No.527
5月28日、東京から北九州に戻りました。 その夜、この日に公開された日本映画「HOKUSAI」をシネプレックス小倉のレイトショーで観ました。一条真也の映画館「いのちの停車場」で紹介した映画に出演していた田中泯があまりにも素晴らしかったので、彼が晩年の北斎を演じるこの映画を楽しみにしていました。期待通りに、田中泯が圧倒的な存在感を放っていました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『富嶽三十六景』などで知られる江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の謎多き生涯を、柳楽優弥と田中泯が演じた伝記ドラマ。貧乏絵師が北斎として江戸を席巻し、"画狂人生"をまい進する姿が描かれる。北斎の青年期を柳楽、老年期を田中が演じ、阿部寛、永山瑛太、玉木宏らが共演。メガホンを取るのは『相棒』シリーズや『探偵はBARにいる』シリーズなどの橋本一」
ヤフー映画の「あらすじ」は、「町人文化全盛の江戸。後の葛飾北斎である貧乏絵師の勝川春朗(柳楽優弥)は、不作法な素行で師匠に破門されたが、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した版元の蔦屋重三郎(阿部寛)に才能を認められる。北斎は次々と革新的な絵を手掛け、江戸の人気絵師となるが、幕府の反感を買ってしまう」です。
5月28日、わたしは東京出張から戻りました。東京に行ったときは、なるべく東京でしか観ることのできない映画を観るように心がけているのですが、現在は映画館に休業要請が出ており、今回は叶いませんでした。じつは、9都道府県が緊急事態宣言中ながら、5月28日公開の映画はいくつかあります。それで小倉に戻ってから映画鑑賞しようと思い、最初はラッセル・クロウ主演の「アオラレ」を観ようかなと考えていました。しかし、今朝、ある出来事があり、急遽、「HOKUSAI」を観ることに変更しました。その出来事については、最後に書きます。
この映画の主人公である葛飾北斎は、数々の名作を生み出した天才絵師です。米「LIFE」誌のミレニアム特集号「この1000年で最も重要なできごとと人物・100選」の中で唯一紹介された日本人でもあります。死後150年を経て、北斎は世界的な評価を得ているわけですが、彼はとにかく研究熱心な努力家でした。浮世絵の様式を習得するだけでは飽き足らず、さまざまな画派の技法を取り込み、中国や西洋の絵画も研究しました。多くの弟子を抱え、人気絵師の名をほしいままにし、90歳の長寿を全うしましたが、最期まで「あと5年、いや、あと10年生き長らえることができれば、真の絵描きになれたのに・・・・・・」と現状に満足せず、常に高みを目指していたことは有名です。「画狂人(または画狂老人)」の雅号で、神羅万象あらゆるものを描き、画道ひと筋、ひたすら邁進し続けた北斎の魅力がよく描かれた映画でした。
映画「HOKUSAI」で最も印象的だったのは吉原の遊郭の描写です。これまで吉原は数え切れないほどの映画で描かれてきましたが、「HOKUSAI」に登場する吉原は非常に魅力的です。性的に魅力的という意味ではなく、アートとして魅力的というか、とにかく美しくてカッコいいのです。ここで浮世絵界の大スターである喜多川歌麿や東洲斎写楽、さらには江戸の出版プロデューサーである蔦屋重三郎に連れられた北斎も加わって繰り広げられた宴は夢のようでした。映画では彗星の如く登場した写楽というニュースターにオールドスターである歌麿がジェラシーを抱き、まだ世に出ていない北斎は写楽に因縁をつけたものの相手にもされませんでした。もちろん架空の宴ですが、浮世絵ファンにはたまらないシーンです。また、遊郭という場所がいかに魔術的な魅力に溢れているかを再認識しました。アニメ「鬼滅の刃」の第2期も「遊郭編」ということで楽しみです。親御さんたちも、「子どもの教育上よろしくない」などと野暮なことは言わないで!
この映画では、阿部寛演じる蔦屋重三郎が重要な役どころとなっています。出版人であった彼は、朋誠堂喜三二、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られます。付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行しました。その後、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を出版するようになります。浮世絵では歌麿の名作を世に送ったほか、写楽や栄松斎長喜などを育てています。また、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版しています。 曲亭馬琴や十返舎一九などの世話もしました。しかし、映画と違って北斎との接点は薄く、番頭出身で蔦屋の2代目になった勇助が北斎を重用しました。享和2年(1802年)に北斎の狂歌本『潮来絶句集』を出版すると、装丁が華美ということで処罰されています。こちらが本物の史実ですね。
あと、永山瑛太演じる柳亭種彦も重要な役どころでした。映画では種彦と北斎がタッグを組んでいますが、実際の種彦は役者似顔絵の名人歌川国貞と提携し、戯曲風に構成された『正本製』、『偐紫田舎源氏』などによって不動の名声を得ました。映画では殺害されますが、天保の改革にあたって、『田舎源氏』が大奥を写したとの風評がたち絶版を命じられ、憂悶のあまり発病して死亡したとされています。もっとも、一説には自殺とも伝えられます。映画では、武士である種彦がお上を諷刺したり揶揄した罪で武士社会の中で抹殺されますが、最後まで筆名である「柳亭種彦」の名を捨てず、筆を絶つことを拒否しました。わたしも、「本を書くな」とか「ブログを書くな」などと言われたこともあり、最近では「経営者のくせに東京五輪中止を訴えるのはいかがなものか。自民党政権を批判するのか?」などと言う者も一部にはいるようですが、義によって自らが正しいと思うメッセージを広く伝えております。わたしも筆を折る気などは毛頭もありません。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん!
それにしても、70歳以降の北斎を演じた田中泯が最高にカッコ良かったです。わたしは、彼の大ファンなのです。最初にその存在を知ったのは、 一条真也の映画館「永遠の0」で紹介した映画でした。この日本映画の名作で、田中泯が演じたのは主人公・宮部久蔵 (岡田准一)と神風特攻隊の同期だった景浦です。景浦は戦後、極道の親分になります。そして、夫・久蔵を失って生活に困窮していた未亡人の大石松乃(井上真央)を助けるのですが、これがもう最高にカッコ良く、シビレました。冒頭に書いたように、「いのちの停車場」での主人公の女医の父親役も素晴らしかったです。映画「HOKUSAI」の演技も鬼気迫る印象でしたが、公開直前ヒット祈願報告会イベントでは、北斎の人生を振り返り、「社会の常識と向き合う」ことの重要性を訴えるスピーチがとても素敵でした。
「HOKUSAI」では、田中泯だけでなく、柳楽優弥、永山瑛太、玉木宏、瀧本美織、阿部寛といった俳優陣もみんな良かったです。この映画が公開された28日は、東京都の緊急事態宣言が6月20日まで延長されることが決定した日です。東京都ではシネコンなどの大型映画館がすべて休業しており、なんと公開日であるにもかかわらず立川のミニシアターでしか上映されないという信じられない状況となりました。それで、わたしは映画砂漠の東京を離れて小倉のシネコンで鑑賞したわけです。考えてみると、これまで映画砂漠は北九州の方で、いつも東京の映画環境を羨ましく思っていました。しかし、生まれて初めて東京で体験できないことが北九州では体験できるという不思議な状況となりました。東京の映画館でも休業が緩和されるようですが、わたしは、おそらくは史上初めて映画砂漠=文化砂漠が一時的に逆転した「2021年5月28日」をずっと記憶しておこうと思います。
さて、北斎といえば、「富嶽三十六景」が有名です。
発表したのは、なんと70歳を過ぎてからというのが驚きですが、そこには半世紀の画家人生の研鑽の成果が注ぎ込まれていました。北斎は、圧倒的な画力と奇想天外なアイディアとで、全図各地から眺めたさまざまな富士山の姿を描きました。じつは、28日の朝、宿泊しているホテルの客室の窓から富士山が見えたのです。
28日の朝、ホテル客室から見えた富士山
昨日の東京は雨だったので、「富士山は見えないだろうな」と期待していなかったのですが、28日の朝はからりと晴れて、見事な富士山の姿を拝むことができました。ちょうど富士山の右横には新国立競技場が見えました。高名な建築家のデザインだそうですが、わたしの目にはきわめて醜悪な建造物にしか見えませんでした。なにしろ、その左横には、この世で最も美しい富士山があるのです。
富士山を見ながら朝食を取りました
わたしは、一心不乱に富士山を見つめながら、ルームサービスで頼んだ朝食を取りました。現在、定宿のホテルのレストランが緊急事態宣言で休業しており、朝食はルームサービスが奨励されているのです。食後にコーヒーを飲みながら、わたしは「あ、富士山といえば『富嶽三十六景』だなあ。そうだ、今夜は小倉の映画館で『HOKUSAI』を観よう!」と思ったのでした。映画の中で、蔦屋重三郎が「富士は二つとない美しさだから、不二と呼ばれる」というセリフを聞いたとき、わたしは「ああ、やっぱり『アオラレ』じゃなくて『HOKUSAI』を観て良かった」と思ったのでありました。