No.526
5月21日から公開された日本映画「いのちの停車場」を早速観ました。金沢を舞台にした在宅医療の物語であり、かつ吉永小百合と広瀬すずの初共演とあって、ずっと楽しみにしていました。わたしの予想を超える大傑作で、数分おきに感動の波が押し寄せ、何度もハンカチを濡らしました。わたしのブログは、サンレーグループ関係者もよく読んでいると思いますが、ぜひ、この映画を観ていただきたい。特に、サンレー北陸のみなさんに観てほしいです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「現役医師でもある作家・南杏子の小説を原作にした医療ドラマ。在宅医療を行っている診療所に勤めることになった元救命救急医が、さまざまな患者と向き合っていく。監督は『グッドバイ ~嘘からはじまる人生喜劇~』などの成島出。『最高の人生の見つけ方』などの吉永小百合、『居眠り磐音』などの松坂桃李、『一度死んでみた』などの広瀬すずのほか、田中泯、西田敏行らが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「長年にわたって大学病院で救命救急医として働いてきたものの、父・達郎(田中泯)が暮らす石川県の実家に戻ってまほろば診療所に勤めることにした白石咲和子(吉永小百合)。院長・仙川徹(西田敏行)、看護師・星野麻世(広瀬すず)、そして大学病院の事務職を辞めて咲和子を追ってきた野呂聖二(松坂桃李)らとともに、在宅医療を通して患者と接していく。救命救急とは違う医療の形に戸惑っていた咲和子だったが、次第に在宅医療だからこそできる命の向き合い方があることを学ぶ」
冒頭のショッキングな交通事故の場面から、多くの瀕死の患者が大学病院の緊急治療室に運び込まれて手術を受ける場面は緊迫感に溢れています。血だらけの患者、手足が切断された患者の姿などもリアルに再現しており、もっと穏やかな日本映画を想像していたわたしは少し驚きました。そこへ交通事故に遭った女の子を抱えた大学病院の事務員である野呂聖二(松坂桃李)が飛び込んできます。緊急医療室の責任者である白石咲和子(吉永小百合)は他の心停止した患者のもとに走り、残された野呂は苦しむ女の子を放っておけず、点滴をしてしまいます。彼は医師免許を持っておらず、点滴の針を患者に刺した行為は違法行為となってしまいます。このことが大学病院で大問題になるのですが、まさに時宜を得たエピソードであると思いました。現在、日本におけるコロナのワクチン接種が大混乱していますが、このような非常時に旧来の法律やルールに固執する厚生労働省の対応には違和感をおぼえます。人が死にそうなときには、どんな手を使ってでも命を救わなければなりません。そのことをこの映画は教えてくれます。あと、医療崩壊直前の日本で東京五輪を強行開催しようとするすべての人々に、この映画を観てほしいと思いました。
さて、この映画は吉永小百合と広瀬すずという新旧二大美人女優の共演というだけでも観る価値があります。ちなみに、わたしは二大女優の大ファンです。2019年に林修が吉永小百合にインタビューをした際、「注目する女優」を問われた吉永小百合は「広瀬すず」の名を挙げました。そのとき、「すずちゃんは、わたしの若い頃に似てると思います」とも語っています。吉永小百合は14歳で映画デビューし、これまでの映画出演本数は122本。日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を歴代最多の4度受賞するなど、日本映画界を代表する国民的女優です。一方の広瀬すずも14歳で女優デビュー。アカデミー賞・新人俳優賞をはじめ数々の賞を受賞し、「今最も勢いがある20代女優ランキング」で堂々第1位に輝く若手実力派女優です。
そんな吉永小百合と広瀬すずの2人が同じスクリーンに収まっている姿は、まったく違和感がなく、本当の家族みたいでした。年齢は吉永小百合が76歳で、広瀬すずが22歳なので、母娘というより祖母と孫娘の関係ですが、2人とも雰囲気というか、たたずまいがよく似ています。林修が並んだ2人を見て、「正統の継承」と口にした心境がよくわかります。2人とも正統派の美人女優なのです。2人の共演は、日本映画のアーカイブの意味でも重要ではないでしょうか。吉永小百合は林修のインタビューで、「いつか、女の一代記みたいな映画で、すずちゃんが前半を演じて、わたしが後半を演じるのも面白いかもしれませんね」と語っていますが、素晴らしいアイデアです。ぜひ、観たいです! 54歳も年齢が離れている2人ですが、この映画には患者役で石田ゆり子が出演しています。現在51歳の彼女も正統派の美人女優であり、彼女を間に入れると三世代の継承を感じることができました。一方、この映画には40歳の小池栄子が金沢芸者役で出演していますが、これがじつに中途半端な存在で、不要だと思いました。
それにしても吉永小百合が76歳というのが信じられません。この人、本当に人間でしょうか? 美魔女とかなんとか通り越して、もはや女神そのものです。しかしながら、その日本映画の女神・吉永小百合はもともと女優としては演技力がないとされており、この映画でも広瀬すずの演技力の方が上回っていました。しかし、吉永小百合の穏やかな表情、優しい笑顔には癒されます。西田敏行扮する「まほろば診療所」の院長・仙川徹が初めて吉永小百合扮する咲和子に会ったとき、「医者には、患者を安心させる顔と、そうでない顔があるけど、あんたは後者だ」と言うシーンがあります。この言葉は素晴らしい名言であると思いました。さらに、それは医師のみならず、看護師、介護士、葬祭スタッフといったすべてのケアワークに従事する人に共通していると思います。そして、ケアワークこそは、この世に最も必要なエッセンシャルワークなのです。
わたしは、わが社の葬祭スタッフの顔を1人1人思い浮かべましたが、「安心できる顔が多いな」と思いました。これは手前味噌でもなんでもなく、本当にそう思います。もちろん、最初は安心できない顔のスタッフもたくさんいましたが、日々、愛する人を亡くした方々に接していくうちに表情の中に「慈しみ」のようなものが出てくるのです。けっしてイケメンでも美人でもある必要はありませんが、わが社には安心できる顔のいいスタッフが揃っていると自負しています。葬儀といえば、この映画では、医師の咲和子が安置所に遺体に死に化粧をしてあげたり、亡くなった患者を偲んでの陰膳に涙する場面などがありますが、「いのちを救う」ことと「いのちを弔うこと」「いのちを偲ぶこと」はすべて繋がっているのです。それは、いずれも「いのちを重んじること」だからです。
医療・介護・葬儀といったケアワークは最終的に「グリーフケア」に集約されます。この映画には、さまざまな悲嘆を抱えて生きている人々が登場します。その人々を咲和子は抱きしめていきます。石田ゆり子演じる末期がんの女性棋士を抱きしめるシーンには泣けましたし、ラスト近くでは咲和子との別れを悲しむ広瀬すず演じる麻世と抱き合うシーンもありました。わたしは、ハグとはグリーフケアの基本にして最高の方法ではないかと思いました。悲しんでいる人、不安でパニックになっている人がいれば、抱きしめてあげて、背中をさすりながら「大丈夫、大丈夫・・・」と言ってあげるのがグリーフケアには求められると思います。もちろんグリーフケアの現場ではセクハラなどの危険性が存在するのは事実ですが、家族などは大いにハグをすべきだと思います。現在、新型コロナウイルスの感染防止の意味から、最高のグリーフケアであるハグができないことが残念ですね。
この映画の舞台は金沢です。わたしが日本で一番好きな街です。この映画では、浅野川や東茶屋街をはじめ、金沢の風景が美しく描かれています。また、金沢の四季が美しく描かれています。石川門の満開の桜も登場しますし、兼六園の雪吊りも登場します。雪の少ない地域や軽い雪が降る地域に見られる雪吊りは装飾的な要素が大きいでしょう。しかし、北陸に降る雪は重く、金沢の雪吊りは木々を守るために欠かせない冬に欠かせない知恵です。そして、重要なことは、柔らかくしなる枝は雪に折れず、むしろ強い枝の方が雪の重みで折れることが多いことです。弱い枝の方が折れずに、生き延びる。わたしは、金沢の雪吊りから人間の生き方を連想します。また、わたしは金沢の雪ほど美しいものはないと思います。金沢の雪は滞空時間が長く、まるで雪のかけらが空中でダンスを舞っているようです。
金沢といえば、わたしは、ある医師を思い出しました。今年、『命には続きがある』(PHP文庫)を一緒に出させていただいた矢作直樹氏です。矢作氏は、1981年金沢大学医学部を卒業後、麻酔科、救急・集中治療、内科の臨床医として勤務しながら、医療機器の開発に携わりました。その後、東京大学医学部大学院教授で東大病院救急部・集中治療部長として大活躍されたのは周知の通りです。臨床医であった矢作氏は一条真也の読書館『人は死なない』で紹介した大ベストセラーで、「死ぬのは怖くない」と訴えました。現役の東大医学部教授のメッセージだっただけに大反響を呼びました。映画「いのちの停車場」には、末期がんの小学生の少女が登場します。3度にわたる抗がん治療を受けても彼女は完治しませんでした。彼女は亡くなる直前に、看護師の麻世に「死ぬって痛い?」「死ぬって怖い?」「魔法みたいにスーッと死ねないかなあ?」と語りかけます。それを聞いた麻世は涙を堪えながら「先生が魔法をかけてくれるから大丈夫だよ」と言います。わたしは、そのシーンを観て、矢作氏が『人は死なない』を書かれたことはやはり素晴らしいことであったと思いました。
『命には続きがある』(PHP文庫)
さて、この映画のタイトルにある「停車場」とは英語でいえば「STATION」です。映画には「STATION」という名のレストランも登場しました。「ステーション」はもちろん停車場や駅という意味ですが、その語源は「シーズン」、さらには「セレモニー」と同じです。日本には「春夏秋冬」の四季があります。わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の停車場です。ステーションも、シーズンも、セレモニーも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。 わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれません。そして、それはそのまま、人生を肯定することにつながります。未知の超高齢社会を迎えた日本人には「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められます。それは、とりもなおさず「人生を修める覚悟」でもあります。
『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)
この映画には、「人生を終う」とは「人生を閉める」などのセリフが何度か登場しましたが、わたしには違和感がありました。なぜなら、わたしは「命には続きがある」と考えているからで、「人生を修める」という言葉を使ってほしかったです。ずいぶん以前から「高齢化社会」と言われ、世界各国で高齢者が増えてきています。各国政府の対策の遅れもあって、人類そのものが「老い」を持て余しているのです。特に、日本は世界一高齢化が進んでいる国とされています。しかし、この国には、高齢化が進行することを否定的にとらえたり、高齢者が多いことを恥じる風潮があるようです。それゆえ、高齢者にとって「老い」は「負い」となっているのが現状です。
そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。アートといえば、咲和子の父親の達郎はアーティスト、それも画家でした。演じた田中泯の演技が本当に素晴らしかったのですが、彼は人生の最期をアートのように美しく修めたいと願います。ここから尊厳死、安楽死の問題に立ち入り、映画は一気に深刻になっていくのですが、当然ながら「いのちを救うこと」が仕事である咲和子は苦しみます。その苦しみを抱えたまま映画が終わるのかと思いましたが、最後に朝日を見て、達郎が「きれいだなあ」とつぶやき、咲和子は泣き崩れるのでした。「太陽と死は最大の平等である」というにはわたしの持論ですが、最後に金沢の街に上ったSUNRAYが苦しむ人々を救ったことに、わたしは、猛烈に感動しました。このブログの冒頭にも書きましたが、サンレー北陸のみなさんはぜひこの映画を観てほしいです!