表現したものだったのです。継続と変化、すなわち「孝」の思想さえあれば、出版業も書店業も冠婚葬祭業も存続していきます。そして、そこに共通して求められるのは人の「心をゆたかにする」という志ではないでしょうか。
最後に、出版社は企業です。映画「騙し絵の牙」の冒頭、出版社である薫風社の社長が急死し、そこから物語がスタートしますが、その後の社内での権力闘争の中で、亡くなった先代社長の遺志が影響力を持つ場面が多々ありました。ドラッカーには『企業とは何か』という初期の名著がありますが、「企業」という概念は「孝」という「生命の連続」に通じます。世界中のエクセレント・カンパニー、ビジョナリー・カンパニー、そしてミショナリー・カンパニーには、いずれも創業者の精神が生きています。エディソンや豊田佐吉やマリオットやデイズニーやウォルマートの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社の中に綿々と生き続けているのです。
『ミッショナリー・カンパニー』(三五館)
重要なことは、会社とは血液で継承するものではなく、思想で継承すべきものであるということです。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりえます。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継となったとき、その会社も関係者も最も良い状況を迎えられるのでしょう。逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのではないでしょうか。今年で創立55周年を迎えるわが社も、創業者の使命感や志というものを忘れずにいたい......映画「騙し絵の牙」を観て、最後にそんなことを思いました。