No.515


 日本映画「ホムンクルス」を観ました。主演が綾野剛というので楽しみにしていたのですが、映画そのものが面白くありませんでした。途中で睡魔と戦うのが大変でした。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「山本英夫のコミックを、『ドクター・デスの遺産ーBLACK FILEー』などの綾野剛を主演に迎えて実写化したミステリー。ある手術を受けたホームレスが、それを機に他人の深層心理を視覚化して見ることが可能になってしまう。監督を務めるのは『犬鳴村』などの清水崇。『カツベン!』などの成田凌、『愛がなんだ』などの岸井ゆきのに加え、石井杏奈、内野聖陽らが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「記憶と感情をなくした状態で、高級ホテルとホームレスがひしめく公園のはざまで車上生活を送る名越進(綾野剛)。そんな彼の前に医学生の伊藤学(成田凌)が現れ、頭蓋骨に穴を開け第六感を芽生えさせるトレパネーション手術を報酬70万円で受けないかと持ち掛ける。手術を受けた名越は、右目だけをつむると人間が異様な形に見えるように。伊藤は異形たちをホムンクルスと名付け、他人の深層心理が視覚化されて見えているのだと説明する」

 わたしは綾野剛という俳優を非常に買っているのですが、彼が最近主演した一条真也の映画館「ヤクザと家族 The Family」で紹介した映画は素晴らしい名作でしたが、「ホムンクルス」には失望しました。これは綾野の責任ではなく、脚本が悪いです。原作コミックは読んでいませんが、原作が悪い可能性もあります。記憶喪失のホームレスがアメックスのブラックカードを使いこなしているとか、新宿の歌舞伎町でヤクザの親分にぶつかったら小指を詰めされそうになるとか、ディテールがあまりにも杜撰というか、リアリティのない設定が多いのです。わたしは、ファンタジー、ホラー、SFといった非日常の物語を好みますが、そういうウソの物語ほど細部にはリアリティが必要であると思っています。この映画は、その点がまったくダメでした。

 他人の姿が異常に見える話というのは珍しくありません。イギリスの小説家J・D・ベレスフォードの怪奇短編「人間嫌い」(創元推理文庫『怪奇小説傑作集2』に収録)が有名です。楳図かずおや高橋葉介にも、相手の「真実の姿」を見る能力を得てしまった男の話を描いた短編マンガがありました。映画「ホムンクルス」は、人間のトラウマをテーマとしています。「トラウマ」を初めて提唱したのは、ジークムント・フロイトです。彼によれば、性的虐待の記憶の耐えられない苦痛から発生した「抑圧された記憶」は無意識の領域に封印され、それが意識に影響を与え続けるのだといいます。フロイトは1896年に『ヒステリーの病因について』を発表し、ヒステリー患者の女性は幼児期の性的虐待がトラウマ→心的外傷となり精神疾患を引き起こすとする「誘惑理論」を公表しました。

 その後、フロイトは問題の説の転換のさらに後にその説を再び変化させ、内在化された社会的な禁令(タブー)に目を向けるようになります。1923年、フロイトは『自我とエス』を発表。深層心理の考えに基づいたそれまでの「意識」「前意識」「無意識」から変化し、新たなる「超自我」「自我」「エス」の局所論的観点を唱えます。それによると、社会的禁令が内面化されたものが「超自我」と呼ばれるものであり、人間が欲動に駆られた際に、それと反発する超自我との葛藤が起こり、これにより精神が不安定になるのだといいます。つまり、リビドーの抑圧が精神の不安を引き起こすのではなく、精神の不安こそが抑圧を引き起こすと自らの説を訂正したのです。

 映画「ホムンクルス」には、さまざまなトラウマが登場し、それがトラウマの持ち主である人間を異形の存在(ホムンクルス)に変えるのですが、正直言って、変てこなトラウマが多かったです。少年時代に親友の小指を鎌で切り落としてしまい、そのトラウマからヤクザの親分になったとか、大病院の院長が金魚鉢に一匹の金魚を飼うことだけが唯一の趣味とか、これもリアリティのない話のオンパレードで、観ていてイライラしました。なんで、大病院の院長の趣味が一匹の金魚の飼育なのでしょうか。大きな池に高価な錦鯉をたくさん飼ってもおかしくないのに。言わせてもらえれば、ブラックカードといい、高級ホテルでの食事といい、すべて描き方が貧乏くさいといか、本当の金持ちを知らないなと思いました。

 タイトルの「ホムンクルス」というのは、もともとラテン語で「小人」という意味ですが、ヨーロッパの錬金術師が作り出す人造人間および作り出す技術のことを指します。ルネサンス期の錬金術師パラケルススの著作『ものの本性について』によれば、ホムンクルスの製法は蒸留器に人間の精液を入れて(それと数種類のハーブと糞を入れる説もある)40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれます。それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人間の子供ができます。ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さいといいます。ホムンクルスは生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けているとされますが、フラスコ内でしか生存できないとか。パラケルススはホムンクルスの生成に成功したとされますが、彼の死後、再び成功した者はいなかったといいます。

 キリスト教では、ホムンクルスを製造する技術は創造主である神・ヤハウェの領域に人間が足を踏み入れるものとして恐れられています。映画「ホムンクルス」には、頭蓋骨に穴を開けると第六感が芽生えるという「トレパネーション手術」が登場しますが、これは明らかに「ロボトミー手術」がモデルでしょう。一条真也の読書館『禍いの科学』で紹介したポール・A・オフィットの著書の第5章「心を壊すロボトミー手術」では、かつて、精神外科の名のもとに爆発性精神病質などの診断を受けた患者に対し、情動緊張や興奮などの精神障害を除去する目的で前頭葉白質を切除する手術(ロボトミー)が実施されていたことが紹介されます。

 発案者のエガス・モニスが考案した「モニス術式」が有名です。これは、患者の術両側頭部に穴を明け、ロボトームという長いメスで前頭葉を切るスタイルでした。オフィットは、「モニスが考えていたのは、2ヵ所の前頭葉を完全に除去する前頭葉切除術ではなかった。彼が思い描いていたのは、脳から前頭葉の白質だけを切り離す(切断)手術だった。白質は神経線維が多く白く見えることからこのような名前で呼ばれるが、のちにモニスは、ギリシャ語で白を意味する『leuko』と、ナイフを意味する『tome』にちなんで、この手術をロイコトミー(leucotomy)と命名した」と説明しています。モニスの手術は大西洋を渡って米国に伝わり、ロイコトミーは「ロボトミー」という名前で呼ばれるようになりました。

 手術の考案者としての権利を主張するため、モニスは20人の患者についての248ページの主題論文を発表しました。7人が治癒し、7人は症状が大幅に改善され、6人には変化が見られませんでした。オフィットは、「こうして、精神外科という新たな医療分野が誕生した。これは『大きな前進』だとモニスは述べたもはや患者は、情緒不安や不安発作、幻覚や妄想、躁やうつの状態に悩まされることがなくなるのだ。1930年代後半に入ると、ロボトミーはキューバ、ブラジル、イタリア、ルーマニア、米国で行われるようになった。しかし、ポルトガルではロボトミー手術は禁止された。最初にモニスとリマに患者を紹介していた精神科医は、それ以上の患者の紹介を断った。まもなく、ポルトガルの他の精神科医も患者をよこさなくなった。手術が招く結果を誰もが恐れていた」と述べます。

 20世紀半ばまでに、ロボトミー手術は米国の文化においても非常に重要な位置を占めるようになりました。例えば、ロバート・ペン・ウォーレンの小説『すべての王の臣』(1946年)、テネシー・ウィリアムズの戯曲『去年の夏突然に』(1958年)、映画では「素晴らしき男」(1966年)、「猿の惑星」(1968年)、「時計じかけのオレンジ」(1971年)、「電子頭脳人間」(1974年)、「カッコーの巣の上で」(1975年)、「女優フランシス」(1982年)、「レポマン」(1984年)、「ホールインワン(日本未公開)」(2004年)、「アサイラム 狂気の密室病棟」(2008年)、音楽ではラモーンズの「ティーンエイジ・ロボトミー」(1977年)などにロボトミー手術が登場します。2000年代の初めには、ロボトミー手術はもはや病院が患者をコントロールするための道具として描かれることはなくなり、ホラー映画に登場するようになりました。

 2008年の「アサイラム 狂気の密室病棟」では、改装されたばかりの学生寮にやってきた6人の大学の新入生が、この建物が以前は精神病院だったことを知ります。回想シーンには、ベッドに縛りつけられた少年、有刺鉄線でできた拘束服を着せられた少女、眼窩からアイスピックが突き出した少年、小型のハンマーを手にした高圧的な背の高い男などが登場します。オフィットは、「この最後の人物が登場する場面が、おそらくは一番恐ろしい。なぜなら、この身の毛のよだつような恐ろしい場面は、現実に起こったことだからだ。そのような経験をした少年、ハワード・ダリーは、のちに自らの経験を本に書いた。ダリーのロボトミー手術を行ったのは、ウォルター・フリーマンだった。『アサイラム 狂気の密室病棟』のような映画は、ある評論家に言わせれば、『外科医をホラー映画の登場人物にするには、私たちが彼らに抱く信頼をちょっと変化させるだけでいい』ことを示している」と述べています。

 映画「ホムンクルス」でトレパネーション手術に異常な執念を燃やす医学生の伊藤学は、ロボトミー手術におけるモニスを彷彿とさせるようなマッド・サイエンティストですが、彼を演じているのが成田凌です。じつに狂気溢れる名演技でした。成田は、一条真也の映画館「スマホを落としただけなのに」「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」で紹介した中田秀夫監督の映画でも狂気の殺人鬼を熱演しています。中田秀夫といえば「リング」シリーズ、「ホムンクルス」の清水祟監督といえば「呪怨」シリーズで知られ、ともにJホラーの巨匠です。その2人から筋金入りの狂人の役で使われるとは大したものです。その成田亮は、現在、NHKの朝ドラ「おちょやん」に出演し、人気者になっています。また、「まともじゃないのは君も一緒」というラブ・コメディに清原果耶とW主演しています。なんだか柄じゃないような気もしますが、まあ、「まともじゃない」という点では一貫しているのでしょうか?(苦笑)